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二 ジョージ・フィッチのアメリカ講演旅行

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世界に知られていた南京大虐殺

ニ ジョージ・フィッチのアメリカ講演旅行


さきの四つのグループのうち、南京事件の全経過を南京城内にいて目撃・見聞し、記録できたのは第一の伝道団グループプでした。そして世界に広く日本軍の蛮行を告発しようとしたのも彼らでした。第四グループのドイツ人も含む南京安全区国際委員会のメンバーは、南京を占領した日本軍の残虐行為の渦中にあって、中国人の犠牲を最小限に押し止めようと懸命な活動をしました。その主要な手段が、南京の日本大使館に日本軍の強姦・殺害・暴行・喀奪等の行為を事実に基づいて文書と口頭で告発.抗議し、憲兵や軍上級機関をとおして禁止させるよう要請することでした。しかし、残念ながら、日本大使館員は軍隊に対して力がなく、いくら抗議してもなかなか効果はありませんでした。
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彼らは南京アメリカ大使館をとおしてアメリカの国務省にも告発文書を送り、アメリカ政府の対応を期待しました。さらに、日本のアメリカ大使館にも日本軍の蛮行を訴える文書を回送してもらい、アメリカ大使ジョセフ・グルーが日本政府や軍部に圧力をかけてくれるよう願ったのですが、グルー自身は、南京における日本兵のアメリカ大使館員殴打事件やアメリカ国旗冒涜事件については、強い抗議行動をおこなったものの、中国人への残虐行為を問題にした形跡はみられません。

南京は、湾曲した長江に背後を包まれたような位置にあって、渡江手段を奪えば、外部との交通・連絡を容易に遮断できる地形にあります。日本軍は膨大な部隊で長期にわたってここを占領し、「陸の孤島」となった南京において、いわぱ「密室」状態において、残虐行為をおこなったわけです。

南京安全区国際委員会の人たちは、この「陸の孤島」の中にいて、日本軍の蛮行に直面していたわけです。ですから、なんとかこのおぞましい事実を外部に、そして世界に知らせ、阻止する動きが起こることを期待したわけです。

彼らはまた、アメリカにいる自分の家族や友人に手紙を送り、そのなかで自分らが目撃・見聞した日本軍の蛮行を記しています。これらの手紙の多くは、家族から国務省にコピーが送られ、現在ワシントンの国立公文書館に保存されています。

さらに、当時上海にいた『マンチェスター・ガーディアン』の特派員H.J.ティンパレーは、南京安全区国際委員のベイツ博士と密接な連絡をとり、日本軍当局には秘密なルートを使って、安全区委員会の記録文書や宣教師の手紙・日記類を送ってもらい、それらを基に本を編集し、一九三八年七月にロンドンとニューヨークで同時に発刊します。同書の内容は、欧米の人々を驚傍させ、南京大虐
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殺を世界に知らせるのに大きな役割をはたしました。この本が実は、H.J.ティンパレー編『戦争とはなにか―中国における日本軍の暴虐―』(洞富雄編『日中戦争・南京大残虐事件資料集』第二巻、青木書店、所収)です。この本は、すでに戦時中に日本語訳がされていたのですが、戦後はティンパリィ原著・訳者不詳『外国人の見た日本軍の暴行』(復刻版、評伝社)として一般にみられるようになりました。同書はもともと南京大虐殺事件の告発をめざして企画・編集されたものだったのです。当時は防衛上、資料の出所や個人名は伏していますが、収録された資料はいずれもオリジナルで第一次資料であることが確認できます(詳細は、南京事件調査研究会編『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店を参照されたい)。

そして、今回の話の中心になりますが、この種の残虐事件としては珍しいケースとして、南京事件の一部がフィルムに撮影されて、世界に知らされたのです。さきの表3にジョン・マギーというアメリカ聖公会の牧師がいます。彼が趣味で十六ミリフィルムのカメラを持っていて、手持ちのフィルム八リールに、虐殺場面や犠牲者を撮影したのです。その多くは、難民区内の鼓楼病院で撮影されたものです。聞くところによると、その頃の十六ミリの一リール撮影時間は三分間ぐらいだったそうですから、八リールあわせて二〇分ちょっとの記録ということになります。

