【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
V. 伊波証言の要約と考察


V-03,04「スパイ視しての住民の虐殺はなかった」の根拠と考察



V-03「スパイ視しての住民の虐殺はなかった」の根拠


 チャンネル桜は2011年11月の動画では、「司令部の付近の住民がスパイといって虐殺されましたか?」と質問して、伊波さんに「もう絶対そんな不潔なことしません」と全否定させています。

 しかし、首里の司令部壕での目撃者が新聞で紹介されたのを踏まえて、2012年3月の動画では全否定を事実上撤回し、「虐殺はあった、でもスパイだった」という主張に変えました。

ここで
 (エ)相手がスパイならリンチまがいの公開処刑をしていいのか
という問題と
 (オ)本当にスパイだったのか
という2つの問題が生じます。


V-04「スパイ視しての住民の虐殺はなかった」の考察


(エ)について

沖縄の住民がスパイという口実で日本軍兵士に殺害されたことは、住民の聞き取り調査で数多く確認されています。ほとんどのケースで、スパイ容疑は十分に確かめられることなく、その場の判断で「処刑」が行なわれました。沖縄戦で軍法会議が開かれたという記録は一切見つかっていません。スパイだといえば、過剰な処断が許されてしまったのです。住民側から見れば、加害者が「友軍」だったという事で、問題は深刻です。

(オ)について

首里司令部壕で処刑された「上原キク」という女性の容疑について、伊波苗子さんは次のように述べています。

a) サイパン生れの高校生である
b) 字港(あざ みなと)から上陸した
c) 体中のPW焼印。米軍に捉えられ焼印を押され教育され、スパイとして船で送り込まれたのだろう。
d) 手榴弾を持って司令部壕に近づいてきた
e) 拷問を加えても、米軍との関係を白状しない

 これらが、伊波さんもしくは伊波さんに状況を教えた将校が、「スパイ話」を事実だと確信した根拠なのです。「疑わしきは断固処断する」、この敵国内での軍隊の論理が、自国民が住む沖縄で発揮されてしまいました。

a) の「サイパン生れ」、
これだけでスパイ容疑者になるというのは驚きですが、実は、早くからこの事を軍は通達していたのです。

住民をスパイとして疑う場合に、沖縄では多かった移民帰りの人たちが疑われる対象になった。1944年8月30日の時点で戦闘計画を作成した独立混成第15連隊は、「敵上陸の機近迫するや沿岸住民の動向に注意し敵第五列の活動を封ず」、「島嶼及北米南方占領地域に在留する者の家族は敵に利用せらるゝ顧慮大なるを以て開戦と共に抑留し敵の利用を阻止す」と定めている。

44年8月26日の独立混成第44旅団の副官会同では、「サイパン島よりの引揚家族に対する防諜上の取締監視調査は直接には憲兵隊にて之に当る筈」と指示している。
いずれも、林博史『沖縄戦と民衆』より→https://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/2352.html
→IV-06 *76をもう一度お読みください。

b) の「字港(あざ みなと)から上陸した」ですが、
もし字港(あざ みなと)が、南部島尻の具志頭村の字港川のことなら、沖縄戦の渦中にいた末端の人々にとっては、「スパイ話」に一定の信憑性を与えたかも知れません。

米軍は4月1日、北谷、嘉手納の海岸に大挙上陸したのですが、陽動作戦として港川の沖合いからも猛烈な艦砲射撃を行なうという、フェイントを掛けていたからです。それをみて、「米艦隊がきたのに上陸作戦を行なわない、ならば、密かにスパイを上陸させたのに違いない」という風に、噂を発展させていたと考えられます。(IV-06 *69の地図と写真参照)

米軍の陽動作戦は事実であり、そのために32軍は港川周辺に独立混成第44旅団を配備し、首里北方の戦線がいかに厳しくなろうとも、4月の終わりまでは部隊を移動させなかったのです。つまり港川地区は厳重な警戒監視下にあって、スパイを上陸させることなど考えられなかったのですが、疑心暗鬼が昂じた心理状況のなかでは、冷静な判断力は消え去ってしまったのでしょう。

c)の焼印については、
IV-06 *66で、それをスパイの証拠とするのは、誰が考えてもおかしい旨述べました。

それに、スパイが船で送られて来るとか、潜水艦で送られて来るとか、海上と連絡を取り合ってるとかの「スパイ話」は、1945年4月1日の米軍上陸のずっと前から原型があったのです。
監視所から、この三、四日間の夜、島と海上の何か所かで信号灯が見えたという報告があった。…そこで約六〇名が捜索をおこなった結果、その火は島民が完全に消さなかった火の残り火にすぎないことが判明した。風が吹くと、その火が大きくなったり小さくなったりして信号灯のように見えただけだった。

(座間味島に駐屯していた海上挺進基地第一大隊に所属していたミヤシタクラジの1944年11月1日の日記)

32軍司令部も直ぐに打消しの判断を下しています。

七月以降沖縄本島方面に出所不明の信号弾に関する情報多々あり軍は其の出所を探査中のところ10月中旬―下旬の間憲兵隊の異常なる努カに依り何れも星光、月光、友軍飛行機の翼燈 航空機誘導燈 友軍信号燈(弾) 自動車前照燈、ランブ燈 焚火 魚光等を誤認せるものと判明せり
(第32軍陣中日誌案、昭和19.11.1)

