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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3

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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その3






第2 渡嘉敷島における集団自決の神話と実相


1 渡嘉敷島の集団自決の神話


本件書籍三『沖縄問題20年』(甲A2)は、渡嘉敷島の集団自決について次のように記述している。
「立ち上がることもなければ、戦うこともなく、民衆を殺しただけの軍隊もあった。ほとんどすべての沖縄戦記に収録されている、慶良間の赤松部隊の話がもっとも顕著な例である。那覇港外に浮かぶ慶良間列島は、晴れた日には琉球大学のある丘から一望のもとに見渡せる美しい島々で、戦前は野性の鹿の住み屋として知られていた。この慶良間列島の渡嘉敷島には、赤松大尉を隊長とする海上特攻隊130 名が駐屯していた。この部隊は船舶特攻隊で、小型の舟艇に大型爆弾2 個を装備する人間魚雷であった。だが赤松大尉は船の出撃を中止し、地上作戦をとると称して、これを自らの手で破壊した。そして住民約3 百名に手榴弾を渡して集団自決を命じた。赤松大尉は、将校会議で『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張したという。」
そしてこれがあたかも事実であるかのように喧伝された。  

2 渡嘉敷島における集団自決の経過の概要


しかし、安里喜順元巡査(甲B16・沖縄県警察史2巻772~775頁)や星雅彦記者(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』210~213頁) によると、赤松隊長による自決命令はなく、現実の渡嘉敷島の集団自決の経過は概ね以下のようなものであったことがわかる。

(1) 集団自決があったのは3月28日の午後 1時頃であった。
3月23日には初めて本格的渡嘉敷島への空襲で村の役場や郵便局が焼けた。25日には艦砲射撃も加わった。古波藏村長(33 歳) は在郷軍人であった。安里巡査は、沖縄本島に妻子を置いて単身1 月下旬に赴任したばかりであった。小学生まで陣地構築に協力してきた村民が、これからどうするか赤松隊長に相談するために安里巡査は、27日朝から赤松隊長を捜し回った。

(2)安里巡査は、27日午後、夕方近くになって西山の谷間の日本軍陣地で
陣地構築の指図をしていた赤松隊長にあった。陣地壕はまだほとんど掘られていなかった。赤松隊長は安里巡査に「島の周囲は敵に包囲されているから、逃げられない。軍は最後の一兵まで戦って島を死守するつもりだから、住民は一か所に避難したほうがよい。」といった。そこで安里巡査は、居合わせた防衛隊員に西山盆地への集合の伝達を依頼し、自らも各壕を回って伝えた。防衛隊の一人から村長へ伝達をし、村長からも同様な伝達が出た。

(3)渡嘉敷村の約2/3 の人の人達が大雨の中を恩納川にそって
北上した。米軍に追われた阿波連の人たちは1 時間遅れて西山に到着した。3 月28日、朝7 時ころ、防衛隊の数人が「西山盆地」に集まれと叫び、村民は命令どおり200 m離れた平坦な場所に移動した。3時間の間、集団の中で村長、郵便局長、校長、助役や巡査や録場の幹部十数人が協議していた。これからどうするかを意見を出し合ったが、話し合ううちに「玉砕するほかない。」という結論になってしまった。しぜんに玉砕ということになって、その恐怖心から逃れられらなくなった。

(4)具体的にどうするかという段になって。みんなが死ぬにしては
手榴弾が足りないということになり、一人の防衛隊が、「友軍の弾薬貯蔵庫から、手榴弾を取ってきましょう」と申出、防衛隊3人が出掛けた。

それから1時間後に防衛隊によって村民に対する玉砕する話がひろめられた。村の指導者はそれぞれ家族や親戚の人に玉砕の話をした。古波藏村長がみんなの中央に立って「敵に取り囲まれてもう逃げられないから、玉砕しなければならない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と言った。手榴弾の炸裂音が起こった。

(5)逃げ出す集団もあった。集団から立ち去った約300 人が、
日本軍陣地へ向かってなだれたが、300mも行かないうちに米軍の迫撃砲の攻撃を受けた。村長は逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思をうけた防衛隊長屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城真順が集団より先がけて日本軍陣地に駆けこみ「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸して欲しい」と願い出たが「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。なだれ込んだ集団は日本軍陣地100 mまで来ていた。泣き叫ぶ村民を将校は抜刀して立ち去るように威嚇した。

