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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その4

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原告準備書面(2)全文2006年3月24日その4






7 『陣中日誌』


赤松部隊が作成した『陣中日誌』(甲B19)によると
「3月28日。昨夜出発したる各部隊夜明けと共に帰隊、道案内の現地防衛招集の一部が支給してあった手榴弾で家族と共に自殺したという報告を持って来た。
「本朝2 、3 件の模様なり。」
兵は陣地稜線上でひたすらたこ壺を掘りつづけた。午後2時陣地の北の谷に避難していた住民が陣地内になだれ込んだ。その異様な阿鼻叫喚の中に、北方の敵陣地から迫撃砲が打ち込まれた。
「戦隊長防招兵をもってこれを鎮めしめる」
とあり、午後8時中隊正面に機関銃座に敵襲を受ける。そのころ稜線にへばりついたままの兵たちの一部は小雨の中、ある叫び声を聞いていた。3月29日。悪夢の如き様相が白日眼前に晒された。昨夜より自決したもの約200名(阿波連方面においても百数十名日、後判明) 、首を縛った者、手榴弾で一団となって爆死したる者、棒で打ち合った者、刃物で頸部を切断したる者、戦いとは言え、言語に表し尽し情景であった。」
となっている(甲B19:陣中日誌12,13 頁)。

ここでは自決命令が出た形跡は全くなく、村民の自決そのものを知ったのも集団自決後の29日になってからであることが分かる。


8 衛生兵の派遣と恩賜の時計


(1)赤松部隊からは渡嘉敷村の村民が自決に失敗した後で、
衛生兵を派遣している。古波藏惟好元村長みずから軍の衛生兵が治療をしてくれたことを認める( 甲B18:『神話の背景』121 頁) 。

そもそも、住民に自決命令を出す部隊が、何故、自決に失敗して負傷し、村民のために衛生兵を派遣するのであろうか。隊長あるいは軍医の命令がなければ、衛生兵は、村民を救助に向かうことはあり得ないと治療に行った若山元衛生軍曹は明言している( 甲B18:『神話の背景』121 頁) 。

赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、衛生兵の派遣は全く説明がつかないことである。赤松元隊長が自決命令を出したとすれば、軍医が衛生兵の派遣を命じることはあり得ない。部隊長の自決命令に反して軍医が救助を命じることになるからである。衛生兵の派遣は、自決命令が出ていなかった明らかな証拠であり、古波藏惟好元村長が自ら軍の衛生兵が治療をしてくれたことを認めていることからしても赤松隊長の自決命令はなかったことは自明である。

自決命令が出ていたら、生き残った村民がある場合には、残った村民を命令の遂行という観点から生かしておくことはあり得ないはずである。この意味で赤松部隊の太田正一元候補生の同趣旨の発言の意味は大きい( 甲B18:『神話の背景』141,142 頁) 。

(2)渡嘉敷村資料館には赤松隊長の
陸軍士官学校卒業時の恩賜の時計が記念品として飾ってある。赤松部隊の軍医で昭和20年7月18日 陣地にて戦病死した香川県三豊郡観音寺町3078軍医浮田堅太郎陸軍軍医中尉の聴診器も同じく飾られてある。赤松隊長から集団自決命令が出ていたとしたら島民の恨みをかうはずであり、赤松隊長や部隊の軍医の遺品が飾られるはずもないであろう。この事実からしても、赤松隊長の自決命令がなかったことは容易に推測することが出来る。


9 赤松命令説をつくったもの


(1)渡嘉敷島の「赤松大尉による自決命令」という神話を
つくり出した犯人は不明である。

しかし、同じ慶良間列島の座間味村で、悲劇の犠牲者の遺族に対する戦後補償を申請するための方便として構想されたことは、少なくとも座間味村については、関係者の告白と謝罪によって明らかになっている。

昭和27年に制定された「援護法」適用を受けるための便法であったというものであるが、これで《神話》の全てが説明できるわけではない。「援護法」適用を受けるための便法という構想は、昭和28年に初めて生じたことであったが、「軍命令」という作り話は、「援護法」の施行された昭和27年よりも前に企画・編纂された『鉄の暴風』(昭和25年初版)にすでに登場している。

この「援護法」とは関係のない作り話が生まれた背景は何であったのか。
その答えは、『神話の背景』の次の一節に暗示される。

「それは主に沖縄本島で、私が聞いたことであった。本当の渡嘉敷の悲劇は、太平洋戦争が終って、出征して南方にいた兵士たち、或いは他の理由で島を出ていた人たちが帰って来た時に始まった、というのである。当然のことながら、島には生き残った人々がいた。その人々が、死者たちの声を背後に背負って責めさいなまれることになったのである。」(甲B18 号証・『神話の背景』168頁)

