15年戦争資料 @wiki

マギー・フィルムとフィッチ

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

2つのマギーフィルム




最近2つの史料(Web上にある)を読んで、疑問が氷解しましたので忘れないうちにメモしておきます。

1)『フィッチの回顧録』(第一〇章)
http://nanjingforever.web.infoseek.co.jp/george.html
2)『ラーベの日記(中国語版)』(2/11の項)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html


A、1)からは先ず、渡辺さんのデータベースが全て確認できました。


1938年
1/29 フィッチ、英国砲艦 H.M.S Bee号にて上海に向かう(1回目)
2/12?フィッチ、南京に戻る
2/19 フィッチ、日本軍の列車で上海へ向かう
2/23 ラーベ、南京を出発
2/25 フィッチ、ドイツ船 "Gneisenau" で香港に向け出発
2/27 ラーベ、上海到着
3/ 8 フィッチ、"Philippine Clipper"で香港からマニラへ行く
3/16 ラーベ、 Conte Bianca Mano で母国への帰途につく

フィッチが上海に出かけたのは、1月29日、英艦ビー号で。
フィッチはこう書いています。

 日本当局と長期にわたって交渉した結果、ついに私は英国艦ビー号で上海へ行く許可を得た。同号はちょうどイギリス領事と彼のスタッフを乗せて来たところだった。英国砲艦に乗ったのは何日であったか正確には思い出せないが、一月末であったにちがいない。(前出1))

そしてラーベの日記(日本語版)では1月28日と29日の日記で、29日出発で、往きは英艦ビー号、帰りは米艦オアフと記しています。フィッチは国際委員会委員長のラーベに旅程を真っ先に報告し、食糧買い付けなどの指示を仰いだのでしょう。

そしてフィッチは、マギーが新路口事件を撮影し終えたばかりのフィルム4巻と、その撮影内容解説(「マギーの解説書」の草稿でもある)を受け取って、ビー号に乗船したはずです。 

南京に戻ったのは、2月12日です。
フィッチはこう書いています。
 帰路は、ヤーネル提督が手配してくれた米砲艦オアフ号に乗って長江を遡り、平穏無事であった。
 南京に到着した私は、日本軍が前言を裏切って船荷の陸揚げを不許可にしたのを知って愕然とした。(前出1))

2月12日到着は、ラーベ、ボートリン、フォスター、ベイツが日記などに書いています。

渡辺さんが、2月10日に戻っていたという手紙を紹介しています。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=374;id=imgbord#374


B この第1回の上海行きが軍用列車であるというのは誤解だと思います。


例えば、笠原先生の『アジアの中の日本軍』「二 ジョージ・フィッチのアメリカ講演旅行」 http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.htmlなど。

フィッチは前出1)でこう述べています。
いずれにせよ、私はすぐ南京を離れることになっていた。

 上海のホリス・ウィルバー(Hollis Wilbur)から電報で(事前に手配しておいたもの) 「二十三日前に上海に到着を乞う」と言ってきた。この電報の援護によって、私は再び南京を離れる許可をもらい、翌朝六時四〇分に上海行きの日本軍の軍用列車に乗った。その列車は三等列車で、考えられるかぎりの不愉快さをともなった兵隊たちの大群で満員だった。私はそのとき、灰色のラクダの毛のオーバーの裏地に、虐殺場面を撮った一六ミリのネガフィルムを八リール(ほとんどは大学病院で撮影したもの)を縫い込んでいたので、少し気を使った。上海に着いたならば、私の荷物は疑いなく軍当局に念入りにチェックされるであろう。もし彼らが、これらのフィルムを発見したら何がおこるだろう。

軍用列車は、2月のことだったのです。
そして、フィッチによるフィルム運搬は2回目です。

これによって、マギーフィルムには「マギーの解説書」にないシーンがあるが、何でだ?!
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=231;id=imgbord#231
という疑問もあっさり解けました。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=671;id=imgbord#671


C 上海で現像した「マギーフィルム」には2つ有る


ということは、上海で現像した「マギーフィルム」には2つ有る、ということです。
1つは、1回目に運んだ4リール。現像したネガに文字解説を挟み込んで複製プリントしたもの。これを映画甲とします。映画甲はベルリンのヒットラー総統のもとに送られました。添付書類である「マギーフィルムの解説書」もベルリンへと送られました。

もう一つは、2回目に運んだ8リールのうちの未現像を上海で現像し、複製プリント4セット作ったもの。これを映画乙とします。

フィッチは映画甲と映画乙をアメリカにもって帰り講演に利用しました。しかし、フィッチが体調を壊したこともあって、YMCAが短く使いやすく再編集したものと思われます。それが、ロサンジェルスのフィルムセンターに現在保管されている「China Invaded」です。(「ジョージ・フィッチと「彼の」フィルム」http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/mg_images/youshi.htm )

