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1-07 どういう基準で選んだのか…

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1-07 どういう基準で選んだのか…


一九三七年


  一九三七年(S12)暮れの時点ではとにかく急いで集めなければならなかった。北九州にむかった御用商人たちは二十歳前後で健康そうなのにかたっぱしから声をかけていたらしい。日本人の場合は「こんな体でもお国の役に立つなら」という人を集めたというがいずれも北九州の出身者だったそうだ。つまりさしたる基準はなく集めて現地へ連れていき、軍医の検診で性病の心配なしとされるのが基準といえば基準だった。


一九三八年


  それが戦線の拡大と投入する将兵数の増加により北九州だけでは間にあわなくなった。そして徐州会戦16)のあった一九三八年(S13)夏以降から朝鮮半島の農村地帯へ御用商人がのりこんでいくことになった。ただいっても信用されないから多くの場合朝鮮半島の村(朝鮮では"面"という)におかれていた駐在所の日本人警官へ同行を頼み、その信用と圧力で「戦場で兵隊さんの炊事や洗濯の世話をする仕事」と北九州でやったのと同じ科白(せりふ)で集めることにしていった。この時の基準は十代末か二十歳そこそこで健康な未婚者というのが一応の基準だったとされている。当然のように有無をいわせぬ強制連行も少なくなかった。


一九四一年


  はっきり基準がもうけられたのは一九四一年(S16)夏、対ソ戦開始の決意を前提に"満州"へ八十五万の大軍を集めた関東軍特殊大演習(関特演)のときからだ。もっというと、この八十五万の将兵に必要な従軍慰安婦を二万人と計算、それを急速に集める必要にせまられた軍がこの掻き集めを朝鮮総督府17)に依頼したときだ。

  短期間にこれだけの女性を集めるには強権をもってするしかない。このとき"国家総動員法"の適用が考えられた。国家総動員法とは一九三八年(S13)国会で承認された法律で「戦争もしくは事変のさい国が必要とあれば国民のもつすべてを徴用できる」と私有財産も否定するものだったが、そこでは「国が必要とすれば国民も徴用18)できる」となってい
た。日本内地でもこの徴用を命ずる徴用令書をうけ町の商店主が店を閉じ軍需工場で働かされたり家族にいる娘たちを女子挺身(ていしん)隊として軍需工場へ送りこんだりしたが、それはもう少し後だ。

  朝鮮半島でこのときこの適用が考えられたのだ。当時、朝鮮は日本の領土で朝鮮人のすべては日本人とされていた。もっともこの関特演のときは八千人の女性を掻き集めたところで対ソ戦は中止、東南アジアの資源地帯へ侵出と国の方針が変わったので、それ以上はいかなかったが基準だけはつくられた。

  十七歳以上四十歳未満で未婚の健康な女性という基準だ。

  それ以後"大東亜戦争"となり東南アジアから太平洋に点在する島へと将兵の大量侵出が始まると、朝鮮半島からさらに大量の女性が集められた。それは一応この基準に従い、国家総動員法の徴用令により連行されたので"女子挺身隊"とよぱれるようになった。

  そこで挺身隊は従軍慰安婦のことと理解され、そこから今韓国で従軍慰安婦のことを、挺身隊とよんでいるのだ。

  ただし、朝鮮半島以外の中国大陸や台湾はじめビルマ(現ミャンマー)、フィリピンなどでこの基準で集められたかどうかはわからない。武昌(ぶしよう)で中国人従軍慰安婦の検診をした軍医の話ではまだ少女の色をとどめるのもいたという。現地で集めた場合にはそんなことはどうでも良かったのではないか。ダバオでは人妻も連行してきたと伝えられている。

16) 徐州会戦(じょしゅうかいせん)
一九三八年四月に行なわれた日本軍による徐州攻略作戦。華中交通の結節点である徐州を攻略、占領することであったが中国軍の主力を包囲撃滅することはできず、津浦線の南北打通にとどまった。

17)朝鮮総督府(ちょうせんそうとくふ)
併合後の朝鮮統治機関で京城(ソウル)に設置され天皇に直属し、軍事、行政一切を統轄した。初代総督は陸軍大将寺内正毅。一九四五年敗戦とともに廃止。

18)徴用(ちょうよう)
第二次大戦中、軍需産業労働力確保のために国家権力が国民を労務に強制動員したこと。国家総動員法に基づく国民徴用令により厚生大臣が命令し召集。徴兵の赤紙召集に対し白紙召集といわれた。

19)大東亜戦争(=太平洋戦争)
[一九四一(昭和十六)年~一九四五(昭和二十)年]
一九四一年十二月八日、日本海軍はハワイ真珠湾を攻撃し、連合国との全面戦争に突入した。日本軍は緒戦こそ圧勝したが、四十二年ガダルカナル敗退を境に急激な劣勢に陥った。しかし戦争は続行され、遂に原爆投下の惨事を受けることとなった。遂に四十五年八月、日本政府はポツダム宣言を受諾し降伏した。

現在では太平洋戦争の呼称を用いることが多いが、当時は大東亜戦争と呼ぶことが決定、使用された。

「大東亜戦争と称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を大東亜のみに限定する意味にあらず」。

大東亞とは、中国、東南アジア一帯のこと。また、大東亜新秩序とは、天皇を頂点とする一つの家のように全世界を統一しようという構想である。




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