村民は恩納川の谷間へと散っていった。

(6)西山盆地でほとんど無傷でいた阿波連のひとたちのあいだでは
300 人の集団が立ち去ったあとで無残な殺し合いが始まっていた。迫撃砲の炸裂を聞きながら、ナタやカマを借りて生木を切ってこん棒を作り、ベルトで家族を殺していた。

手榴弾で死にそこなった渡嘉敷の人たちの間では農具を凶器に殺し合った。渡嘉敷島では、このとき多数の人が集団自決したと言われる。


3 『鉄の暴風』と赤松命令説


赤松隊長が出したとされる渡嘉敷島の自決命令は、どのようにして現れたか、誰が言い出したものかが問題である。

(1)赤松命令説の発端

渡嘉敷島の自決命令について、最初に記載された資料は『鉄の暴風』(乙2 )と『慶良間列島渡嘉敷島戦闘概要』(以下『戦闘概要』という)(乙10・資料1)であるが『戦闘概要』と同じ機会に同一人により作成されと思われる『慶良間列島戦況報告書の渡嘉敷島戦争の様相』(以下『戦争の様相』という)(乙3)には自決命令の記載がない。その後に作成された渡嘉敷島の自決命令にふれるに関する文書は、『鉄の暴風』か『戦闘概要』を引写し、あるいは脚色を一部加えたものに過ぎない。

以下、『鉄の暴風』を曽野綾子作『ある神話の背景』(以下『神話の背景』という)(甲18) や関係資料をもとに検討する。

(2)『鉄の暴風』に登場した赤松命令説

赤松元隊長が否定する自決命令はどういう経過で、『鉄の暴風』に記載されたのだろうか。

a)赤松隊長の自決命令で集団自決が行われたと断定した最初の資料である『鉄の暴風』は
沖縄タイムス編著で朝日新聞から昭和25年8 月2 日に発行された(甲B7) 。

『鉄の暴風』によると、

「翌3月26日の午前6 時米軍の一部が渡嘉敷島に上陸した。住民はいち早く各部落の退避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原付近の西山A 高地に移動したが、移動完了とともに、赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対して「住民は捕虜になる怖がある。軍が保護して直ぐ西山A 高地の軍陣地に避難終結せよ」と命令を発した。さらに住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。さらに28日には、恩納河原の住民に対して思いがけない自決命令が赤松大尉からもたらされ『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された」、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』と主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した。」

と記載されている。

b)『鉄の暴風』を作成した沖縄タイムス社は昭和23年に設立され
『鉄の暴風』の編纂を企画したのは、翌24年であった。「まえがき」には、「壕中で新聞開発の使命に生きた、旧沖縄新報社全社員は、戦場にあって具に体験した苛烈な戦争の実相を世の人々に報告すべき責務を痛感し‥‥」と書かれている。また「まえがき」は、執筆者が牧浜篤三、伊佐良博、沖縄タイムス記者であったとしている。

曽野綾子氏は『神話の背景』(甲B18)で執筆者の「太田良博氏」に取材したことを紹介している。太田良博と『鉄の暴風』の「まえがき」の伊佐良博とは同一人物である。

c)これによれば、太田良博は渡嘉敷島には自らは行かなかった。
辛うじて那覇で捕らえた二人の証言者から取材した。一人は「当時の座間味村の助役であり、現在の沖縄テレビ 社長である山城安次郎」もう一人は「南方から復員して帰ってきていた宮平栄治」という。山城安治郎は目撃していない渡嘉敷島の事件についてどんな証言をしたのであろうか。もう一人の宮平栄治は「そのような取材をうけた記憶はない」と言っているのである(甲B18・『神話の背景』51p )。

(3)「軍命令による集団自決」の証言者

『鉄の暴風』で渡嘉敷島の「軍命令による集団自決」を証言した者は誰であろうか。

a) 証言者の一人は、
座間味村の助役山城安次郎であり、もう一人は、自身は取材をうけた記憶はないという戦後南方から復員した宮平栄治であった(甲B18・『神話の背景』51p )。

