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第4・5(4)ク その余の文献の評価

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沖縄集団自決訴訟裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第4 当裁判所の判断
第4・5 争点4および5(真実性及び真実相当性)について
第4・5(4) 集団自決に関する文献等の評価について

第4・5(4)ク その余の文献の評価




(ア)(櫻井よしこのコラム)*


櫻井よしこは,第4・5(2)ア(イ)f(b)のとおり,週刊新潮のコラムにおいて,座間味島の集団自決について概ね原告梅澤の供述に沿う事実経過を記載しているが,第4・5(2)ア(イ)f(b)で判示したとおり,その記載内容から原告梅澤に対する取材や前記神戸新聞の記事等に基づく見解にとどまり,原告梅澤に対する取材を除き,櫻井よしこが生き残った住民等からの聞き取りを行ったものとまでは認められないから,後記第4・5(5}ウのとおり,原告梅澤の供述等が措信し難い以上,その資料的価値は乏しいというほかない。


(イ)(陣中日誌)*


陣中日誌(甲B19)は,その中に掲載された「編集のことば」によれば,第三戦隊本部付であった谷本小次郎が基地勤務隊辻政弘中尉が記録した本部陣中日誌と昭和20年4月15日から同年7月24日までを記録した第三中隊陣中日誌をもとに,昭和45年8月15日に編集,発行したものであるとしている。折しも,赤松大尉が渡嘉敷島を訪れた際に抗議行動が起こり,そのことが報道されたのが同年3月であるところ(甲A4ないし7),「陣中日誌」は,このような報道後,同年8月15日に発行されたものであるし,その元となった資料は書証として提出されておらず,その転載の正確性を確認できない。


(ウ)(「花綵の海辺から」)*


戦史研究家である大江志乃夫が執筆した「花綵の海辺から」には,第4・5(2)イ(イ)のとおり,
「赤松嘉次隊長が『自決命令』をださなかったのはたぶん事実であろう。西村市五郎大尉が指揮する基地隊が手榴弾を村民にくばったのは,米軍の上陸まえである。挺進戦隊長として出撃して死ぬつもりであつた赤松隊長がくばることを命じたのかどうか,疑問がのこる。」
との記載がある。

その「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったと考えた根拠は,甲B第36号証として提出された「花綵の海辺から」の一部からは,「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する体験談を記載された大城良平の証言をあげる以外明確にされていない。「沖縄県史 10巻」(乙9・781頁)に記載された赤松大尉が部下を指揮できなかったことを指摘する大城良平の体験談の評価については,第4・5(4)カ(イ)のとおりであり,大城良平から聞かされたという遺族年金の支給という実益問題にも疑問があることは,第4・5(3)のとおりであって,大江志乃夫の「たぶん」赤松大尉が自決命令を出さなかったという観測的な判断は,本訴において資料価値は低いものというほかはない。


(エ)(「沖縄戦ショウダウン」)*


上原正稔が平成8年に琉球新報に掲載したコラムである「沖縄戦ショウダウン」には,第4・5(2〕イ(イ)gのとおり,金城武徳や大城良平,安里巡査が,赤松大尉について,立派な人だった,食料の半分を住民に分けてくれた,村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと語ったことが記載された部分及び援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分がある。

しかしながら,第4・5(1)のとおり,赤松大尉は,大城徳安,米軍の庇護から戻った二少年,伊江島の住民男女6名を正規の手続きを踏むことすらなく,各処刑したことに関与し,住民に対する加害行為を行っているのであって,こうした人物を立派な人だった,村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することが正当であるかには疑問がある。そして,第4・2(3)で判示したとおり,赤松大尉は,昭和45年3月28日に渡嘉敷島で行われた戦没者合同慰霊祭に参加しようとしたものの,反対派の行動もあって,沖縄本島から渡嘉敷島へ渡航できなかったのであって,このことに照らしても村の人で赤松大尉のことを悪く言う者はいないなどと評価することは疑問であって,その記載は一面的であるというほかない。

また,援護法が集団自決に適用されるためには軍の自決命令が不可欠だったから赤松大尉は一切の釈明をせず世を去ったと記載された部分についても,第4・5(3)で判示した事実によれば,根拠がないというぺきである。




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