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一二 南京大虐殺の証言者

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一二 南京大虐殺の証言者

 日本軍による南京大虐殺は、十二月十三日の南京占領から、松井石根大将を迎えて入城式を行った十七日の前夜までがもっとも大規模に行われ、その後も一~二週間にわたって激しい虐殺・暴行・掠奪がくりひろげられた。虐殺は翌年の二月初旬まで続くが、一月六日にアメリカ大使館員が南京入りしたときは、すでにそのピークは過ぎている。

 いままで明らかにできたところでは、南京大虐殺を時間的・量的にもっとも多く目撃できた外国人は、南京国際安全区にいた二二名を除いては存在しない。

 それゆえに、「東京裁判」において南京大虐殺の証人に立ったのが、ジョン・G・マギー、ロバー

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ト・O・ウィルソン、マイナ・S・ベイツら表3にある二二名中の人物であり、また検察側書証として提出されたのがスマイス、フィッチ、マッカラムら同様に表3中の人物の証言であったのは、その妥当性があらためて指摘できよう。

 南京事件を最初に世界に紹介したティンパレーの『外国人の見た日本軍の暴行』(一九三八年三月)も、これら二二名中の人物が送った手紙や手記をまとめたものである。(なお、同書の原題は本稿で引用したように『戦争とはなにか』であるが、戦後の日本では中国語訳の『外人目賭之日軍暴行』の翻訳本が広まった。)

 外国人目撃者としてもっとも信頼できる条件を有しているかれらの証言に対して、勝手な推測をつけては、その史料的価値を否定しようとしたのが鈴木明『東京大虐殺のまぼろし』である。錯木明氏は「東京裁判」におけるさきの三人の証人に対して、このように記している。

 「東京裁判の証人の表情は、勝者の敗者に対する決定的な優越感である。如何なる証言をされても、それが"否"であるという証拠が被告側から絶対に出ることのない証言である。」(四四頁)

 勝者が敗者を裁いた「東京裁判」で、これらのアメリカ人の誇張・増幅された告発・証言をもとに、南京大虐殺像がデッチ上げられたというのが鈴木氏の説である。

 鈴木説に対しては、かれらが当時、すなわちまだ太平洋戦争も始まっていないときに書き記した証言(後述する)を照合すれば、その誤りはかんたんに判明する。

 私がたどりついた結論は、南京大虐殺の発生当初に、すでにニューヨーク・タイムズ上海支局のハ

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ーレット.アベンド(HalletAbend)が指摘していたのである。かれは南京を引き揚げてきたダーディンらの報告を聞いて、.一九三七年十二月十九日付の『ニューヨーク・タイムズ』に、つぎの記事を書いている。

 「日本の国も国民も、武勇と義佼の誉れ高い陸軍を長く誇りにしてきた。が、中国の大掠奪集団が町を襲うときよりひどい日本兵のふるまいが発覚したいまや、国家の誇りは地に堕ちてしまった。

 この衝撃的な事実を隠蔽しようとしても無駄であると、日本当局は沈痛に受け止めている。偏見やヒステリーに充ちた中国人の言うことには、日本兵の蛮行を告発する根拠は見出せなくとも、忌まわしい事件の間じゅう、市内にとどまり、今なおそこにいて、絶え間なく続く暴行を書きとめている、信頼のおけるアメリカ人、ドイツ人の日記や覚書によって、日本兵の蛮行は告発されるであろう。」

 報遣手段から隔絶された日本軍占領下の首都の情況を熟知していたアベンドは、これらの南京残留の外国人こそが、南京大虐殺を世界に告発・証言する歴史の証人になると確信していたのであろう。

 その後の推移は、アベンドの予告どおりに展開し、世界各国の新聞・雑誌にかれらの告発・証言が掲載され、南京大虐殺は広く知られるようになった。しかし、世界に冠たる厳しい言論弾圧下におかれた日本国民だけが、「東京裁判」までそれらの報遣を知らされなかったのである。

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