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朝鮮人軍夫のこと

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朝鮮人軍夫のこと

垣花 武一
※阿嘉島

  私たち義勇隊の仕事は、日を追って厳しくなっていった。特にきつい仕事が水汲みであった。大勢の兵隊の水を供給しなければならないので、米軍からかすめてきた五ガロン入りの水缶に水をいっぱい入れて、谷間から本部の壕(タキバル)まで運んでいくのである。水を汲むといっても、井戸があるわけではなく、チョロチョロ流れる川のせせらぎをせきとめて、溜めては汲みの繰り返しであった。一時間に二〇リットルほどは汲めただろうか。それを数往復して、運んで行くのである。

  また食糧運搬は、炊事班のある谷間まで四、五人の兵隊の引率で出かけ、
「本部、飯上(めしあ)げにきました」
といって、人数分を缶のバケツに入れてもらい、担いでいった。その中には、私たち義勇隊の分もふくまれていた。ただ食事の内容は雑炊で、五月ごろまではわずかの米が入っていたが、その後は米つぶなしの味もそっけもないキャベツやツワブキの茎だけの雑炊に変わった。

  空襲で、島の食糧のほとんどが焼かれた上に、三カ月以上も山ごもりしていては、食糧がなくなるのは当然のことである。

  五月に入ったころだっただろうか、本部と二中隊の壕の中間あたりに、朝鮮人軍夫たちが縦、横五、六メートル、深さ二メートルほどの穴を、二ヶ所に掘っている。何をするのかと思っていたら、そのうちに穴を掘った彼らがその中に入れられ、上から丸太棒数本が格子状に組まれて穴を塞ぐ格好で横たえられた。逃げられないよう閉じ込めてしまったのである。それまで、軍夫が多数米軍に投降しており、これ以上逃亡を許さないという、日本軍の思惑があったからかも知れない。

  中をのぞいてみると、座るスペースもないほど朝鮮人がびっしり詰められている。歩哨は防衛隊があたり、彼らの食事は、現在の小さなさばかん詰めの大きさの器八分くらいであった。

  朝鮮人軍夫の食事は、当初から差別されていた。兵隊たちがごはんのときはおかゆ、おかゆのとき、は粗末な雑炊という具合で、穴に入れられてからは、米粒が入っているかどうかのおかゆであった。

  彼らは用便のとき以外は一切外に出してもらえず、用便を告げた者に対してははしごを下ろし、他の者が登ってこないよう銃剣が向けられた。ある日、軍夫の中でも屈強の男性が一人用便を申し入れた。例のごとく地元出身の防衛隊員が外に出したところ、その軍夫がいきなり逃げ出したのである。大騒ぎとなり、緊急手配して捕まえてきたが、彼は一晩中、松の木に縛りつけられたあと、兵隊によって処刑されてしまった。朝鮮人軍夫の処刑については、住民の多くが目撃しているが、私が直接みたのはその一例だけである。

  食糧が底をついたのは六月に入ってからであった。そのころから、軍は住民が勝手に田や畑から稲や芋、野莱を持ち出すのを禁じ、整備中隊の兵隊が監視するようになった。それだけではない。

阿嘉島に生えている木や草の一本とて、軍の命令がない限り取ってはいけない、もし見つけたら処刑する
とまでいうようになっていた。もはや住民にとっての敵は米軍ではなく、友軍となってしまったのである。


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