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一五 スティール、スミス両記者の報道

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一五 スティール、スミス両記者の報道

 『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティールが送った記事は、スタンフォード大学フ一バー研究所の東アジア文庫にあった『世界日報』で中国語に翻訳掲載されたものを見ることができた。『世界日報』(TheChineseWorld)はサンフランシスコで発行されていた華僑の新聞である。

 ロイターのスミスについては、同じく『世界日報』に、かれの目撃談が載った。厳密にはスミスの報道記事とはいえないが、上海に戻ったかれらが、報道活動を行っていた証拠という意味もあって、ここに紹介する。

 なお、新聞の日付の順序は逆になるが、報遣内容がつながるので、スミスの談話記事から先に紹介する。

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南京陥落の経過 ―ロイター社スミス記者の目撃談―

(『世界日報』一九三八年一月十四日)

 十二月十八日上海通信 ロイター社記者スミス君は南京包囲戦を観戦し・陥落後はじめて南京を離れて上海に到着した。包囲戦たけなわのとき、かれは紫金山から両軍の戦闘情況を観察していたので、記事のような見聞をすることができた。かれはこう語った。

 十二月十二日午後、わたくしはイタリア大使館の屋根から日中両軍が血戦を始めるのを見ていた。殺害の残酷さは恐ろしいほどだった。あるとき城南の三力所に大火が発生し、炎と煙は高く舞い上がった。水遣局や城西の山地に、日本軍の砲弾が頻々と落ちた。砲声は城内全体を震動させた。城西の中国軍も重砲を撃ちかえした。当時、日本軍は二個の気球を大空に上げ、砲兵に目標を指示していた。この日の午後四時半になると、両軍の砲戦の形勢は突如変化し、城内の民衆に大恐慌がおこり、争って穴ぐらに逃げこんだ。

 「日本軍が入城したぞー」と大声があがると、まもなく中国軍は紛々と城北へ退却し、長江に向った。大軍の紀律はよく保たれていた。ある兵士は武器を棄てていった。アメリカ大使館の前を退却していったのはおよそ一個師団であった。一方では、ふたたび前線に向い日本軍に抵抗する軍隊もあった。中山路は退却兵でいっぱいであった。秩序は混乱した。

 中山路を撤退していく中国軍を察知した日本の飛行機から、中山路へ向けて発砲するよう指示が出されたため、路上の中国軍は混乱に陥った。それでもなお、紀律は守られていた。街路には

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武器・弾薬が残され、軍装品を遺棄して安全区に逃げ込んだ者もある。

 夜一〇時ころになって、交通部の壮麗な建物に火がっき、なかにあった弾薬がはげしく爆発した。中山路の車輌は、そこで通行不能となっただけでなく、車輌にも火が移った。街路の潰走兵と難民は逃げようとしても逃げられず、秩序はいよいよ素乱した。多勢の中国軍部隊は下関まで、歩いて行った。しかし、そこもわずかに狭い路が通れるだけであった。車輌はぎっしりとつまり、さらに車輌の多くに火がつき、中国軍に焼死者がたくさんでた。路上には死体が累々とし、下関路口には死体が積み重なり、あとから来た中国兵は縄ばしごや太縄、あるいは帯を使って死体の山を越えていった。ある者は駆け登ってこれを越えていった。

 かれらは下関路口を脱出したあと、長江を渡河する船艇をわれがちに探した。渡河の人数が多かったので運送中の杉の筏まですべて徴用された。船はたくさん人が乗り過ぎて長江の真中で沈没し、かなり溺死した。そのとき、一部の中国軍は日本軍の進攻を極力阻止し、大軍の退却を援護した。

 この日の夜は、機関銃の音がはげしく、戦闘は深夜にいたった。城廓外の中国軍はすでにことごとく犠牲になった。ある目撃者の語によれば、城廓付近の中国兵み死者は一千以上とのことだった。

 翌朝なおわずかな中国軍は城内にとり残されていたが、もはや抵抗できないとわかると、武器を棄てて難民区へ入った。

 防衛司令官唐生智は、十二日の一〇時に南京を離れたと聞いた。

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 日本軍の攻城砲火は、通済門に集中した。中国軍は城門外の石橋を事前に爆破したが、完全ではなかった。

 十三日午後一時、南京城の大部分が日本軍に占領された。しかし北部はまだ中国軍の守るところだった。日本軍が城北に達したのは十五日の朝であった。中国軍は完金に首都を放棄した。

日本軍、南京で膚殺・略奪――下関の道路には五尺の死体の山――

(『世界日報』一九三七年十二月十八日)

 十五日、シカゴ・デイリー・ニューズ中国特派員スティール、南京電(遅着)

