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被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2

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pipopipo555jp

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被告準備書面(3)要旨2006年6月2日その2
ソース:http://www.sakai.zaq.ne.jp/okinawasen/syomen3.html




第2 同書面第2(渡嘉敷島における集団自決の神話と実相)について


1 同1(渡嘉敷島の集団自決の神話)について


本件書籍三「沖縄問題20年」(甲A2)に、原告引用のとおりの記述があることは認める。

2 同2(渡嘉敷島における集団自決の経過の概要)について


(1)渡嘉敷島における集団自決の経緯

ア 原告らは、安里喜順元巡査の手記(甲B16)や
星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)を根拠に、赤松隊長による自決命令はなかったと主張している。しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は以下のとおりであり、赤松隊長による自決命令があったことは明らかである。

イ 前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、
日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言していた。

そして、渡嘉敷島においては、当時兵事主任であった富山(新城)真順氏が証言しているとおり(乙12、乙13-197頁)、米軍が上陸する直前の1945年(昭和20年)3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任の富山氏に対し渡嘉敷部落の住民を役場に集めるように命令し、富山氏が軍の指示に従って17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に集めると、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手榴弾を2箱持ってこさせ、集まった20数名の者に手榴弾を2個ずつ配り、
「米軍の上陸と渡嘉敷島の玉砕は必至である。敵に遭遇したら1発は敵に投げ、捕虜になるおそれのあるときは、残りの1発で自決せよ」
と訓示したのである。

渡嘉敷島において、軍を統率する最高責任者は赤松隊長であり、手榴弾は軍の厳重な管理のもとに置かれていた武器である。兵器軍曹が赤松隊長の意思と関係なく、手榴弾を配布し自決命令を発するなどということはありえない。すなわち、この時点であらかじめ軍(すなわち赤松隊長)による自決命令があったものである。

そして、米軍が渡嘉敷島に上陸した3月27日、赤松隊長から兵事主任に対し、
「住民を軍の西山陣地近くに集結させよ」
という命令が伝えられ、安里喜順巡査らにより、集結命令が住民に伝えられた(乙12、乙13-197頁)。さらに集団自決で生き残った金城重明氏の証言(乙11-279頁~287頁)、古波蔵(米田)惟好氏の証言(乙9-768頁~769頁)にあるとおり、同27日夜、住民が同命令に従って、各々の避難場所を出て軍の西山陣地近くに集まり、翌3月28日米軍の艦砲や迫撃砲が打ち込まれる状況の中で、村の指導者を通じて住民に軍の自決命令が出たと伝えられ、防衛隊員(陸軍防衛召集規則(昭和17年9月26日陸軍省令第53号)に基づいて召集された軍の正規兵)が手榴弾を持ち込み、住民に配り、そこで集団自決がおこなわれたのである。

以上の事実経過は、「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10)にあるとおり、「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」ものに他ならない。

(2)原告ら主張の「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」について

ア 原告らが、「渡嘉敷島における集団自決の経過の概要」と主張するところのものは、
ほとんど星雅彦氏の記事「集団自決を追って」(甲B17)に依っている。

しかし、まず「集団自決を追って」は、作家である星氏が取材し執筆したものであるが、いかなる対象に対していかなる取材を行ったか明らかではない。そして同記事は、星氏自身が、
「本稿は私が当時の村長や駐在巡査や若干の村民から取材した集団自決の内容を、私なりにまとめ、悲劇の再現を試みたものである。いな、悲劇の再現とは、口はばったい言種である。ただひたすら、二十六年前の悪夢を想像してみたまでである」(傍点被告訴訟代理人)
とするとおり、渡嘉敷島の集団自決の事実を記述したものとはいえない。

筆者自らが認めるとおり、「集団自決を追って」は想像に基づいて再現したものにすぎず、同資料に基づいて赤松大尉による集団自決命令がなかったとは言えない。

しかも、「集団自決を追って」は、
「防衛隊の過半数は、何週間も前に日本軍から一人あて二個の手榴弾を手渡されていた。いざとなったら、それで戦うか自決するかせよということであった」
とし(甲B17、210頁上段)、その防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられた(同210頁下段)としているのであって、同資料は前記(1)記載の集団自決の経緯を否定するものではない。