どちらも渡嘉敷の惨劇の立会者ではなく、「証言」したとしても、間接的なものでしかない。実際に証言できる人は、直接事件を体験し、または目撃した島民と、当時島に駐留していた軍人だけである。

b)しかし、軍の関係者で、何らかの取材を受けた人は、
赤松隊長はもとより、隊長の副官で隊長の命令はすべて承知している立場にある沖縄出身の知念朝睦元少尉も含めて、一人もいない。

c)軍と島民との間で連絡役などもした安里喜順元巡査は、
知念元少尉と同様沖縄出身だが地元ジャーナリズムの取材は昭和45年まで一切受けたことがないという。 

残るは古波蔵元村長以下、事件を体験、または目撃した渡嘉敷島民だけであるが、事件の起こった当時の異常な状況を考えれば、軍の命令があったかなかったか、あったとしたら誰を介して、誰に命令が来たかなど証言できる人は村長、助役等、ごく小数のはずである。 

山城安次郎、宮平栄治の両名が『鉄の暴風』の取材に実際に協力したとしても、事件の現場にいて指導的立場にあった古波蔵元村長や屋比久元防衛隊長等に証言を求めざるを得なかったであろう。

ところが古波蔵元村長の自決命令に関して説明するところは極めて曖昧であり、屋比久元防衛隊長が自決命令について発言している事実は確認出来ない。

c)しかし沖縄タイムスが、『鉄の暴風』の「まえがき」に嘔うように、
「苛烈な実相を、世の人々に報告すべき責務を痛感した」のであれば、戦後は内地に復員していて連絡が取りにくかったであろう赤松元大尉はともかく、少なくとも、沖縄在住の知念元副官や安里元巡査にすらインタビューした形跡もないということは沖縄タイムスの編集方針が当初から、政治的で偏ったものであったか、または地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったかのいずれかとしか考えられない。

地元住民側からこれらの人々を排除する働きかけがあったとは考えにくい。けだし、渡嘉敷島の住民と赤松部隊の元隊員と戦病死隊員の遺族は昭和25年から渡嘉敷島民との合同慰霊祭を5年ごとに行って、往時を偲び、戦死者、戦没者の霊を弔い交流を深め60周年にあたる平成16年 3月28日まで続けられた事実がある。また赤松元隊長の恩賜の時計や浮田堅次郎軍医の聴診器が渡嘉敷村の資料館に記念品として展示されている事実からして渡嘉敷島の村民と赤松部隊の関係者との間に溝があったとは考えがたい。そうすれば、『鉄の暴風』が当初から沖縄タイムスの政治的で偏った編集方針により作成された疑いが強いものといえる。

(4)『鉄の暴風』の本質的な誤り

さらに『鉄の暴風』には、渡嘉敷島の記述に本質的な誤りがある。

『鉄の暴風』は米軍の渡嘉敷島への上陸が3月26日午前6時頃であったとするが、米軍の渡嘉敷島への上陸は防衛庁防衛研修所戦史室による『沖縄方面陸軍作戦』においては3月27日の午前9時8分から9時43分とされている。

米軍上陸という決定的に重大な記録的事実が間違って『鉄の暴風』に記載され、さらにその後に作成された『戦闘概要』や『戦争の様相』においても米軍上陸が3月26日と間違って引用されている。これは事実調査の杜撰さと合わせて、『鉄の暴風』、『戦闘概要』、『戦争の様相』が一様に信用できないことを示している。 

4 自決命令の命令者、伝達者、受領者の不在


赤松元大尉から自決命令が出されたかを、別の視点で検討する。

(1)『鉄の暴風』の記述

前述のとおり赤松元大尉からの自決命令にふれる最初の資料は『鉄の暴風』であり、そこでは「恩納河原に避難中の住民に対して思い掛けぬ自決命令がもたらされた。『ことここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する』というのである。この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに5日目だった」(乙2・34 頁) 、「住民には自決用として、32発の手榴弾が渡されていたが、さらにこの時のために、20発増加された( 乙2・35頁) 、「翌27日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は『持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦をまじえねばならぬ。事態はこの島に住むすべての人間に死を要求している』ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉( 沖縄出身) は悲憤のあまり、慟哭して軍籍にある身を痛感した」と記載されている( 乙2・36頁) 。