 南京が日本軍に包囲され陥落する前後四日間、もしこの四日間の情景を表現しようとすれば、「地獄の四日間であった」という言葉以外にはない。

 私と外国人数名は、アメリカ砲艦オアフ号に乗って南京を離れた。これは南京陥落後、離京する最初の外国人である。私たちは南京城を出るときに、長江沿いの城壁付近で中国人三〇〇人が日本軍に銃殺されるのを目撃した。これらの三〇〇人が倒れる前に、すでに膝に達するほどの死体が城壁付近に積み重なっていた。これらは、この数日来の南京でも、もっとも凄惨な情況といえた。

 南京陥落のさいの残虐と混乱のさまは、筆舌に尽くしがたい。中国軍が南京を撤退するとき、城内の民衆の生命は、少しも保障されなかった。ただし、日本軍の入城後の残虐は、それとは比

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較にならない。日本軍に虐殺された中国軍民は、数えただけでも、数千になる。幸いに南京の外国人居留民はまだだれも殺害されていない。

 日本軍はかつて、中国人民の同情を獲得するつもりだと述べた。この言葉は確かだとしても、南京を占領したときの日本軍の蛮行は、この種の計画をぷちこわすのに十分であった。

 中国軍が撤退してのち、日本軍がまだ侵入しなかった間は、械内の民衆は戦闘がすでに終了し、一命をとり止めることができたと思った。しかし、その希望も束の間に破れ、入城してきた日本軍は、狂犬のごとく、会う人ごとに殺害した。日本軍が南京で虐殺した中国軍民の総数を計算することは難しいが、五千から二万の問ではないかと推測さ札る。

 中国軍が最後に南京を退出したときは、陸路はすでに遮断され、唯一出城できた下関の城門を出るときには、高さ五尺にも及ぷ死体の山の上を車で通行しなければならなかった。これによっても当時の惨状を知ることができよう。

 城内の道路で目に触れるものはみな、軍民の死体であった。中国軍が退却を待っているとき、船がどうにもならずに、あとにとどまるよりはむしろ、長江に身を投ずみ者もあった。

 日本軍は城内を略奪した。アメリカ大使館および外国人の住宅は、みな戸を破られ闖入され、ことごとく掠奪された。金陵大学病院もまた日本軍に押入られ、看護婦の腕時計や指輪、お金など、すべてが強奪された。アメリカ人の車二台もまた盗難にあった。難民区でさえも掠奪を免れることはなかった。中国軍も退却のさいにひそかに略奪行為を行った。

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 なお、スティール記者の証言は、アメリカの週刊誌『タイム』の一九三八年二月十四日号にも、「中国における戦争」と題してつぎのように掲載されている(同資料は一橋大学の吉田裕氏の提供による)。

 外国人特派員が南京に入ることは、先週の段階では依然として日本軍に阻止されている一『タイム』十二月二十日)。『シカゴ・デイリー・ニューズ』は極東のエース特派員A・S・スティールより遠隔の地の"南京虐殺"に関する重大な垂言を受信した。

 日本軍が南京を占領した当時、現地に居合わせたスティール氏は、それ以後、残忍な模様を外部に知らせようと努めた。かれによると、「すべての者(中国人)は、兵服や銃を携帯して見つかった場合、死は免れないと承知している。銃は壌され、焼却するために瓦礫の山に投げこまれた。路上には兵服や軍需品が捨てられていた。&&」

 「日本軍の包囲網がせばめられると、中国兵のなかには恐怖にかられて狂乱状態になる者もいた。突然中国兵一人が自転車をつかむと、がむしゃらに乗りだすのを目撃した。その行手には、日本兵の先遣隊がわずか数百ヤードのところまで迫っていた。通りあわせた者がかれに身の危険を知らせると、大あわてで向きをかえ、反対方向に急いで走り去った。しばらく行ってから突如自転車からとぴ降りると、近くの中国市民に体当たりして、うしろのほうから中国人の服をはぎとりながら、同時に自分は兵服を脱ぎ捨てていた。&&」

 「私はかってヨーロッパの地で、野兎を追うのを見たことがある。ハンターの一群が、あわれな兎をおりに追い込んで、なぐり殺したり銃で撃ち殺したりしたものである。日本軍が南京を占

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領してからの光景は、いけにえは人間であるのが違っていたが、これと非常によく似たものであった」

 「日本軍は虐殺に熱中した。捕えた兵士や国民党官吏をことごとく殺りくするまで満足はしないようだった&。銃で殺害した死体の山に立った日本兵は、身動きをする人体があると銑剣をでたらめにつき刺した。」

 「日本軍にとってこれが戦争というものであろうが、私の目には殺人としか映らなかった。」

 もっとも確かな推定としては、南京での日本軍による処刑は二万人、上海・南京戦で殺害された中国兵は一一万四〇〇〇人、このときの日本兵の死者は一万一ニ〇〇人である。

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