『鉄の暴風』の取材に協力したことになっている(本人は曾野氏に対して「取材を受けた記憶はない」と言っている)宮平栄治氏も事件当時は南方にいたというのである。

(2)一方に、戦後になって島に帰ってみると、
家族が自決していて、一人も残っていない場合もあれば、家庭によっては犠牲者が一人もいない場合がある、という現実に直面した人たちがいた。

他方、生存者の中には、その立場上、事件について説明する責任を免れぬ人たちもある。典型的な人物は古波蔵元村長である。赤松元隊長や安里元巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や、事件当日の「軍命令」についての(曖昧で、一貫性のない)説明などから判断する限り、元村長として何らかの「責任」を感じていた様子はない(甲B18:『神話の背景』170 頁) 。

例えば元巡査について。
「あの人は家族もいないものですからね、軍につけば飯食える。まあ、警察官だから当然国家に尽くしたい気持もあったでしょうけど。軍民との連絡は、すべて安里さんですよ」(甲B18 ・122 頁)。

また、
「安里さんを通す以外の形で軍が直接命令するということはないんですか」
と、曾野氏が尋ねると、
「ありません」
「あの人は口を閉ざして何も言わないですね。戦後、糸満で一度会いましたけどね」
(同)という。

このように古波藏元村長は、
「軍から命令を直接受けることはない、あらゆる命令は安里氏を通じて受けとることになっていた」
と言い(同)、上記のように、安里氏の人間性までも否定するような、実に厳しい言葉が続く。

ところが、肝心の「自決命令」については、とたんに歯切れが悪くなる。

「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて、住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て・・・・安里巡査も現場にきてますよ」(同118 頁) 。

「安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって十五米ほど離れて谷底にかくれていましたよ。君も一緒にこっちへ来いと言ったら、そこへは行かない。見届けますからと言って隠れていました」(同119 頁)

「あの人は口を閉ざして何も言わないですね。」(同122 頁)
と非難された安里元巡査は曽野氏のインタビューを避ける風もなく答えている。
しかし、昭和45年3 月まで安里元巡査にインタビューをした沖縄の記者は一人も居なかったという事実がある( 同123 頁) 。

さらに古波藏元村長は赤松元隊長に対しては、
「赤松の異常心理」
「赤松隊長の非人道的な行為」
等、非難の言葉を投げつけている。
何の目的で古波蔵元村長がこのような行動にでるのかが疑問である。

(3)元村長と立場は異なるが、やはり生き残りの一人として、
帰島者たちへの説明責任を背負わされた人物がいる。
「手榴弾による自決が失敗に終ったあと、自らの手で、母や妹の命を絶つ手伝いをした」
事件当時16歳の学生だった金城重明という、日本キリスト教団・首里教会牧師(昭和45年現在)である『神話の背景』に登場する多くの生存者で、集団自決の「命令」があったと証言するのは、元村長とこの人だけである。(※)
(引用者註:それは曽根氏が選んだ結果にすぎない。印象操作ナリ。)

金城牧師が曾野氏に寄せた手記の一部を引用すると、
「3月28日、自決場へ集結せしめられてから、死の命令が出るまでの数時間は極めて長く重苦しく感ぜられた。(中略) いよいよ自決命令が出たので、配られた数少ない手榴弾で、身内の者同士が一かたまりになって自決を始めた。(中略)私は兄と二人で母や弟妹達の命を自分達の手で断った時、生まれて始めて悲しみの余り号泣した。(中略)軍国主義的皇民思想の死の教育を全身全霊に受けた16歳の少年は、全く疑う事をしないで、他者の死を助けることが、唯一最高のみちだと信じ込んでいた。(後略)」(同154 ~156 頁) 。

しかし、金城牧師は「いよいよ自決命令が出た」とするのみで具体的に誰から、誰に、何処でどのように自決命令が伝えられたか明らかにされておらず、曖昧なままである。手記は自決命令という言葉以上に明らかにしていない。

そして『神話の背景』は、安座間ウシと豊子というある生き残りの母子の眼で描かれた金城牧師の「もう一つの姿」を紹介している。
「その人(金城氏)は大きな棒を拾って、『まだ生きているか』と確かめながら、殴り殺して歩いていました。私たちの所へも来ました。その人の棒で、母は二回打たれ、血まみれでくずれました。弟は一打でまいりました。私も頭の上を打たれました」(同159 p) (甲B21 :『潮』昭和46年11月号119,120 頁) 。