(2)赤松元大尉は自決命令を出したことを明確に否定している(甲B2)。
さらに恩納河原に避難中の住民にもたらされたとされる自決命令はだれを通じて、住民側の誰に伝えられたか全く不明である。命令者も受領者も伝達者も分からない命令はあり得ないにもかかわらず、『鉄の暴風』では自決命令があったとされる。 

(3)赤松隊長から自決命令が出されるとすれば、
副官であった知念元少尉を通じてであるはずであるが、知念元少尉は自決命令が出た事実を否定する。

『沖縄県史第10巻』所収の手記『副官の証言』で、知念元少尉は、「赤松隊長は、村民に自決者があったという報告を受けてはやまったことをしてくれた、と大変悲しんでいました。私は赤松の側近の一人ですから赤松隊長から私を素通りしていかなる下命も行われないはずです。集団自決の命令なん私はきいたことも、みたこともありません。最も、いま現存しているA氏が機関銃を借りにきていました村民を殺すためだというので赤松に追い返されていました」という(乙9・773頁上段)。

副官が知らない自決命令ということはあり得ない。そうすると赤松隊長から自決命令が出た事実がないことになる。

(4)また『鉄の暴風』で「27日、地下壕内の将校会議で
自決命令が出た際に、自決命令を聞いた」とされる知念元少尉はこの事実を否定する。知念元少尉は「地下壕は3月27日当時掘られていなかったし、従って地下壕の将校会議は開かれた形跡はない」というのである(甲B4) (甲B18・『神話の背景』112 ~123頁)(甲B17・1971年『潮』11月号星雅彦の『集団自決を追って』208頁上段から中段) 。

なによりも、赤松隊長の命令を聞いたとされる知念元少尉に沖縄の報道関係者から昭和45年までにインタビューをした形跡が全くないのである (甲B18 ・『神話の背景』123 頁) 。

知念元少尉に確かめないで、しかも知念元少尉が経験したこともない地下壕、将校会議について記述する『鉄の暴風』は、その部分については全く信用性がないことになる。そうであれば、当然にその際の自決命令も、虚偽ということになるし、他の部分の記述にも信用性がないことになる。

(5)自決命令と間違われる可能性のあるものに
赤松隊長が安里巡査に「避難したほうが良い」といった言葉がある。これを、あるものは「赤松隊長の命令」とよび、またあるものは「指示」と呼ぶ(甲B17・星雅彦著『集団自決を追って』208頁下段)。

赤松元隊長も、これが、自決命令と曲解されるきっかけとなったかもしれないというが(甲B2・217上段) 、安里巡査は曽野氏の取材に対し「集合命令」は隊長の命令ではなく、「あんたたちは非戦闘員だから、最後まで生きてくれ、生きられる限り生きてくれ。只、作戦の都合があって邪魔になるといけないから部隊の近くのどこか避難させておいてくれ」と隊長にいわれ、住民を「生かすために」山の中に避難させたところ「村長以下、みな幹部もね、捕虜になるより死んだほうがいい」と半狂乱になり、恐怖に駆り立てられた状況を説明している(甲B18・『神話の背景』124 ~127頁)(甲B16・沖縄県警察史2 巻773 ~775 頁) 。

そうすると集合命令と部下集合指示の差があっても「赤松隊長が自決命令を出した」と結論づけることは到底、不可能である。

(6) 仮に、自決命令が出たとすれば
その命令が村に伝達される経過が必要である。そうすると軍から渡嘉敷村の村民側に伝達するのは誰かということになる。

伝達役として考えられるものに、役場で招集等軍関係の事務を担当していた兵事主任、臨時招集された住民からなる防衛隊の隊長、村の駐在巡査がある。

古波藏元村長によれば、「軍からの命令は安里喜順を通じて村長に伝えられるのであって、それ以外の方法では伝えられない」と断言する(甲B18・『神話の背景』122 頁)。

そうであれば安里喜順が赤松元隊長の命令を伝達しなければ、命令は村長に届かないはずである。

ところが、安里喜順は赤松隊長から自決命令が出た事実を認めていない(甲B16・沖縄県警察史第2 巻) 。『神話の背景』でも、安里喜順巡査は、赤松隊長が自決命令を出したことを否定し、むしろ「あんたたちは非戦闘員だから、生きられる限り生きてくれ」と言ったと証言している(甲B4)(甲B18・『神話の背景』124 頁) 。 