イ また、原告らが星氏の「集団自決を追って」とともに挙げている安里喜順元巡査の手記(甲B16)は信用性がない。

すなわち、「集団自決を追って」においては、赤松大尉自らが住民に軍陣地の北側の西山盆地への移動を指示したことになっているが(甲B17-208頁中段。なお赤松大尉自身
「部隊は西山のほうに移るから住民も集結するなら、部隊の近くの谷がいいだろう」と言ったとしている(甲B2-217頁))、「安里元巡査の手記」では、赤松大尉から場所の指定はなく、軍陣地付近へ避難することは住民たちが決定したことになっている。また「集団自決を追って」では、3月28日に、手榴弾が足りないことから、防衛隊が手榴弾を取りに出掛け、さらに防衛隊によって村民に「玉砕する」話がひろめられ、その後集団自決がはじまったという経過になっているが、「安里元巡査の手記」では、安里は玉砕に反対し、部隊長(赤松)の確認をとるために伝令を出したところ、その伝令が帰ってこないうちに集団自決がはじまったことになっている。

このように安里元巡査の手記は、星氏の記事との比較においても、赤松大尉や自己の責任を回避しようと意図していることが明らかである。安里元巡査は、集団自決の現場へ住民を集結させ、集団自決の現場から少し離れたところから
「私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決はできません」
と言って見ていたとされる人物であり(乙9-768頁)、その責任を逃れるため、集団自決は軍や赤松隊長の命令によるものではなかったとしなければならない立場にあるもので、その手記は信用性があるとはいえない。

3 同3(「鉄の暴風」と赤松命令説)について


(1)同(1)(赤松命令説の発端)について
渡嘉敷島の自決命令について最初に記載された資料は「鉄の暴風」であること、「慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相」には自決命令の記載がないことは認め、その余は否認する。

(2)同(2)(「鉄の暴風」に登場した赤松命令説)について

ア 同a)の「鉄の暴風」の記載は認める。
イ 同b)は認める。なお「牧浜篤三」ではなく「牧港篤三」である。
ウ 同c)のうち太田良博が渡嘉敷島には自ら行かなかったこと、
山城安次郎、宮平栄治の取材をしたことは認め、その余は否認する。

(3)同(3)(軍命令による集団自決の証言者)について

ア 原告らは、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)51頁を引用して
「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は渡嘉敷島へは行かず、那覇において山城安次郎と宮平栄治の二人のみから取材したとし、山城は渡嘉敷ではなく座間味村の出身で集団自決当時は座間味村におり、宮下は戦後南方から復員したのであるから、渡嘉敷島の集団自決を目撃しておらず、この二人が証言したとしても間接的なものでしかない、と主張している。

しかし、太田良博は山城と宮平からのみ取材したのではなく、直接体験者から取材をしており、太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」の記述は誤りである。

すなわち、太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり、「鉄の暴風」は、沖縄タイムス社が体験者を集め、その人たちの話を記録して文章化したもので、渡嘉敷島に関する記録も、沖縄タイムス社が直接体験者を集めて記録したものである(223頁)。証言者を集めたのは沖縄タイムス社の専務だった座安盛徳氏であり、証言者を集めた場所は「那覇市内のある旅館の一室」で、旅館に集まった証言者の中に渡嘉敷村長だった古波蔵惟好氏もいた(224頁)。また、太田良博は、渡嘉敷島が戦場となった当時、国民学校の校長であった宇久真成氏からも渡嘉敷島での体験を聞き、「鉄の暴風」にある記録を書いたものである(226頁~227頁)。

以上のとおり、「鉄の暴風」は、伝聞証拠に基づくものではなく、まさに集団自決の現場において集団自決を直接体験した人々から取材し、執筆したものである。

太田良博自身、
「戦後二十年もたって曽野氏が赤松大尉やその隊員から聞いた話よりも、戦後間もなく戦争体験者から聞いた話によって書かれた『鉄の暴風』の記録がより確かであると信ずる」
としている(225頁)。

イ また原告らは、「鉄の暴風」について、
沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にインタビューしていないこと等から「沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる」などとも主張しているが、集団自決の直接体験者からの取材等に基づいて編集することは(知念元副官や安里元巡査のインタビューをしていないとしても)、原告ら主張のような編集方針を疑わせるような事情には全くならない。

(4)同(4)(「鉄の暴風」の本質的誤り)について

原告らは、「鉄の暴風」が米軍の渡嘉敷島上陸の日時を3月26日午前6時ころとしている点について、これは3月27日の誤りであり、「鉄の暴風」の事実調査がずさんで信用できないとする。