このフィルムを、これも表3に名前のありますYMCAのジョージ・フィッチが上海へ持ち出します。一九三八年一月末のこと、フィッチは、難民の食料の調達のために上海へ出張することを日本軍当局に願い出て、許可されます。彼は満員の日本軍軍用列車に乗って南京を脱出しますが、その時、
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ラクダの毛のオーバーの裏地に、八リールのネガフィルムを縫い込んでいたのです。幸い日本軍当局のチェックをうまく通り抜け、上海に着くとただちにコダック営業所に持ち込んで、四セットのコピーを作製してもらいました。

このうちの一セットは、さきほど述べたように、ローゼン外交官の手で本国のドイツ外務省に送られました。そしてもう一セットは、実は日本に持ち込まれているのです。上海の伝道団グループの一女性が、これを日本に持っていってクリスチャンや政治指導者に見せたならば、ただちに戦争停止のために動くだろうと提案し、何週間か後、彼女自身東京で指導的キリスト教徒の小グループに見せたのです。しかし実際は、このフィルムをさらに多くの人々に見せたならば、危害が加えられるだけで何の利益もないと断わられてしまったのです。同じクリスチャンとして、日本のクリスチャンもこうした非人道的な残虐行為を憤り、抗議運動に立ち上がるだろうと期待したのですが、裏切られたので
す。

一九三八年の四月、フィッチはこのフィルムを持ってパン・アメリカン航空の定期便でアメリカに渡ります。そしてロスアンゼルスを皮きりに、フィルムの上映と南京事件やアメリカ伝道団の活動に関する講演を全米各地で行います。そして、渡米の主目的であったワシントンで、国務次官のスタンレイ・ホーンベックをはじめ、下院の外交委員会、戦時情報局などの要人、さらに新聞記者などの報道関係者に、持参のフィルムを見せています。

アメリカではフィルムをもとにニュース映画を作製したり、国策として作製した反日プロバガンダ映画に引用したりして、さらにいくつかのフィルムが編集・作製されました。
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ここにあるビデオは、大阪の毎日放送の加登英成記者が、アメリカに行って、フィッチの孫娘に会ってその所在を確かめ、ロスアンゼルスのフィルム・センターに保存されているものをコピーしたものです。これは、今年〔一九九一年〕の七月三日にTBSの「ニュースの森」と「筑紫哲也ニュース23」で一部が紹介され、さらに関西では、一〇月六日に「MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた―検証南京大虐殺―」で多くが紹介されたものです。

このフィルムはINVADED CHINAというタイトルで、YMCAが広報活動のために編集したものです。全部で一二分ほどですから、フィッチが持ち出したフィルムの全部ではありません。しかし、主要部分は収録されていると思われます。

フィルムは無声ですので、各場面の最初に英語のキャプションがついています。(以下、数字に―罫線がついた― のが、英語のキャプションの訳文で、「」内が私の補足解説です。)