命令を伝達するはずの安里元巡査は自決命令が出たことを認めていないのであるから、自決命令を伝達していないことは明らかである。

安里元巡査は敵からの攻撃の中で「村民が混乱の中で、死ぬしかないということで、自決を始めた。その方法は手榴弾であったり、剃刀、桑、棒であった」 というのであり(甲B20・週刊朝日1970年8 月21日号21頁5 段目~22頁4 段目迄) (甲B16・沖縄県警察史第2巻772 ~775頁) 、命令で自決したこと を明確に否定している。

そうであれば、自決命令で集団自決したとする結論を導くことは到底不可能である。

(7)渡嘉敷島の村長は古波藏惟好、兵事主任は富山真順、
防衛隊長が屋比久孟祥であるが、このうち誰が赤松元隊長からの自決命令を受領したのか明らかにした資料はない。

古波藏元村長は、自決命令がどのようにして自分に伝えられたのか、誰から伝えられたのかを明確にしない。『神話の背景』でも、自決命令があって自決に至った経過を明らかにしない。むしろ「敵が上陸したということが、まあいけないということですね。何にしてももう決行しようということになって」「喋ったわけではなくて、そういう気持ちになっているわけです」と極めて歯切れが悪く、自決命令があった事実そのものを明確にしない(甲B18・『神話の背景』118 ~119 頁) 。


5 赤松命令説を掲載した『戦闘概要』と削除した『戦争の様相』


(1)『戦闘概要』は古波藏惟好と
渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿って作成したものであると記載され、作成は昭和28年3月28日となっている(乙10・6頁上段) 。

その内容は「昭和20年3月28日午前10時頃、樹民は軍の指示に従い、友軍陣地北方の盆地へ集まったが、島を占領した米軍は友軍陣地北方2,3 百米の高地に陣地を構え、完全に包囲態勢を整え、迫撃砲をもって赤松陣地に迫り住民の集結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というものである( 乙10・12 頁下段) 。

この防衛隊員が誰かは不明である。自決命令が下されたのであれば、防衛隊長である屋比久孟祥が防衛隊員を通じて赤松隊長の自決命令を把握していないとは考えられないが、屋比久孟祥が自決命令を認めた資料はこれまで確認できない。

しかし、3 月28日に住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返されたのが兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥であるとする星雅彦の『集団自決を追って』よりすれば(甲B17・1971年『潮』11月号『集団自決を追って』212 頁上段)、自決命令が無かったことは明らかである。自決命令が出ていたとすれば、機関銃を貸さないことは説明がつかないのである。

(2)『戦闘概要』( 乙10)と極めて類似している資料に、『戦争の様相』がある(乙3)。
『戦闘概要』と『戦争の様相』はその内容が「一方が、他方をひき写したことが確実な程に両者は酷似している。」のである。

ところが、前後の文章は戦『戦闘概要』と全く同じであるにもかかわらず、『戦闘概要』には「時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」と記載された一文だけが『戦争の様相』では完全に抜けている( 乙10・12 頁下段) 。

(3)『戦闘概要』は渡嘉敷村遺族会編著となっており、
私的な書物の体裁であるが、『戦争の様相』は慶良間列島戦況報告書渡嘉敷村座間味村と両村が共同製作した公的文書の体裁である(甲B23・慶良間戦況報告書) 。

そうすると、『戦闘概要』という私的文書では自決命令が記載されていたところが『戦争の様相』という公的文書とする段階では自決命令を削除したことは明らかである。しかし、『戦争の様相』では古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥という少なくとも公的立場にいた二人が公的な文書に、「赤松隊長の自決命令」を記載させなかった事実は、「赤松隊長の自決命令」がなかったことを推測させるに十分である。けだし、『戦争の様相』には、古波藏惟好と渡嘉敷村吏員防衛隊長屋比久孟祥等の記憶を辿ってその概要をまとめたとあるところから、「赤松隊長の自決命令」は二人の記憶になかったと思われるからである。

遺族会編の『戦闘概要』には自決命令が記載されたのは、遺族会編の私的文書であれば、確認されていない、あるいは事実に反する自決命令が記載されても構わないと考えたとものと推測される。