(3)古波蔵惟好元村長や金城重明のことを、
例えば被告大江健三郎が赤松元隊長を糾弾誹謗するように、その責任を告発する気にはなれない。古波蔵元村長が戦後、「軍命令」があったかのような、しかし曖昧な説明に終始し、金城牧師が「軍国主義的皇民思想の死の教育」に自己の異常な行為の原因を求めて、深刻な「個人的反省」の弁が一切出てこないことに、むしろこの事件のもつ特殊な状況を感じざるを得ない。

個人的反省を持ち出すとすれば、自己の存在そのものを否定することにつながりかねない。そこで自らを守るために精神的防御が図られる。

自己が知覚しながらその存在を認知すると、不快、不安、恐怖を引き起こすような外的な現実や自己自身の現実の存在を、そのものとして認知しないでおこうとする自我の防衛機制であり、心理学的には「否認」と呼ばれる行動そのものである。


10 当時の沖縄県民の意識について


座間味島駐屯の元第一戦隊長の原告梅澤は、昭和57年に同島を訪れた際、村の長老連が、集団自決は役場幹部の指導で決行されたこと、軍命令などなかったことは衆知の事実であること、幹部は一ヶ月前から自決の打ち合わせをしていたことなど、「交々」語るのを聞いたと記している(甲B1)。

渡嘉敷島も事情は同じだったのだろうが、それをストレートに口にするのを憚るような状況が、終戦後のこの村にはあったと思われる。

現在は「軍命令はなかったが、死を強いられた」として自決命令の言い換えに狂奔している者がいる。

当時の沖縄県民の意識がどのようなものであったかを知る必要がある。

(1) 昭和19年7月にはサイパン島が玉砕し、
住民の多くが自決した。サイパンの住民の多くは、沖縄からの移民であった。サイパンの住民の自決は、次の米軍の攻撃が予想された沖縄においても、身近な問題として当時の沖縄の 人に捉えられていた。

(2) 当時、支那大陸で日本人が捕虜になった場合に
残酷ななぶり殺しが伝えられており、それ避けるために兵士は捕虜になる前に自決することが当然のことと考えられていた。米軍との戦闘においても、米軍は捕虜をとらない方針、即ち日本兵が降伏した場合には、飛行機から突き落として殺したり、降伏してきた先頭の日本兵を射殺し、後に続く日本兵をジャングルに放逐し、餓死させていたこと、あるいは火炎放射器で殺傷して捕虜としないのが現実であった(甲B22・『リンドバーグ第二次大戦日記(下)』522頁、548頁、558頁参照)。

従って、捕虜とならずに最後まで戦うのが兵士の共通した感情であり、この感情は国民の多くも共通してもつものであった。

(3) 米軍の攻撃が予想された沖縄では
昭和19年11月3日那覇市若狭の波の上宮に島田沖縄県知事をはじめ沖縄の市町村の幹部が参集し、沖縄県民決起集会が開かれた。参集した県民や市町村の幹部は、最後まで米軍と戦い抜く決意を固めた。その際、男子は最後まで戦い抜き、老人子供は自決して軍の足手まといにならないようにしようとの決意の声が上がった。集会から各市町村に帰った幹部は、この様子を各市町村民に報告した事実がある。

当時、沖縄には最後の一兵まで戦い抜き、捕虜になってはならないとの意識を県民の多くが等しく持っていた。このことは、『沖縄県史』に収録された座間味村字慶良間の大城昌子の供述にも「米軍にひきいられながら、道々、木にぶらさがって死んでいる人を見ると非常にうらやましく、英雄以上の神々しさを覚えました。それに対して、敵につれていかれる我が身を考えると情けなくて、りっぱに死んでいった人々の姿を見る度に自責にかられるため、しまいには、死人にしっとすら感じるようになり、見るのもいやになってしまいました」(乙9・731頁上段)とある。当時国民全体がそうであった。

(4)戦前の日本の暗面を針小棒大に誇張し、
捏造までして告発することが、いかにも誠実で人間的であるかのように錯覚している日本人が後を絶たない。

慶良間列島の集団自決もまた然り。なぜ、どうして、どういう状況の中で、それが起こったのか、自らの国の問題として、謙虚に、考えてみる必要がある。そうすれば、少なくとも被告大江健三郎のごとく、何ら現地調査もすることもなく、根拠もない報道に便乗して赤松元隊長と梅沢元隊長をおよそ思いつく限りの侮辱的言葉で罵倒し、貧困な想像力がつくる醜悪な妄想をもって貶めるような非人間敵なことは出来ないであろう。『鉄の暴風』を当初出版した朝日新聞社、岩波書店しかりである。