しかし、わずか1日の誤差でしかなく、同書の記載が同一の米軍上陸の事実を指していることは明らかであり、この一事から、「鉄の暴風」の事実調査がずさんであることにはならない。

(5)「ある神話の背景」の信用性について

また、原告らの主張は、曽野綾子著「ある神話の背景」(甲B18)の記述にほぼ全面的に依拠しているものであるが、同書の記述内容は、以下に述べるとおり、一方的な見方によるもので信用性がない。

ア まず、「ある神話の背景」によれば、
「鉄の暴風」は直接集団自決を体験した者からの取材に基づいて執筆されたものではないとしている(同書51頁)が、前記のとおり、執筆者である太田良博が、当時の渡嘉敷村の古波蔵村長、宇久真成国民学校校長、その他の集団自決体験者から直接取材したことは明らかである。

イ また、曽野綾子氏は、同書執筆のための取材過程において、
渡嘉敷村の兵事主任であった富山(新城)真順氏に会ったことはないと証言している(乙24「裁かれた沖縄戦」(曽野綾子証言)219頁、90項)。

しかし、曽野氏の取材経緯を調査した安仁屋政昭沖縄国際大学教授が指摘しているように、
「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、新城真順氏は渡嘉敷島で、二回ほど曽野綾子氏の取材に応じている。会見の場所は、源洋子さん(当時66歳)経営の、なぎさ旅館である。なぎさ旅館は、そのころ渡嘉敷部落で唯一の旅館で、奥に洋間が二つあったが、曽野綾子氏は左手の洋間に宿泊していた。新城真順氏は、その洋間に招かれ、曽野綾子氏の取材に数時間もまじめに対応し、証言を拒否するような場面はなかったという。」(乙11-14頁)
のであり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によって、不都合なものを切り捨てているといわざるを得ない。

安仁屋教授も
「兵事主任に会うこともなく、その決定的な証言も聞かなかったということであれば、曽野綾子氏の現地取材というのは、常識に照らしても納得のいかない話である。また、兵事主任の証言を聞いていながら『神話』の構成において不都合なものとして切り捨てたのであれば、『ある神話の背景』は文字どおりフィクションということになる」(乙11-14頁~15頁)
としている。

ウ なお、「ある神話の背景」は、
渡嘉敷島の集団自決命令について記述した「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(乙10、以下「戦闘概要」という)と「渡嘉敷島戦争の様相」(乙3、以下「戦争の様相」という)は、「戦闘概要」「戦争の様相」の順で引き写したと推測し、「戦闘概要」には「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」と書かれているのに対し「戦争の様相」にはその部分がないことから、「戦争の様相」作成に関与した「当時の古波蔵村長、尾比久孟祥防衛隊長は赤松命令を確認しなかったことになる」と結論づけている。(同書48頁)。

しかし、「戦闘概要」と「戦争の様相」の順序については、伊敷清太郎氏が詳細に分析しているとおり、「戦闘概要」には「戦争の様相」の文章の不備(用字、用語、表現など)を直したであろう跡が随所に見受けられること、当時の村長の姓が「戦争の様相」では旧姓の古波蔵とされているが、「戦闘概要」では改姓後の米田とされていることなどから、「戦争の様相」が先で、これを補充したものが「戦闘概要」であると考えられる(乙25 伊敷清太郎著「『ある神話の背景』における『様相』と『概要』の成立順序について」、なお乙24-210~212頁 曽野証言68~71項)。このように「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたもので、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみることができる。

エ 以上のとおり、「ある神話の背景」は、一方的な見方によるもので、事実の記述について信用性があるとはいえない。

4 同4(自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在)について


原告らは、赤松大尉が自決命令を出したことを否定しており、自決命令が誰を通じて住民側に伝えられたかも全く不明であるとし、「命令者も受領者も伝達者もわからない命令はあり得ない」ので、「自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である」と主張する。

しかし、渡嘉敷島における集団自決の経緯は、前記2(1)記載のとおりであり、軍(すなわち赤松隊長)が自決命令を出したものであって、3月28日の段階での命令の伝達経緯が明確に特定されていないからといって(但し防衛隊員を通して伝達されたものであることは明らかである)、赤松大尉による自決命令が存在しなかったことにはならない。