(4) 仮に『戦闘概要』が「戦傷病者戦没者遺族等援護法」( 以下「援護法」という)
の適用を当時の厚生省に申請した際、資料として提出した文書の一部であったとしても、『戦争の様相』を作成する際、その記載を避けた事情は推測に難くない。座間味村の宮里盛秀元助役兼防衛隊長のように自決命令を下した本人が集団自決によって死亡していて、その実弟が、原告梅澤を「軍命令」の責任者に仕立て上げた場合とは事情が異なるからである。

ただ、当時軍命令で自決したことにしないと、島民で死んだ人たちの遺族に年金が降りなかったという背景がある。

厚生省援護局調査課沖縄班の話によると、援護法ができたのは昭和27年であり、渡嘉敷の場合は軍の要請で戦闘に参加したということで島民全体が準軍属とみなされ、気の毒で戦死とみなした。その判定が行われたのは昭和32年から33年にかけてであるが、適用は27年にさかのぼっている。集団自決が行われたのは事実であり、それは戦争なしでは惹起されたものではなかった。多くの人が死んだ。多くの家庭で生きていてもらわねばならない人が死んだ。生きている人を、死者よりも大切にするために、年金は必要であった(甲B18:『神話の背景』169,170 頁) 。

(5) そのような空気の中で昭和32,3年まで、
渡嘉敷をめぐる周囲の関係者が「軍命令による玉砕を主張することは年金を得るために必要であり、自然であり、賢明であったと言える」という指摘もある( 甲B18 号証・『神話の背景』169,170 頁) 。

しかし、遺族が年金を取得する目的であったとしても赤松元隊長の自決命令がなかったにもかかわらず、長い年月にわたり「赤松隊長の自決命令」を前提に集団自決が語られ、赤松元隊長に対する誹謗中傷が続けられることは赤松元隊長や親族には耐えがたいことであり、赤松元隊長が死亡した現在もその遺族には耐えがたい苦痛によって苦しみ続けているのである。


6 自決命令の言い換え


(1)古波藏惟好の場合

a)古波蔵(米田)惟良元村長は、
「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか」という( 甲B20:週刊朝日22頁4 段目) 。

しかし、部隊の陣地は戦闘のためのものであって、住民が避難すれば敵の攻撃をもっとも受けやすいところであり、住民の避難場所としては危険すぎるし、軍の活動に支障が生じることから、部隊の陣地への集合を命じるはずがない。住民が軍陣地に押しかけたとしたら住民の安全の為に退去を求めるのは当然のことである。

そうであれば、古波藏元村長のいう「軍陣地からの退去要求」が即、自決命令とするのは明らかに無理な論理である。 

b)また古波藏(米田)惟好元村長は、
『沖縄県史第10巻』の『渡嘉敷村長の証言』において「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた。命令とあらばと、村民をせかせて、盆地へ行った。米軍は西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知れないと私は心の底でそう思っていた。上流で防衛隊員と合流した。その時米軍はA高地を占領し、そこから機銃を乱射して私たちの行く手を拒んでいるようであった。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった。防衛隊員の持ってきた手榴弾があちこちで爆発した」と述べている( 乙9・768 頁上段) 。

そうすると古波藏元村長は週刊朝日の記事では「軍陣地に集合させておきながら、軍陣地から出ていけということは、自決せよということだ」といいながら、『沖縄県史第10巻』に収録された供述(乙9・768頁上段) では、「軍の陣地の裏側の盆地に集合するようにといわれた」「盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。集団自決はその時始まった」というのである。赤松元隊長が村民を「軍陣地に集合させ」たのではなく、陣地から「出て行け」と言われたのでもないことは明らかである。 

c)また、『渡嘉敷村長の証言』供述に記載された経過
からみれば、集団自決が始まった段階までは、古波藏元村長は、盆地への集合は、住民を救う赤松の得策と考えていたのであり、赤松元隊長から自決命令が出たという認識がなかったことを明確に物語っている。

むしろ、安里巡査が沖縄県警察史で説明するところからすれば、軍の陣地に押しかけたのは集団自決が始まった後で、自決に失敗したため、あるいは恐怖に駆られて逃げ出した住民が、軍陣地に押しかけた際に、将校から退去を求められたことを指している可能性が強い。

