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様相と概要の異同の実際(続)

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様相と概要の異同の実際(続)


迫手門学院大手前中・高等学校
紀要第五号 1986年3月30日
『渡嘉敷島における戦争の様相』と
    『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同
伊敷 清太郎

段落ごとに『様相』を黒字で、その下に『概要』を青字で記しました。
( )付き小見出しは原論文にはなく、転載者が付けたものです。

(3・31~食糧難と残虐行為)


【様相】同三十一日米軍は赤松隊の兵力を見くぴったか夜半島を徹ママ退した。空襲も止み生き延びた住民は張りつめた気力を失ひ五日間の空腹に夢遊病の如くさまよい歩む足どりもふらヽヽと浮いていた。死場所を失った住民は迷い歩いた揚句僅かな食糧を残して置いたもとの避難地恩納河原へ集った。

【概要】昭和二十年三月三十一日米軍は赤松隊の無低ママ抗を見くぴったか夜半島を徹ママ退した 砲弾の音も止み生きた自らをうたがひ 張りつめた気力を失い五日間の空腹を夢遊病の如くさまよい乍ら死場所を失った住民は迷い歩いた揚句 僅少な食糧を残して置いたもとの避難地恩納川方面へと移動した、

【様相】赤松隊も持久態勢に入り食糧確保に奔走した。

間もなく赤松隊長からの命令が伝達された。我々軍隊は島に残って凡ゆる食糧を確保し持久態勢を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならぬ、事態はこの島に住むすべての人間に死を要求していると主張し住民に家畜屠殺禁止の隊長命令が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である。直ちに住民監視の前哨線が設けられ多里少尉がその任についた。

【概要】赤松隊も持久態勢に入る為に食糧確保に奔走した 間もなく赤松隊長から命令が伝達された 「(※23)我々軍隊は島に残ったすべての食糧を確保し持久戦の準備を整へ上陸軍と一戦を交えねぱならない事態はこの島に住む人々に死を要求していると主張し」住民に家畜屠殺禁止の命が出され違反者は銃殺といふ厳しい示達である 直ちに住民監視の前哨戦が設けられ多里少尉がその任務についた。

【様相】住民の座間味盛和にスパイの嫌疑をかけ、無実の罪におとし入れ斬り殺したのも多里少尉である。

亦家族の全部を失って山をさまよい歩く古波蔵樽を之敵に通ずる恐れありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為がはじまった。

【概要】住民の座間味盛和にスパイ嫌疑を問い無実の罪に陥れて斬り殺したのも多里少尉である

その他家族全員を失ひ山をさまよい歩く古波蔵樽を捉え敵に通ずるおそれありと高橋伍長の軍刀にかける等住民に対する残虐行為が始まった、

【様相】海峡には敵飛行艇百五十隻が常駐、駆逐艦十数隻、小型空母等が周辺に停泊していた。その他艦船を含む船舶の数は三〇〇隻を下ったことはない。

時々友軍特攻隊の攻撃もあったが敵対空砲火には抗し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見られた。

【概要】慶良間海峡には常に敵輸送艦や駆逐艦、小型空母等が停泊しその散およそ(※24)三〇〇隻を下ったことはない。

時々友軍特攻隊の攻撃もあったが 敵の対空砲火には坑し難く火を吐き海中に落下する尊い姿も見受けられた。


【様相】同 四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし、蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつないだ。

元気の者は監視の眼を逃れて島の各所から蘇鉄を集めた。生き残った防衛隊員は軍の命により防衛隊長屋比久孟祥の指揮で軍の食糧獲得に努力した。

【概要】昭和二十年四月下旬頃から軍民共に飢饉にひんし 蘇鉄の切干に野草を混じた代用食で露命をつなぐ状況となった。

元気の者は監視の眼を逃れて蘇鉄を集めた 生き残った防衛隊員は命令によって防衛隊長屋比久孟祥氏の指揮で軍の食糧獲保に努力した。

(5月・刳舟脱出行)


【様相】同五月初旬軍は遂に住民の保有している僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧を徴集せしめた。住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴて無甲斐さを感ずる者もあった。気力ある者は夜間海岸に出で、米艦船から捨てられた肉切れや、果物の標流物を探し求めて食糧の足しにした。座間味島を逃れて赤松大尉と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ抜け出すことを考へ絶えず機会をねらっていた。防衛隊員の中から刳舟に経験のある者の調査が行われた。この時の白羽の矢が防衛隊員小嶺賀牛、玉城定夫の両名に当った。本人達は希望する所でなかったが軍命であれぱ致し方なく決死行の意を固めた。

刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手の糸満漁夫二名と共に渡嘉敦港を出発した。

静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり、四哩の海路を見事前島部落へ辿りついた。

【概要】昭和二十年五月初の軍は遂に住民の保有する僅かな非常食糧の供出を強要し朝鮮人軍夫をして食糧徴収が行われた。 住民は急激に老、幼男女の栄養失調が続出し生き延ぴてゐることの不甲斐さを嘆くものもあった。

気力ある者は夜間海岸に出て米艦船から捨てられた肉切れや果物等の標流物を求めて食糧の足しにした。

座間味島を逃れて赤松隊と行動を共にした三宅少佐は危険の多いこの島を脱出し沖縄本島へ渡る機会を絶えずねらっていたのであろう

防衛隊員の中から刳舟に経験のある者の調査が行われた、 この時の白羽の矢が隊員小嶺賀牛玉城定夫の両名に当った. 本人達は希望するところか軍命であれぱ致し方なく決死行の意固めた。 刳船は三宅少佐外三名の軍人を乗せ漕手に糸満漁夫二名を補強し渡嘉敷港を出発した 静かな海峡を敵艦艇の監視綱をくぐり四哩の海路を無事前島部落へ辿り着いた.

【様相】前島北方海岸に刳舟をかくし上陸して見ると住民の姿は見受けられない。その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まぬ照明弾の合間に砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である。夜は明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達することは到底望めない。然し少佐は万難を排して決行せよとのことである。宵暗と共に前島を出発したが掃海艇の讐戒厳しく二回、三回と失敗を操り返し命からヾヽ引返した。鈴木少佐は舟長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった。小嶺は慎重を期せねぱ目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握って睨んでいる。切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考えてか平静に返った。今こヽで切っては勿論目的達成が出来ないことを知ったのであらう。漕き手は疲れ切って精一杯だった。遂に最後の決死行に意を決し再ぴ前島を後にした。輻輳する艦船の横腹を手操りつヽスクリューの波に巻込まれながら遂に神山島北方へ出た。暗夜に乗じて那覇へ向けたが掃海厳しく接岸不能である。合議の上、舟首を糸満港へ向けた。東天は既に夜明けを知らせつヽあり島伝ひに力漕し糸満港は目前に迫った。夜明けにあせりながら必死に力漕し遂に糸満港についた。一人の負傷者もいない全員無事を喜びながら疲れも忘れて真玉橋の部隊本部へと急いだ。

【概要】前島北方海岸に刳舟をかくし 島に上陸して見ると住民の姿は全く見受けられない.

その夜も沖縄本島への砲撃は寸時も止まず 照明弾の合間を伝って砲声は十六哩の海をこえて耳をつんざく有様である

一夜明けて昼の沖縄本島を望めぱ無事目的を達成することは到底望むべくもない。 然し少佐は万難を排して決行せよとの事である 宵闇と共に前島を出発したのであるが掃海艇の讐戒厳しく二、三回失敗を操り返し命からヾヽ引返した.三宅少佐は艇長小嶺賀牛を呼ぴ出し言葉厳しくなじった. 小嶺は慎重を期せねぱ 目的達成はおぼつかないと答へると少佐は激昂し軍刀を握ってにらんでいた。 切るなら切れと前に迫ると少佐は何を考へたか平静に返った。 今こヽで切っては目的が達成出来ないことを知ったのてあらう、

漕手は疲れ切って精一杯だった.遂に最後の決死行である. 再ぴ前島を後にした. 輻輳する艦船の横腹を手探りつスクリウの波にまき込れながら遂に神山島北方へ出た。 暗夜に乗じて那覇へ向かったが掃海厳しく接岸不能である、 全員合議の上 舟首を糸満港へ向けた 東天はすでに夜明けを知らせつヽあるので島伝いに必死の力漕を続け遂に糸満港に着くことができた まさに天佑である全員無事を喜び合いながら疲れを忘れて真玉橋の方面隊本部へと急いだ

(米軍再上陸と住民処刑)


同五月初旬米軍は再び渡嘉敷を占領した。赤松隊へ備へて各高地に砲陣地が構築された。間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動され、米軍の保護下で収容された。赤松隊は極度に食糧欠乏し若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍食料集積所を襲ひ食料、煙草等を確保する様になった。そのために米軍は各要所に地雷を施設した。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった。

伊江島住民は米軍の保護を受けつヽ渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活していた。

【概要】昭和二十年五月初旬米軍は再度渡嘉敷に上陸した。

赤松隊の急襲に備へるため各高地には砲陣地が構築された.