5 同5(赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』)について


原告らは、「戦闘概要」には赤松大尉による集団自決命令の記述があるが、「戦争の様相」にその記述がないことについて、「遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたものと推測される」とするが、これは根拠のない憶測にすぎない。

前記3(5)ウ記載のとおり、「戦争の様相」の後に「戦闘概要」が作成されたのであり、「戦闘概要」に「赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が出された」ことが明記されたとみるべきである。

6 同6(自決命令の言い換え)について


(1)同(1)(古波蔵惟好の場合)について

原告らは、自決命令の村民側の最終受領者である古波蔵村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である、と主張する。しかし古波蔵村長が、赤松元隊長から自決命令があったとしていることは明らかである。

まず、古波蔵村長は、週刊朝日の記事で「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」(甲B20)と言ったとされているが、「沖縄県史10巻」(乙9-768頁~769頁)において、より具体的に、赤松隊長の命令によって陣地の裏側の盆地に集合させられたこと、陣地から飛び出してきた防衛隊員と合流したこと、米軍の艦砲や迫撃砲が執拗に打ち込まれている状況であったこと、防衛隊員の持ってきた手榴弾によって集団自決が行われたこと、古波蔵村長自身手榴弾を防衛隊員から渡されたこと等を証言しており、古波蔵村長が、赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された、としていることは明らかである。

古波蔵村長は、昭和43年4月8日付琉球新報(乙26)においても、赤松大尉が「集団自決を命令したことも、戦わずして生き延びようとしたこともすべて真実だ」としている。

原告は、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結びつけることは、争点をずらすもので、論理の飛躍である、と主張するが、渡嘉敷島における集団自決の経緯というのは前記2(1)記載のとおりであり、古波蔵村長の証言もまさにこれを裏づけるものであって、争点をずらすものでも、論理の飛躍でもない。

(2)同(2)(富山真順元兵事主任の場合)について

原告は、富山元兵事主任が証言している、兵器軍曹が手榴弾を一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には自決せよと言って渡したという事実そのものが疑わしい、などと主張するが、富山元兵事主任が虚偽の事実を述べる理由は全くない。

また原告は、富山氏が「潮」1971年11月号(甲B21)において、赤松隊長からの自決命令にふれていないことを問題としているが、「潮」の記事は簡単なものであって(同記事には「自決のときのことは話したくないンですがね・・・・・・」とある)、「俄かに、手榴弾を配布したことが自決命令であるといい出した」などということでは全くない。朝日新聞記事(乙12)でも「43年後の今になってなぜ初めてこの証言を?」という問に、富山氏は
「玉砕場のことなどは何度も話してきた。しかし、あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われようとは夢にも思わなかった。当時の役場職員で生きているのは、もうわたし一人。知れきったことのつもりだったが、あらためて証言しておこうと思った」
と証言し、軍(赤松隊長)により自決命令が出されたことを明確にしている。

7 同7(「陣中日誌」)について


原告は、「陣中日誌」(甲B19)には、自決命令が出た形跡がないとする。

しかし、同「陣中日誌」は、昭和45年3月に赤松元大尉が渡嘉敷島を訪れた際の抗議行動が報道された後の昭和45年8月に発行されたものであり(したがって本来の陣中日誌ではない)、赤松元大尉が自決命令を出したことを否定している以上、赤松隊が戦後20年経過した後に発行した「陣中日誌」に自決命令の記載がないのはむしろ当然のことである。同「陣中日誌」に自決命令の記載がないからといって、自決命令がなかったことの根拠にはならない。

なお、同「陣中日誌」の原告引用部分には、昭和20年3月29日の集団自決後の約200名の死者の光景が記述されているが、「神話の背景」では、赤松隊の中では、集団自決後の多数の死者をみた者はいないことになっている(甲B18-131頁)。


8 同8(衛生兵の派遣と恩賜の時計)について


(1)同(1)について

原告は、赤松部隊からは、渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後、衛生兵を派遣していることから、赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかない、と主張する。しかし、古波蔵村長が証言しているのは、衛生兵が住民を治療したという事実だけであり、戦場の混乱した状況の中で、現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと、赤松隊長が自決命令を出したこととが矛盾するわけではない。