そうであれば、集団自決の後に軍陣地に押しかけて退去を求められたことを死ねということだと古波藏元村長は言っていることになる(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。だから、集団自決が始まるまで赤松元隊長から自決命令が出ていなかったことは明らかである。

少なくとも古波藏惟好元村長には自決命令が届かなければ、自決命令があったと考えることはできない。村長が知らない自決命令で村民の多くが自決するということはありえないのである。

d)古波藏惟好元村長は、『沖縄県史第10巻』における
供述では「盆地への集合命令」は認めているものの、「赤松隊長の自決命令」を認めてはいない。それだけでなく、新たに防衛隊員から手榴弾を交付されたことに問題を向けるのである(乙9・768 頁上段、769 頁上段) 。

古波藏元村長は「自らに送達された赤松大尉からの自決命令があったか、否か」という決定的事実についてすら曖昧な供述に終始し、事実を明らかにしないまま、防衛隊員から手榴弾を交付されたことを自決命令に結び付けたいものと推測されるのである。

これは明らかに争点をずらしているに過ぎないし、論理の飛躍である。

結局、命令の村民側の最終的受領者である古波藏惟好元村長が命令の受領を明確にできない以上、同人の証言から赤松元隊長の自決命令を認定することは不可能である。  

(2)富山真順元兵事主任の場合

a)富山(新城)真順元兵事主任は
手榴弾を兵器軍曹が配付した際に一発は敵と戦うために、一発は捕虜になる時には、自決せよと言って渡したという( 乙12:1988年6 月16日付朝日新聞) 。

しかし、その兵器軍曹が15才から17才未満の少年と役場の職員に手榴弾を渡した事実そのものが疑わしい。仮に事実だとしても、そのことから赤松隊長から自決命令が出たことにはならない。

b)しかも、富山真順元兵事主任によれば、
手榴弾を渡したのは3月20日頃のことであるという。手榴弾を渡したことが自決命令なら、古波藏元村長や村民にはこの時点で、自決命令をうけたとの認識がなければならないであろう。ところが古波藏元村長を始め、渡嘉敷村民でこの時、自決命令があったと認識した者はいない(『沖縄県史第10巻』所収の村民供述参照)。

『鉄の暴風』の記述によれば、自決命令は3月27日から3月28日にかけて軍の陣地の北側の盆地に移動を開始してからという認識だったはずである(乙3・34~36頁) 。

さらに古波藏元村長、屋比久孟祥元防衛隊長らの記憶をもとに作成されたとされる『戦闘概要』によれば、「3月28日午前10時頃、迫撃砲は赤松陣地に迫り、住民の住の終結場も砲撃を受けるに至った。時に赤松隊長から防衛隊員を通じて自決命令が下された」というのである(乙10・12 頁下段)。自決命令は3月28日に出されたものであったはずである。

それより1週間も前に自決命令が出た事実を他の村民や村長が認識した事実がないにもかかわらず、富山真順元兵事主任は、手榴弾を配布した際のやり取りから自決命令があったとするのである。

c)さらに富山真順元兵事主任は、
『潮の1971年11月号』の手記では赤松隊長からの自決命令に全く触れていないにもかかわらず (甲B21:『潮』1971年11月号122頁) 、『1988年6月1日の前記朝日新聞』(乙12) では、俄に、手榴弾を配付したことが自決命令であるといい出したものである。1971年11月号の『潮』で自決命令にふれなかった者が何故、手榴弾の配付で自決命令があったと言いだすのであるか、不可解である。「後で考えてみれば、手榴弾を配られた時が、自決命令があった時だ」というような曖昧な自決命令はありえない。

そもそも、いつ出たか明確でない自決命令ということはありえないであろう。出た時が明らかでないということは、自決命令の時期が自決命令と受け止める人によって異なることを意味するからである。こんな曖昧な命令はありえない。

問題になる命令は自決せよという「赤松隊長の命令」なのである。

d) また手榴弾は防衛隊に配付されたものであるが、
西山陣地の北の盆地に避難した後、敵軍の迫撃砲などの攻撃を受けて大混乱になった村民が進退極まった中で自決するしかないという話になった時、防衛隊の持っている手榴弾を配付し、手榴弾での自決が始まったというのが安里喜順元巡査や作家の星雅彦氏の明らかにする経過である(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213 頁)(甲B16:沖縄県警察史2 巻774,775 頁) 。