ビデオ「侵略された中国」

  1. ―労働と祈りに暮れる平和な中国の日々―
    「日本軍が侵攻してくる前の平和な南京の光景で、紫金山にある中山陵です」
  2. ―アマチュア・カメラマンがとらえた戦争に苦しむ国民の姿―
    「マギーが趣味で撮影していた平和な時の南京の風景です。これは紫金山にある明孝陵です。南京城壁の周辺のクリークで、こうした市民の生活が営まれていました。これは南京の中華門の前です。南京城の周囲に広がる運河と農村風景です」
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  3. ―幾十万の市民が、侵略者の危害を加えないという約束に欺かれて、中国軍が撤退していった後の南京にとどまった―
    「日本軍の南京攻喀に先立って行われた、日本軍機の空襲による被害の場面だと思われます」
  4. ―友好と善意の代わりに、侵略者は若者を二〇人、三〇人と一組にして、処刑地へと行進させる―
    「鼓楼病院の窓から密かに撮ったもので、難民区に侵入してきた日本軍部隊が、元兵士の疑いをかけた難民の成年男子を引っ張っていく場面です」
  5. ―元兵士の疑いをかけられて拘引されようとする身内の男子を、助けてくれるよう哀願する帰人―
    「日本軍は敗残兵狩りと称して、このように無抵抗の一般市民男子を連行し、集団的に虐殺したのです」
  6. ―侵略軍によって、農民たちが無慈悲に虐殺された―
    「南京の郊外と思われますが、虐殺された死体です」
  7. ―死体になった者は、もはや生き返らない―
  8. ―老婆が家に戻ると、全家族が虐殺されていた。目撃者によれば、二人の娘は強姦され、体を切り刻まれ、残忍に殺された―
    「このような家族の惨劇の例は多発し、たとえば本多勝一さんが洞富雄他編『南京大虐殺の現場へ』(朝日新聞社一で紹介した、当時七歳の少女だった夏淑琴さんの家族が遭遇した悲劇の事例ともよく似ています」
  9. ―後ろ手に縛られたまま、銃剣で刺殺されたり、銃殺された市民の死体が、南京城内や付近のあちこちの沼地に投げ込まれた―
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    「敗残兵狩りのなかで、さきほどのように集団で拘引された成年男子が、郊外に連行され、針金で後ろ手を縛られたまま、処刑されたあとです」
  10. ―市民が日本軍の残虐行為による犠牲者を病院に運びこんでくる―
    「マギー牧師が活動した南京国際安全区のなかに、日本軍占領下の南京における唯一の病院であった鼓楼病院がありました。アメリカ伝道団組織が創設した金陵大学(現南京大学)の付属病院で、別称で大学病院ともいいました」
  11. ―病院は負傷者と手足を切断されて瀕死の重体にある者とでいっぱいである―
    「鼓楼病院には、残虐事件に遭遇して辛うじて生き延びた人々が、大変な傷を負って運ぴこまれてきます。同病院の医師は表3にあるようにトリマーとウィルソンの二人しかいません、しかも外科医はウィルソン医師だけでしたから、彼は不眠不休で患者の治療や手術に尽力します。彼は患者の様子を書いた日記形式の手紙を残していますし、病院の助手が各患者の傷害の原因を調べて記した記録を残しています(前掲『南京事件資料集[アメリカ関係資料編』に「金陵大学病院からの手紙」として収録)。これらの患者は、日本軍の虐殺現場から辛うじて生還した人たちですから、日本軍の残虐行為の生き証人だったといえます」
  12. ―サディスティツクで戦争の狂気におかされた侵略者は、近代戦史におけるもっともおぞましい戦争狂乱にひたり、放火、傷害、略奪、強姦をおこなった―
    「この患者は、座らされて背後から日本刀で首を切り落とされようとした人ですが、切り落とし損ね、首の半分が繋がっています」 
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  13. ―銃剣で腹部を五ヵ所も刺されたこの七歳の子どもは、病院に入って三日後に亡くなった―
    「日本兵は、子どもに道や何かを尋ねて、答えなかったというだけで、殺傷する場合があったことが記録にあります」
  14. ―この十三歳の少年は、日本軍のために一ヵ月以上強制労働をさせられたうえ、残酷にも殴打され、銃剣で傷つけられた―
    「日本兵は荷物運ぴや炊事その他の雑用に、中国人の少年を使うことがよくありました。彼は強制的に働かされたのち、このような仕打ちをうけたのです」
  15. ―十一歳の少女、この子は目前で両親を殺害されたうえ、本人も銃剣によるひどい傷を負わされた―
    「この少女はウィルソン医師の手紙では一三歳となっていますが、彼女についてこう書いています。『今日の午後、私は一三歳のかわいらしい少女にギブスをはめた。日本兵が一三日に街にやってきた時、彼女とその父と母は防空壕の入り口に立っていて、彼らが近づいてくるのを見ていた。一人の兵隊が一歩前に進み出て、父を銃剣で刺し、母をピストルで撃ち、少女の肘を深く切り裂き、複雑骨折を負わせた。この子に親戚はなく、一週間も病院に来なかった。ここを出なくてはならなくなったらどうしようかと今から思案にくれている。両親とも殺されてしまった。』(ロバート・O・ウィルソン「金陵大学病院からの手紙」前掲『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』所収)」