『神話の背景』から、赤松部隊の第二中隊長であった富野稔元少尉の言葉を引用する。
「私は防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。今の考えの風潮にはないかも知れませんが、あの当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。むしろ、私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」(甲B18・『神話の背景』167p) 。
けだし、当然の意見である。


11 『神話の背景』以後


(1)『神話の背景』は昭和48年5月10日に発行されているが、
作家の曽野綾子の周到な調査と聴き取りに基づく著述により、その後、渡嘉敷島での赤松元大尉の集団自決命令はなかったと評価され、今日それが定着している。

例えば、沖縄県沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、
「赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。この事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証はでてきていない」(甲B 23号証・『沖縄戦を考える』)
と評価している。

(2)その結果、赤松元隊長の集団自決命令を記述し、
昭和40年6月21日に第1刷が発行された『沖縄問題二十年』(甲A2) は、その後、出版されなくなった。これは『神話の背景』により、赤松隊長の自決命令が虚偽であることが露見したからである。 

(3)家永三郎著『太平洋戦争』は1968(昭和43年).2.14に
第1 版第1 刷が発行され、そこでは
「赤松隊長は、米軍の上陸にそなえるため、島民に食糧を部隊に供給して自殺せよと命じ、柔順な島民329 名は恩納河原でカミソリ・斧・鎌などを使い集団自殺をとげた。・・・座間味島の梅沢隊長は、老人こどもは村の忠魂碑の前で自決せよと命令し、生存した島民にも芋や野菜をつむことを禁じ、そむいたものは絶食か銃殺かということになり、このため30名が生命を失った」
と記載されていた( 甲B7・213 頁) 。

ところが、1986( 昭和61年)9月第2 版の増補発行にあたっては、赤松隊長の自決命令を含む渡嘉敷島の記載を完全に削除し、梅沢隊長の自決命令にふれた座間味島の記載のみを残し、さらにその後に岩波現代文庫から2002年( 平成14年)7月16日に第1 刷を発行した際にも同様に座間味村の集団自決命令はそのまま残し、赤松隊長の自決命令の記述を削除したものを発行した(甲A1) 。

これらの事実は著者家永三郎と岩波書店が赤松隊長の自決命令を虚偽であると認識していた何よりの証左であり、『神話の背景』における赤松元隊長の自決命令が虚偽であるとの検証を真実と認めたことを示している。

(4) それにもかかわらず被告大江健三郎著の『沖縄ノート』(甲A3) は、
1970年9 月21日の第1 刷から49刷(合計29万6500部)を数える今日まで赤松元隊長の自決命令があったとの前提で赤松隊長、さらには梅沢元隊長に対しても侮辱の限りを連ねて、訂正する気配すら示していないのである。



第3 被告らの準備書面(2)に対する反論


1 『沖縄ノート』の表現による名誉毀損性について


被告は、原告が請求原因に追加した『沖縄ノート』の該当部分につき、
「赤松大尉がアイヒマン同様、人民裁判によって絞首刑にされるべき犯罪者であるなどとは全く述べていない」
という。
しかし、
「かれはじつのところ、イスラエル法廷におけるアイヒマンのように、沖縄法廷で裁かれてしかるべきであったであろう」
「それでもわれわれは、架空の沖縄法廷に、一日本人をして立たしめ、右に引いたアイヒマンの言葉が、ドイツを日本におきかえて、かれの口から発せられる光景を思い描く、想像力の自由をもつ」
を「一般読者の普通の注意と読み方」で読めば、原告大江が意図するという日本青年一般のあり様に対する論評が、「赤松大尉がアイヒマン同様、人民裁判によって絞首刑にされるべき犯罪者である」という論評を前提としていることは明らかである。けだし、イスラエルの人民法廷において絞首刑に処せられたアイヒマンになぞられている「かれ」は、赤松大尉その人だからである。被告大江健三郎は、「かれ」こと赤松大尉が、「沖縄法廷で裁かれてしかるべきだった」との意見を表明しており、「アイヒマンのように」裁かれるということは、公開の法廷で絞首刑の判決を下されるということに他ならい。そしてなぜ赤松大尉が沖縄法廷でアイヒマンのように裁かれるべきなのかについていえば、一般読者は、即座に、
「それは、赤松大尉が沖縄の渡嘉敷島で集団自決を命じるという非人道的行為を行ったとされているからである」
と応答するであろう。すなわち、当該論評は、赤松大尉が渡嘉敷村民に対し集団自決命令を下したという事実を前提にしたものなのである。 