間もなく伊江島住民が渡嘉敷部落へ移動せしめられ米軍の保護の下に収容されていた 

赤松隊は極度の食糧欠乏が目立ってきた。 若い下士官や将校は夜間切り込みと称して米軍の食糧集積所を襲い食料や煙草等を確保する様になった.その為に米軍は各要所ヽヽに地雷施設をし友軍の侵入に備えた。鈴木、小松原両少尉はその犠牲となった 伊江島住民は米軍の保護を受け乍ら渡嘉敷部落の焼け残った家屋で生活している。

【様相】米軍の要求により伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。それは戦争が既に日本の不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へるためであったが赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の者を斬殺した。亦集団自決に重傷を負ひ米軍に収容された十六才の少年小嶺武則金城幸二郎の両名は米軍の治療を受け、やうやく依復したので米軍の指示に従い、渡嘉敷住民への連絡のため避難地へ遺けられた。目的は住民へ早く下山する様伝へるためであったが途中赤松隊の将士は二人を捕へ米軍に通じた理由のもとに之は処刑した。

【概要】まもなく米軍からの要求で伊江島住民から選ぱれた若き青年男女六名が赤松隊へ派遣された。

戦争がすでに日本に不利であり降伏することが最も賢明な策であることを伝へる為の軍使であるが 赤松隊長は頑固として聞き入れず六名の青年男女を斬殺したのである。

また集団自決場で重傷を負い米軍に収容され(※25)座間味の米軍病院で治療を受けやうやく快復し米軍の使者として渡嘉敷住民へ連絡のために住民避難地へ派遣された十六才の少年小嶺武則金城幸次郎の両人は不幸にも途中赤松隊将兵二人に捕えられ米軍に通じた理由の下に直ちに処刑された。

【様相】渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏は敵に通ずるおそれありと斬首された。かくして住民は日々欠乏する食糧と赤松隊の恐喝に益々くたぱるのみであった。食ふに糧なく下山に方途なく栄養失調は続出する有様である。

飢餓と戦ひつヽ六月、七月のニケ月を過し八月を迎へたが食糧は欠乏の極に達し住民は死の寸前にさらされた。

【概要】渡嘉敷小学校訓導大城徳安氏が敵に通ずるおそれありと斬首される等 住民は日々欠乏する食糧難と赤松隊の恐喝に益々くたぱり食ふに糧なく下山するにもその方途なく栄養失調が続出するのみ 飢餓と戦いつヽ六月、七月とニケ月を過し八月を迎えたが食糧はますヽヽ欠乏の極に達し今日まで生き長らへた住民は死の寸前に晒され玉砕した同僚を羨む者さへあった、

(住民離脱と処刑、降伏)


【様相】同八月十二日、午前自決場で妻を失ひ幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い、長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山谷を移動中、米軍の潜伏斥侯四十数名に包囲され拉致された。これが住民下山の第一歩となった。

【概要】昭和二十年八月十二日午前 自決場で妻を失い幼児二人を抱へた郵便局長徳平秀雄氏は長女を背負い 長男の手を引き住民十五名と共に食を求めて山野を移動中 米軍の潜伏斥侯数名に包囲され拉致された これが住民下山の第一歩となった.

【様相】同八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒かれた。ボツダム宣言の要旨が述べられ降伏は矢つき刀折れたる者のとるべき賢明な途だと勧告してあった。住民は集団投降の意を固め代表者を選んで村長古波蔵惟好氏と相談した。村長も民意の趣むく所止むなくこれを許し住民は八月十五日迄に殆んど下山した。

【概要】昭和二十年八月十五日米軍機から赤松隊陣地ヘビラが撒布された。 ボツダム宣言の要旨が記され降伏は矢尽き刀折れたる者のとるべき賢明な途であることを勧告(※26)してあった.

住民は集団投降の意を決し代表者をして村長古波蔵惟好氏と相談した.村長も民意に随ふことを許しぞくヾヽ白旗を掲げて下山した

【様相】同八月十六日防衛隊員と残った一部住民が下山したが赤松隊は依然として投降せず米軍の指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり、新垣重吉、古波蔵利惟、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた。軍使としての任は勿論赤松隊への投降勧告であるが一旦見付かれぱ死を覚悟せねぱならない。新垣、古波蔵は軍隊生活の経験あるため、勧告文を木の枝に縛り付け密に任を果した。与那嶺、大城の両名は要領得ずして、赤松隊に捕へられ即座に切り捨てられた。

【概要】八月十六日防衛隊員と共に残った住民の一部が下山したが赤松隊は依然として投降せず 米軍指示により渡嘉敷住民の中から軍使として出すことになり 新垣重吉、古波蔵利雄、与那嶺徳、大城牛の四名が選ぱれた その任務は赤松隊への投降勧告であるが一旦見付けられると死を覚悟しなければならない 新垣、古波蔵はよく状況察知し軍隊生活の経験ある為(※27)歓告文を木の枝に縛り付け密に任を果して帰ったが与那嶺、大城の両氏は要領得ずして赤松隊に捕らわれ即座に切り捨てられた、