軍は後に、以下の通り確認しています。
状況の緊迫すると共に峰火光事件頻発し且敵潜水艦に依る沖縄人間諜の潜入説等喧伝せられしも各部隊及憲兵隊の努力は之が確証を挙ぐるに至らざりき
(第32軍史実資料)

d)「手榴弾を持って」については、
IV-06 *73を再掲します。
いざ決戦となって、手りゅう弾は2個づつ、緊急招集された防衛隊員に軍から渡された。防衛隊員は、召集されたといっても起居する隊舎があるわけでもなく家族とともに暮らしていた。米軍が上陸した際、米軍に襲われる恐怖を軍によって植えつけられていたから、婦女子はみな気が狂わんばかりだった。防衛隊員となった男子は、イザというときの自決用にと2個のうちの1個の手りゅう弾を女子に渡した。そうしたことは頻繁にあった。曽野綾子氏も『切りとられた時間』に書いている。

e)「拷問を加えても米軍との関係を白状しない」、
これはもう何をか言わんや、決め付け以外の何物でもありません。「拷問を加えても米軍との関係を白状しない」には、別の事例もあります。

 『沖縄戦敗兵日記』は、高知県に生まれ船舶工兵第26連隊に所属する通信兵野村正起氏が、戦端が開かれた1945年3月23日から、潜行戦のすえ米軍に投降する9月14日まで、戦場で書いた日記をもとにまとめたものです。著者はあとがきで「当時いだいていた沖縄の地元住民に対する偏見を含めて正直に記述したことにおいて、いささかの変わりもない」と述べています。(VI資料Bその他37)

 3月23日は米軍上陸前触れの大空襲、翌24日には艦砲射撃がはじまり、4月1日には米軍が嘉手納海岸に大挙上陸しました。余りにも順調な米軍上陸と、それに対して友軍機が一機も飛ばないなど、兵たちのいらいらが昂じる中で「スパイ事件」が多発したようです。
4月15日(日)薄曇
 早朝であった。指揮班から呼び出しがあって出かけていった分隊長が、間もなく帰ってきて、わたしにいった。「野村、今朝、台上の芋畑で、スパイらしい地方人(民間人)を1名捕らえたので、連行せよとのことだが、芹沢と行ってくれないか」。「お門違いですが、分隊長が引き受けた以上はしかたないですなあ」。私は皮肉ってやった。

(略)

 芹沢を連れて指揮班壕を訪ねると、奥から神田曹長が、縄を掛けた素足のみすぼらしいシャツとズボン姿の40がらみの小男を引き出してきて、「本部には連絡してあるのですぐいってくれ。強情なやつで、全然、口を割らないんだ!」といった。

 わたしには、一見して痴人のように思われたが、油断は禁物である。縛った縄を確かめた後、芹沢にその縄尻をとらせて外に出た。

 途中、かれは何の抵抗も示さず、素直に歩いた。だが、2人が何をたずねても、終始、無言であった。もしかすると、痴呆を装っているのかもしれない、と私は思った。

 本部壕に着くと、田中少尉が待ちかねていた、さっそく私は身柄を渡して、芹沢を促し、前方の通信小隊壕に向かった。少し油を売っていってやれとおもったのである(筆者も通信兵仲間だから)。芹沢にも異論があろうはずはなかった。

 通信小隊壕では、昨日から同小隊勤務を命じられている竹節勇上等兵(長野県出身)が、喜んで2人を迎えてくれた。2人が本部壕へきた事情を話すと、かたわらで聞いていた数名が、早くも本部壕へ走っていった。

 が、ほどなくかれらは帰ってきて、例の地方人は、田中少尉たち数名に連行されて、本部壕隣の掘りかけの壕に入っていったと私に教えた。

 帰途、2人が本部壕の隣の壕をのぞくと、最前の地方人は、壕内の天井に背が付くほに吊り上げられていた。よほど叩かれたのであろう。顔面は無惨に赤黒く腫れ上がっていた。その真下で、田中少尉が椅子に腰を下ろして、拳銃をもてあそびながら、「ハワイか?」と、元の居住地でもあろうか? 詰問していた。

 「……」。かれは、一言ももらさなかった。それは、まるで何かの軍事映画にでもあったような情景であった。

 夕方になって、このスパイ容疑者というのが、とんでもない間違いであったことが判明した。

 分隊長の話によれば、かれは、ろくにものもいえない知能の低い人間だとのことである。かれは夜明け前、台上の芋畑に出ていて、中隊のものに誰何されたので、驚いて逃げようとして、捕まえられたに違いない。ものが言えないものだから、余計に疑われたわけである。昼下がりにこのことを知った年老いたかれの母親が、泣いて本人の無実であることを本部に訴えてきたという。

 指揮班に頼まれたとはいえ、この男を本部へ連行したのは、わたしと芹沢である。なんだかバツが悪くてしようがない。
このような誤認事件があったにもかかわらず、疑心暗鬼はいっそう高まっていったようでです。
4月20日(金)曇のち雨
 空を被うアメリカ機と、昼夜のべつまくなしに降り注ぐ砲弾の下に、われわれの1日が過ぎていく。前線から伝えられてくる戦況は、日に日に悪化するばかりだ。

 不安な明け暮れのなかに、「沖縄人にはスパイがいる!」という声がしきりに流れる。戦況の不利と、島内の混乱を思い合わせると、あながちデマでもなさそうだ。

 迷信が流れる……、そして、縁起を担ぐ者がでてくる。今朝も分隊の連中が、互いに認識票を見せ合って、「四の数は死に通じるから縁起が悪い」と話し合っていたので…(後略)


 以上、伊波苗子さんが挙げたa) b) c) d) e) いずれを取っても、客観的な説得力はありません。取調べ関係者が伊波さんに聞かせた「スパイ話」の筋書きを、伊波さんが「素直に」信じた証明にはなるでしょうが。

 「上原キク」に関する他の人の証言のなかにも、目撃した事実以外に、司令部壕を「上原キク」が敵に教えたために便所を使っていた女性が犠牲になったなど、様々な風聞が記されています。
→次ページ(表)











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