2 匿名表現と同定可能性について


(1)被告は、原告の指摘にもかかわらず、
今回も「名誉毀損性」の問題と「同定可能性」の問題と「公然性」の問題を混同する愚を犯している。 

上記3つの問題が次元を異にするものであることは、甲C2の1~3の判例が扱った「石に泳ぐ魚」事件に則して考えてみれば直ちに了解できることである。 すなわち、「石に泳ぐ魚」事件は、作中の登場人物「朴里花」のモデルにされたAが、顔面にある腫瘍と父が韓国でスパイ容疑で逮捕されたと経歴を持っていることによって容易に同定可能であると主張し、小説中の記述によって名誉等を毀損されたと主張した事件であるが、特定情報とされたAの顔面の腫瘍や父の特異な経歴は、Aの生活環境ないし生育環境のなかで知り合った人々は知っていても、一般読者の知るところではない。「一般読者の普通の注意と読み方」をいくら振り回しても、当該特定情報を知らない一般人には、Aが「朴里花」のモデルであることは知りようがないのである。しかし、当該特定情報は、Aの近親者のみならずその生育過程において関わった不特定多数にとっては、当該特定情報それ自体や「朴里花」が新興宗教に入信して、他人から寄付をせびったと推認させる表現がAの社会的評価を低下させるものであることが明らかであることから、名誉毀損等の不法行為の成立が認められている。

被告らの主張は、「同定可能性」に関わる特定情報の知・不知の問題レベルにおいて、「一般読者の注意と読み方」と持ち出してきている点で不当なのである。そしてそれは、まさしく「石に泳ぐ魚」事件において新潮社が持ち出したクレームと同じものであった。

「同定可能性」は、当該表現における特定情報の有無の問題であり、「公然性」は、かかる特定情報を知っている人々の広がりの問題である。当該特定情報が限定された特定の者だけでなく「不特定多数」に共有されておれば、これを「一般読者」が共有していなくても、名誉毀損の不法行為に成立にかけるところがないのである。「名誉毀損性」に関わる「一般読者の注意と読み方」の基準は、当該表現が不特定多数に共有された特定情報によって同定された対象者の社会的評価を低下させるものかどうかを判断する局面において機能すべき基準なのである。 

(2)また、被告は「渡嘉敷島の集団自決命令に関して
赤松大尉の実名を記載した著作物が広く国民一般に読まれていたわけではなく、全国紙で報道された事実もない」ことから「渡嘉敷島の守備隊長が『赤松嘉次』という人物であることが国民の多くに認識されたとはいえない」というが、当該主張は、名誉毀損の成立要件が、「国民の多く」に認識されることではなく、「不特定多数」に認識されれば足りるということを失念した暴論である。

「沖縄ノート」も記載している渡嘉敷島での慰霊祭に参加しようとした赤松大尉が労働組合や民主団体等によって渡島を阻止された事件は、当日の昭和45年3月26日付夕刊で琉球新聞が「赤松元大尉、ついに雲隠れ」「慰霊祭参加を断念?泊港で民主団体が気勢 乗船を許すな」と報じ(甲A4)、沖縄タイムスが「赤松氏姿見せず 渡嘉敷島の慰霊祭 港に阻止団」などと報じ、集団自決が行われた渡嘉敷島の守備隊長が赤松大尉であることは広く沖縄県民に周知されることになった。「不特定多数」というに十分であろう。  

そしてまた、渡嘉敷島の守備隊長が赤松大尉であるという認識は、集団自決を命令した犯人であるという誤った認識とともに、世間に広く流布していたことは、宮城晴美著『母の遺したもの』にある次の記述を示すことで十分であろう。  
「しかし、山川氏の本の発行から三カ月後の1970年3月26日、渡嘉敷島の元戦隊長・赤松嘉次氏が28日に行われる渡嘉敷島の慰霊祭に参加するために沖縄を再訪したことで、事態は一変した。渡島を阻止する民主団体や労働組合の関係者が、那覇空港や泊港北岸に集結して抗議行動を展開したのである。「集団自決命令」の批判は、その後も赤松氏に集中した。そしていつしか「集団自決」が渡嘉敷の代名詞のように使われるのである。」(甲B5・257頁)

                                以上


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