自決命令が出たから自決したのではなく、手榴弾を使って自決したから命令があったことになるという富山真順の主張は明らかに無理な論理である。

e)星雅彦著『集団自決を追って』に記載される
安座間豊子の母ウシらから見た経過は以下のとおりである。

「『西山盆地に集まれ』といわれ、雑木林にたどり着いた。・・その間村長を中心とする郵便局長や校長や助役や巡査や役場の人たちと防衛隊の幹部ら十数人が寄り集まって協議していた。これからどうするかという意見を出し合ったが、話し合っていくうちに玉砕するほかはないという結論になってしまった。自然に玉砕ということになって、その恐怖から逃れられなくなってしまった」( 比嘉(改姓後は安里) 喜順らの証言) 。 

結局、皆が死ぬにしては、手榴弾が足りないということになった。一人の防衛隊が「友軍の弾薬貯蔵庫から手榴弾をとってきましょうか」と申し出たことから、不断から親しく防衛隊と接触している防衛隊3人が出掛けることになった。・・・間もなくして古波藏村長がみんなの中央に立って「敵にとり囲まれてもう逃げられない。大和魂をもって天皇陛下万歳をとなえ、笑って死のう」と声をふるわせながら言った。手榴弾の爆発する音が聞こえた。・・村長は狂ったように逆上して「女子供は足手まといになるから殺してしまえ。早く軍から機関銃を借りてこい」と叫んだ。その意思を率直に受けて、防衛隊長の屋比久孟祥と役場の兵事主任の新城(富山)真順は集団より先がけて日本軍陣地に駆け込み「住民を撃ち殺すから、機関銃を貸してほしい」と願い出て、赤松隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」とどなりつけられた。(甲B17:1971年『潮』11月号210 ~213頁) 。

f)どうやら富山真順元兵事主任は、
赤松元隊長が、住民に自決命令を出していないことを知っていながら、3月28日の経過からは自決命令を導き出すことが出来ないと判断して、3月20日の手榴弾の配布を持ち出して自決命令をこじつけようとしているものである。

赤松隊長から自決命令が出ていたのならば、兵事主任富山真順と防衛隊長屋比久孟祥が、死ねない住民を殺すために機関銃を借りに行ったとき赤松元隊長から「そんな武器は持ち合わせていない」と拒絶されるはずがないのである。それにもかかわらず富山真順が3月20日に手榴弾を配ったことで自決命令があったと強弁を続けるとしたら、あるいは古波藏元村長が陣地からの退去を要求することが自決命令と同じだと主張し、あるいは防衛隊員が自決の際に手榴弾を配布したのが解せないとして自決命令に結び付ける態度をとることからすると複数の自決命令が存在することになる。人により、時により自決命令が存在したり、しなかったり、複数存在したりする曖昧な自決命令とはそもそも存在しないことを物語る。

g)捕虜になる不名誉を避けるというのは
当時の国民の多くが共通に感じていたことであり、米軍にどのような扱いを受けるのかという恐怖もあった。捕虜になるなら自決する覚悟を国民の多くが持っていたのであり、そのことは『沖縄県史第10巻』所収の村民らの供述からも明らかである。兵器軍曹が〝万一の時〟には自決用に使えというのはこのような国民の多くの考えを確認したものであって、自決命令などではない。だから赤松隊長の自決命令があったことにはならない。そもそも、手榴弾を配ることを自決命令にあたるとするのは牽強付会の極みである。それでは手榴弾を配られなかった阿波連の住民の集団自決は説明がつかなくなるであろう。

h)防衛隊長の屋比久孟祥は
自決命令の受領の事実を明らかにしない。しかし、その理由も明らかである。3月28日に自決命令など無い状態で、住民の混乱のなかで自決が始まり、失敗した者を殺すために機関銃を借りに軍陣地に行って追い返された事実からすれば、自決命令があったと強弁することは出来ないからである。

ところが、防衛隊長の屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の遺族会編の『戦闘概要』では自決命令があったと記載し、同じく屋比久孟祥が関与した渡嘉敷村の作成にかかる『戦争の様相』では自決命令が削除されていることは前述した通りである。

このように自決命令は関係者の思惑で、如何様にも記載され、主張される用語と化しているのである




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