(2)同(2)について

不知。

なお渡嘉敷村資料館に赤松隊長の時計が飾ってあるとしても、赤松隊長が自決命令を出さなかったことの根拠になるわけではないことはいうまでもないことである。

9 同9(赤松命令説をつくったもの)について


原告は、「神話の背景」をもとに(前記のとおり、「神話の背景」は一方的な見方によっているものであり、信用性のないものである)、自決命令がなかったことを前提に、赤松命令説をつくったものとしてその推理を縷々述べているが、仮定に基づく憶測にすぎない。

10 同10(当時の沖縄県民の意識について)について


原告は、「神話の背景」にある富野稔元少尉の言葉を引用して、住民が軍の命令や強制なしに集団自決をしたと主張するようである。

しかし前記のとおり、沖縄においては、「皇民化教育」が強力に推し進められ、日本軍は「軍官民共生共死の一体化」なる方針の下に、軍民一体の総動員作戦を展開していたもので、座間味島や渡嘉敷島の日本軍は、秘密保持のため住民が村外に避難することを許さず、米軍が上陸した場合には住民とともに玉砕する方針を宣言し、住民に対し米軍の捕虜となることを禁じ、米軍の捕虜となった場合は女は強姦され、男は八つ裂きにされるなどと脅し、いざというときは自決するよう言渡していたものである。そして、夥しい数の米軍の艦船等によって島を包囲され、逃げ場を失った住民は、集団自決のために集められ、自決用の手榴弾を渡されるなどして、自決に追い込まれたのである。軍の強制や関与なしに自発的に自決したものでは決してない。


11 同11(「神話の背景」以後)について


(1)同(1)について

「神話の背景」が一方的な見方によっていることは前記のとおりであり、同書により渡嘉敷島の集団自決命令がなかったと評価され、今日それが定着している、などということはない。
(2)同(2)について

「沖縄問題20年」が、昭和49年に出庫終了となったのは「神話の背景」により自決命令が虚偽であることが露見したからではない。

「沖縄問題20年」の著者である新崎盛暉氏と中野好夫氏は、昭和40年6月に同書を出版後、昭和45年8月に「沖縄・70年前後」を出版した。その後、両氏は昭和47年5月の沖縄の本土復帰を機に、「沖縄問題20年」と「沖縄・70年前後」の両著作をあわせ、昭和47年5月の復帰までの歴史をまとめて、昭和51年10月に「沖縄戦後史」を出版した。以上の経緯から、「沖縄問題20年」は昭和49年に出庫終了となったものである。

(3)同(3)について

「太平洋戦争」の第2版は、渡嘉敷島の記載を完全に削除したのではなく
「沖縄の慶良間列島渡嘉敷島に陣地を置いた海上挺身隊の隊長赤松嘉次は、米軍に収容された女性や少年らの沖縄県民が投降勧告に来ると、これを処刑し、また島民の戦争協力者等を命令違反と称して殺した。島民329名が恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い凄惨な集団自殺をとげたのも、軍隊が至近地に駐屯していたことと無関係とは考えられない。」
と記載しており、軍による自決命令がなかったとしているわけではない。


第3 敬愛追慕の情侵害の不法行為の成立要件(補充)


被告ら準備書面(1)3頁以下に記載した死者に対する遺族の敬愛追慕の情侵害の不法行為責任の成立要件について、同準備書面で引用した東京地方裁判所判決(乙1)の控訴審判決(東京高等裁判所平成18年5月24日判決・乙27)は、「比較的広く知られ、かつ、何が真実かを巡って論争を呼ぶような歴史的事実に関する表現行為について、当該行為(故人の生前の行為に関する事実摘示又は論評)が故人に対する遺族の敬愛追慕の情を違法に侵害する不法行為に該当するものというためには、その前提として、少なくとも、故人の社会的評価を低下させることとなる摘示事実又は論評若しくはその基礎事実の重要な部分が全くの虚偽であることを要するものと解するのが相当であり、その上で、当該行為の属性及びこれがされた状況(時、場所、方法等)などを総合的に考慮し、当該行為が故人の遺族の敬愛追慕の情を受忍しがたい程度に害するものといい得る場合に、当該行為について不法行為の成立を認めるのが相当である。」と判示した。

このように、本件のような歴史的事実については、当該歴史的事実に関する表現行為において摘示された事実がその重要な部分において「一見明白に虚偽」(地裁判決)ないし「全く虚偽」(高裁判決)であることを要するものである。

                                 以 上


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