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  16. ―この一八歳の少女は、二八日間拘留され、毎日一〇回から二〇回の割合で強姦された結果、あらゆる種類の性病をうつされ、あげくのはてに捨てられた―
    「日本軍は長期にわたって南京に駐屯しましたから、この間、中国人の婦女子を炊事婦・洗濯婦として拉致し、軟禁状態にして連日強姦・輪姦するケースがありました。そのためこの少女のように悪性の性病をうつされて廃人同様になってしまった者や、望まぬ子を身ごもって無理な堕胎をこころみて身体をこわしてしまった者など、あとあとまで残酷な悲劇がつづきました」
  17. ―妊娠していたこの一九歳の女性は、強姦に抵抗したために、銃剣で頭部と体の二九ヵ所を傷つけられた―
    「この被害者の女性は南京に存命で、『南京大虐殺・フィルムの女性は私』(『毎日新聞』一九九一年一〇月五日付)に紹介された李秀英さん(七四歳)がその人です。李さんは前に述べた毎日放送テレビの『MBSナウスペシャル・フィルムは見ていた―検証南京大虐殺―』にも登場して証言しています。彼女は難民区内の小学校の地下に隠れていたところを三人の日本兵に見つかり、激しく抵抗したために銃剣で全身を刺され、日本兵が病院(ママ)を去った後、病院に運ばれたのです。その時妊娠七ヵ月でしたが、腹部の傷がひどく流産したそうです。李さんは患者たちが『馬会長』と呼んでいたマギー牧師が映画を撮っていたのを覚えているそうです。
    さらに前述のウィルソン医師の手紙にも『若い一九歳の少女で妊娠六ヵ月半の子が、馬鹿なことに二人の日本兵の暴行に抵抗してしまった。この子は顔のあたりに一八ヵ所、脚に二、三の傷を受け、胴体に深い傷を負った。今朝、病院で私は胎児の心音を聞くことはできなかったので、おそらく彼女は堕胎することになると思う。(次の朝彼女は昨夜、真夜中に子どもを堕ろした。専門的に
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    いえば流産ということになるが)』と記されています。
    この李秀英さんの事例は、フィルムによる映像資料と、ウィルソン医師の記録した文字史料と被害者の李秀英さんの証言資料との三つが全く符合しており、まさに日本軍の残虐行為を決定的に確証づけた貴重な事例といえます。」
  18. ―日本兵に輪姦された後に、首を切り落とされそうになった女性―
    「日本兵は強姦は軍規で厳禁されているのを知っていましたから、強姦の後に証拠隠滅のため、つまり被害者から日本憲兵に訴えられないように、殺害してしまう強姦殺害のケースが多かったのです。彼女も日本刀で首を切られ損なった例です」
  19. ―同様なケース、この女性は血の海のなかで発見されて病院に運びこまれ、後に回復した―
    「強姦殺害されそうになったか、あるいは強姦を拒否して殺傷された女性でしょう。この人も首が辛うじて繋がっています」
  20. ―女性を求める日本兵の要求に応えられなかったため、この男性は掌を撃ち抜かれた―報復の典型例―
  21. ―顎を撃ち抜かれたうえに、ガソリンをたっぷりとかけられ、火をつけられたこの男性は、入院二日後に死亡した―
    「日本兵は『憂さ晴らし』『慰みもの』『見せしめ』のための殺害もやりました。東史郎『わが南京プラトーン』(青木書店)には、中国人を郵便袋の中に入れてガソリンをひっかけ、火をつけ、断末魔の苦しみで袋がころげまわるのを面白がった実話が紹介されています(同書、一〇七頁)」
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  22. ―同様に火をつけられたケース、この男性は火傷以外身体に傷はない―
    「この人は、ガソリンで顔だけ焼かれています。首から下はなんともありません」
  23. ―難民の群が、もっと安全な場所を求めて他のキャンプヘと移動していく―
    「ほとんど女性の難民です。難民区内でも南京安全区国際委員会の監視がおよばないところでは、強姦が頻発するために、より安全な難民施設に向かって女性が移動しているところです」
  24. ―家を焼かれた農民たちが、保護を求めて難民区に入り、ワラの掘っ立て小屋を建てて生活している―
  25. ―何百万の人々が飢餓と伝染病と疫病に苦しんでいる―
  26. ―緊急な救済が必要とされている、一ドルで成人一人が一力月救済され、二〇ドルで子ども一人を一年間救うことができる―
    ―終わり―

    「最後は、日本の侵略に苦しむ中国の民衆を救済しようと資金協力を訴えるYMCAのキャンペーンです」


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