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II-02<首里城の壕に行く>

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし

II-02<首里城の壕に行く>


伊波苗子さんインタビュー
インタビュアーは奥茂治氏(元海上自衛官、南西諸島安全保障研究所会長)

(伊波)牛島閣下殿はね、(昭和)19年の8月15日午後2時に沖縄にお着きになりました*2。上のくら*3から10.10空襲*4にですね、それから大道*5のほうに、10月12日に移動なさいました。そいで戦争が始まるうちにね、空襲が激しうて、それから大道からですね、首里のほうに移動しました。首里城の地下のほう*6に、それで、私たちはですね、沖縄の2分団の会長で*7、ずう~と牛島閣下殿の姿よく拝見してます。もうホントのいい司令官でね。もう、いい方だったです。それから、首里城の壕の中にですね、3月23日に行きました*8

(奥茂治)はい

(伊波)その壕の中でね、私たちと、もう32軍司令部ですね、みんな一緒です。  

(奥)はい、そこにはその、えー、要するに慰安をする女性とか、

(伊波)女ちゅうものはおりません。そのところはね、本部に勤めてねー、もう…、みんな一緒です。

(奥)勤めている人だけですね

(伊波)はい。看護婦の免許持った人ね、

(奥)はい、うん、その人たちは

(伊波)医務室がありましたからね*9

(奥)はい、うん、で今回ね、沖縄県がそういう看板をつくると、

(伊波)そんなことダメ、本部にね、牛島閣下殿のね、あの地下のほうにはね。みんなしんせい(神聖?)な方ばかしね、一中生、今の健児の塔のね一中生も、みんな一緒です、私らと一緒に。壕を掘りね、3月から4月の、4月8日の日にはね、海軍の船がひっくりかえったでしょう*10。米軍の200機でね、抑えられて沈んだでしょう。その時も、4月の8日だった、そのときも私たちはですね、泣きわめながらね、壕堀りもして、また焼き米担ぎとかね、いろんなもん、みんな担いだりしてね、やりました。03 52

【注】
  • *2 第32軍司令官の交代による牛島満中将の沖縄赴任。32軍№3だった八原博通大佐の『沖縄決戦―高級参謀の手記』によれば、牛島の那覇到着は8月11日。この日から辻遊廓の伊波苗子さんは、牛島中将を世話して仕える係となったと思われる。32軍司令部は当時、那覇と首里の中間にある蚕種試験場に置かれていた。
  • *3 上之蔵?司令官公邸の場所か?
  • *4 10.10空襲、那覇の73%、辻遊廓の全てが焼失した。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E3%83%BB%E5%8D%81%E7%A9%BA%E8%A5%B2
  • *5 那覇市大道(旧・真和志村字大道)。司令官の公邸の場所か?
  • *6 那覇金城町、沖縄師範学校のとなり、首里城の真下に司令部壕があった。
  • *7 辻遊廓の警防団か国防婦人会か。伊波さんは警防団第2分団の長だったと言っている。→II-07 *34a
  • *8 3月23日は米軍の空爆、24日は艦砲射撃が始まった日。若藤楼など選ばれた辻遊廓の芸娼妓たちが、長参謀長や坂口副官の手引きで、首里坂下の32軍司令部専用の「玉倶楽部」から、砲弾にビクともしない "安全な" 司令部壕につれてこられた、ということ。
  • *9 この放映では、看護婦としてが強調されている。翌年3月の放映では、看護婦試験に落ちた若藤楼芸娼妓の存在を、伊波さんが初めて明らかにした。
  • *10 戦艦大和のことか。戦艦大和の海上特攻は全く成算のない自殺行為だった。









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