【様相】同八月十八日赤松隊知念副官が軍使として米軍に投降の交渉に当った。

【概要】昭和二十年八月十八日赤松隊知念副官が軍使として投降の交渉に当った、

【様相】同八月十九日赤松隊長、知念副官、外将校一名が米軍本部へ到着、渡嘉敷小学校々庭に於て武装を解除され、降伏文に調印した。次いで西村大尉の率いた赤松隊将兵は戦死した戦友の遺骨を先頭に二十二日渡嘉敷校々庭に集合し武装を解除され間もなく沖縄本島へと出発した。

【概要】昭和二十年八月十九日赤松隊長知念副官外将校一名が米軍本部へ到着渡嘉敷小学校々庭において武装を解除され降伏文書に調印した、

次いで西村大尉の率いる赤松隊将兵が戦友の遺骨を先頭に 八月二十二日渡嘉敷小学校々庭に集合武装を解除され直ちに沖縄本島へ連れ去られた

【様相】総べての力を結集し、あらゆる食糧を確保し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ、皇国のために全員玉砕渡嘉敷島に屍を曝すと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には抗すべくもなく牧牛の如く連れ去られたかと思ふと一掬の涙を催すものがあった。

斯くして本島作戦と切り離されていた島の戦線は独得の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島の降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じた。

【概要】あらゆる力を結集し持久態勢を整へ米軍と一戦を交へ皇国の為全員玉砕渡嘉敷島に屍をさらすと剛語した赤松隊も米軍の鉄量には(※28)坑すべきすべもなく牧牛の如く連れ去られたこと思ふ時一掬の涙をさそうものがあった.

斯様に沖縄本島と切り離された島の戦線は独特の様相と経路を辿りつヽ沖縄本島降伏に遅れること一ケ月昭和二十年八月二十三日その幕を閉じたのである


【様相】最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久道路上で米軍と遭遇し激戦の後、伊芸山山頂で護国の花と散った佐藤小隊の一事である。(完)

【概要】尚最後に特筆すべきは三月二十七日渡嘉志久路上で米軍と遭遇し激戦の末、伊芸山の山頂に護国の華と散った佐藤小隊の一こまである (完)

1(役)『概要』「あるかを」の「か」の上に、ベンで「こと」と直してある。
2(役)『概要』「いた」の「た」の上に、ペンで「る」と直してある。
3 (山)『概要』には、「驚いたことは」とある。(役)『概要』は「驚いたことには、」という具合に、「に」と「、」が加えられている。
4(役)『概要』では、「を」をペンで消して、「が」に直してある。

5(役)『概要』では、「見られたかと恩ふと」というように、「た」がペンで傍書されている。
6(役)『概要』では「底」をペンで消し、「低」に直してある。
7 『概要』は「左」文字を「在」に書き誤り、右方に「左」と訂正。
8(役)『概要』では「充」を消し、「当」に直してある。
9(役)『概要』では点をほどこしているが、後人が「か」と読みとったからであろう。
10『概要』は、「一部」の次に「を残」と書き誤り、==で消してある。
11(役)『概要』では、「じ」となっている。
12(役)『概要』には「できないものがある」というふうに、「い」文字がペンで書き加えられている。
13『概要』では「六」と書き誤っており、ペンで「五」に書き直してある。
14(役)『概要』では、「待った」の「た」をペンで「て」に直してある。
15 9に同じ。
16(役)『概要』では、「〓」の「廾」をペンで消してある。「獄」の謂であろう。
17『概要』では「友軍陣陣地」と書き、上の「陣」を斜線で消してある。

18(役)『概要』では、鉛筆で「友軍陣地北方」と「地」文字を書き加えてある。
19「死なう」の、な」は、(役)『概要』において、「の」とペンで書き直してある。
20『概要』では、「ら」を==線で消し、「と」に直してある。
21(役)『概要』では、鉛筆で「三六ニ」に直してある。
22(役)『概要』では、ペンで「郊」を消し、「軍陣地附近」と直してある。
23『概要』のカギのとじの部分は正しくない。
24『概要』は「おそよそ」と書き誤り、最初の「そ」を==で消してある。
25(役)『概要』では「小嶺武則次金城幸次太郎」というふうに、鉛筆で訂正してある。
26(役)『概要』は、焦け跡よって判読不能。煙草によるものと思われる。
27(役)『概要』「歓」の「欠」部を消し、右方に「力」とペソで直してある。
28(役)『概要』では「土」を「才」に直してある。



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