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3 ジャワ

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日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン





3 ジャワ



図2 ジャワ島

 1944年初頭、中部ジャワの複数の婦女子抑留所やスマラン市で、ヨーロッパ人及び印欧混血人の「婦人や少女」が、強制的に慰安婦として連行されたという比較的知名度の高い事件が多発した。しかし、このような「事件」はジャカルタでは、長期にわたり起こっていた。これら個々の事例の詳細は後述するが、オランダBC級戦犯裁判になったようなスマラン慰安所事件を含む中部ジャワやジャカルタの事例は、日本占領期ジャワ全体を通して見ると比較的希な出来事であった。しかし、たとえ希少なものであっても、この事件に関するオランダBC級戦犯裁判の資料は、陸軍第16軍兵
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站部の責任者が取調官に供述した文書をもとにしており、ジャワの慰安婦の概要を描き出す資料としては価値の高いものである。兵站部責任者の証言によると、慰安所設置の許可は、慰安婦になる女性が志願者である事また日本語とマレー語で書かれた趣旨書に本人の署名がある事を満たしているということが条件であった。兵站将校が慰安所設置の許認可を持っていたため、この兵站部責任者の証言はスマラン慰安所事件の戦犯裁判の判決にも影響を及ぼした23)。判決文には、この将校の証言を引用している箇所があるが、証言資料の全文はまだ見つかっていない。実際この証言資料が存在すれば、この将校の(判決に影響を与えるほど)豊富な証言内容は第16軍の認可慰安所の政策の中身を知り得ることが可能であろう。第16軍占領下のジャワで起きた他の事例の資料は、まとまったものはなく、誰が誰の許可で慰安所を設置したか、「娼館」は許可を得た慰安所だったのか、どのように女性を募ったのか、また集められた女性たちは誰だったのかなど多くの判り難い点がある。事実、何点もの公文書に矛盾点が見られる。たとえ1つの事例を記述した資料が複数あったとしても、それが1つの情報源からの情報で、検討されず使用し、新たな資料として作成され、短絡的に結論を出しているにすぎないものなら、そのような多くの資料はむしろ慰安婦に関することがなにかあったのかもしれないといった程度の警告を発する役割をしているにすぎないのである24)。

 今回の調査で検証したジャワの慰安婦に関係の資料は、情報に限りがあったが、小規模な慰安所、「バー」、そして他の性的サービスを提供していた施設が比較広範囲に存在していたという証拠は見つかった。いくつかの報告書から、スラバヤ市内には何ヶ所もの売春専用地区があったらしく、その地区が軍の設備に近接していることやその規模の大きさから、おそらく許可を得た慰安所で軍当局から厳しく監視されていたと思われる25)。バンドゥン、マゲラン、ソロ、マラン、スラバヤなどの都市に位置した何軒ものホテルが、慰安所として運営されていた26)。ジェンベル[Jember]にあった「バー」も1942年から1943年まで似たような機能をもっていた。キリスト教徒のメナド人がスマランで所有していた、カロリナ・バー[Carolina]やレストラン数軒は、常連の日本人や中国人客のために慰安所にもなっていた27)。また他の資料によると、ソロにあった旧オラニャホテル[Oranjehotel]は、日本占領期には軍慰安所フジ・リオカン(富士旅館?)になり、そこには複数の「バー」もあったようだ28)。この慰安所フジ・リオカンママは、インドネシア人の慰安婦のことを説明するとき、他の公文書の中でしばしば引用されていた。カリジャティ飛行場の慰安所に関しての詳細は後述するが、1943年には既に設置されていたようである。サラティガにあったシン・コー・カン[Sin Ko Kan]婦女子抑留所では、子供たちが毎朝抑留所の周りに捨てられていた使用済みのコンドームを目にするので、この事が若い母親の頭痛の種であったと記述されている29)。戦争中のオランダ軍情報局[NEFIS]の資料には、慰安所にいた女性がインドネシア人であったという記述が頻繁にでてくる。また、日本人、中国人、印欧混血人が慰安所にいたという報告もあった。

 女性の徴募に主題の焦点を当てている資料も数点見つかった。印欧混血人やヨーロッパ人が、周旋業やホテルの経営に関わっていたという資料もあったが、これは全体から見れば比較的少数の出来事のようであった。多人種・多民族で構成されていた警察30)また憲兵隊も、ケースによっては関係があった。慰安所に関する確固とした証拠は滅多に無く、記述のある資料でも、せいぜい1行か2行程度で、ヨーロッパ人の戦後の証言か、第2次世界大戦中に連合軍が捕まえたインドネシア人
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等に尋問した結果をまとめた程度のものであった。また、比較的長文の慰安婦に関する公文書は3ヶ所の公文書館に散在して、まとまって保存されてはいない。

 オランダ情報局[NEFIS]の報告書について言及するなら、この報告書はどの程度正確性をもっているのか不明であるため、研究者が使用する際には十分注意を払う必要がある。しかしNEFISの資料としての価値は、戦犯裁判資料や戦後調査でヨーロッパ人や印欧混血人にかかわることに焦点を絞って作られた文書とは異なり、歴史の欠落部を埋めるということに鑑みれば、NEFIS資料の価値の高さは次に掲げる引用文からでも理解できる。例えば、数人のインドネシア人兵補の尋問を元にして書かれた報告書には31)「マランでは、未婚の原住民[natives]の少女が、日本人将校の不道徳な使用目的で調達され、数軒のホテルへ連れて行かれた。多くの回答者が、1943年7月頃には、既にカリジャティ飛行場の慰安所が開設していたことを証言している。少女たちは50セントで、日本兵を受け入れさせられた。少女たちは監視され、毎週身体検査を受けさせられていた。病気になった者は、新しい少女に代えられた。施設には通常少女15人、日本人300人程度がいた」。また、メナド人の男性の尋問調書には32)、次のような説明があった。「スラバヤ市内のバクミ通り[Bakmistraat]にあった旧グランド・ホテルへ、将校や、准将、軍曹を運転していくように命令された。ここには、日本軍人相手の慰安所があり、収容されていたのは全員が日本人少女であった。もう1ヶ所の立ち入り禁止区域は、日本人陸軍将兵用の慰安所のあった地域で、プリンス通り[Prins Straat]の西側沿い全域から、ロウデン通り[Louden Straat]も包含した西2区画の地域であった。ロウデン通りの南北両端は閉鎖されていたため、プリンス通り以外から入ることはできなかった。周囲は3メートル以上の高さの竹製の塀で囲われていた。ここでは、インドネシアのありとあらゆる人種の女性が慰安婦になっていた。また、陸軍のどのランクの人間もここに来ていた」。


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