映画甲はいま、ワシントンの国立公文書館と議会図書館に保管されているそうです。http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=616;id=imgbord#616


因みに映画甲+乙から生まれた「China Invaded」の文字解説は、映画甲のそれよりそれぞれが短くなっているようです。「China Invaded」の文字解説を笠原先生は全て記しています。( http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/121.html の後半)。ティンパーリが ラーベ マギー の説明書きにしたがってつけた映画甲の文字解説は、NHKスペシャル「日中戦争」で紹介されました。


どうやら、私を含めて「マギーフィルムは唯一なり」という思い込みが、情報を錯綜させてしまったようです。


D 「マギーの解説書」は撮影取材メモを見て書いたのであり、現像上がりのフィルムを見ながら書いたのではない


だからこそ、「マギーの解説書」は、フィッチの南京到着前の2月10日付けでベルリンへと送ることが出来たのです。

現像上がりのフィルムを見ないで書いた証拠はこちらを読んでください。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=274;id=imgbord#670


E ラーベがローゼンから見せてもらったのは、映画ではなくて「解説書」


前記2)ラーベの日記(中文)を読めばたちどこころに分かりました。
これも詳しくはこちら。
http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=one;no=669;id=imgbord#669
「マギーフィルムの解説書」が、2月11日の項に添付されているのです。

ラーベの日記(中文)と、他の語版との関係についてはここをお読みください。
http://latemhk.tdiary.net/19371213.html


ラーベは、渡された「解説書」を映画のシナリオとして読み、自分の鼓楼病院訪問(12/24) http://latemhk.tdiary.net/20071224.html を思い出したのです。それが以下の記述です
英語版
  Reverend John Magee has taken motion pictures of the atrocities. Dr. Rosen is having a copy of the film made in Shanghai, which he then wants to forward to Berlin. I'm supposed to get another copy later, too. I saw some of the casualties (shown in the film) and was able to speak with a few before they died.I was shown the bodies of some of them in the morgue at Kulou Hospital. [ p.188]

ドイツ語版
 Reverend John Magee hat einen Film von Greueltaten aufgenomen. Dr. Rosen laesst sich eine Kopie des Films in Shanghai anfertigen, die er nach Berlin schicken will. Ich soll spaeter auch eine Kopie erhalten.Verschiedene der (im Film gezeigten) Verwundeten habe ich gesehen und einige auch noch sprechen koennen, bevore sie starben.[p.259] あと1行あり
(文字表記: ae=aウムラウト、oe=oウムラウト、ss=β(エスツェット)



F ラーベの日記の誤訳にも振り回され


この部分の『ラーベの日記』(日本語版)2月11日の平野響子氏の誤訳に、WILL1月号の古荘光一珍論なども頼っているようです。

古荘珍論
ところが、『マギー・フィルム』は、フィッチの帰京より1日早く登場する。ラーベの「日記」の2月11日の項に、「マギーがすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。」とあるのがそれだ。

平野訳
「マギー牧師がすさまじい残虐行為の実写フィルムを持ってきた。ローゼンは上海で複製を作らせている。ベルリンに送るつもりだ。私にも一本くれることになっている。(フィルムに写っている)負傷者は何人か見覚えがある。そのうち幾人かとは、いまわのきわに話ができた。鼓楼病院の遺体安置所で見た人達も写っていた。」
これは全くの誤訳です。

ラーベはこのとき、マギーとも、映画とも出会っていません。
has taken motion pictures は「映画を撮影してきた」で「持ってきた」ではありません。

試訳は
先にリバーレンド・ジョン・マギーが残虐行為の映画を撮った。ローゼン博士はそのフィルムの複製を上海で作らせベルリンに送るつもりだという。私も後で複製を入手するつもりだ。※(フィルムに登場する)何人かの被害者は私もこの目で見てる。そのうち幾人かとは死ぬ前に話もできた。私はさらに鼓楼病院の遺体安置所で何体か被害者の死体も見せられた。 (参照:http://latemhk.tdiary.net/20071224.html


中文では※のところに、解説を下記に記す、という意味の字句があり、「マギーフィルムの解説書」が引き続き添付されています。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1254.html



G こうして、「フィッチの12日到着」は No problem 無問題となりました


現像済みフィルムは南京に届いてなくても、「解説書」も「ラーベの日記」も、どちらも成立します。


H 4巻か8巻かという問題も


マギー・フィルムの原版が4巻なのか8巻なのかの混乱も解消しました。
第1回上海持込:4巻(たぶん16/mm 100ft x 4)
第2回上海持込:8巻(たぶん16/mm 100ft x 8)

なお、第2回分に、ずっと前に現像済みが含まれるかどうかは不明です。
マギーが鼓楼病院で引き続き撮影したものが多いと思われます。


I ファクト イズ シンプル


まあなんといいますか、分かってしまったあとからですが、
真実は、複雑な説明を必要としないようです。


J 試表






目安箱バナー