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原告準備書面(9)全文2007年07月25日

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原告準備書面(9)全文2007年07月25日


第10回口頭弁論・第1回証人尋問
原告準備書面(9)
平成19年7月25日


第1 照屋昇雄証言について


1 被告主張


被告は、被告準備書面(11)で照屋昇雄(元琉球政府援護課職員)証言が信用できないと主張する。

被告はその根拠を、照屋が琉球政府に採用され中部社会福祉事務所の社会福祉主事として勤務したのが1955年(昭和30年)12月であり、1956年(昭和31年)10月1日には照屋が南部社会福祉事務所に配置変えとなり、さらに1958年(昭和33年)2月15日に社会局福祉課に配置換になっていることをあげ、照屋が、社会局の援護局に在籍していたのは1958年(昭和33年)10月のことであるという。

そして当時、照屋は同局の庶務課に在籍していたのであるから、「昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を勤めていた」とする照屋証言は、上記の琉球政府の人事記録に反しており虚偽であるとする。


2 辞令の存在と照屋証言の真実性


しかし、照屋は1954年(昭和29年)10月19日付で琉球政府から「援護事務を嘱託す 日給壹百五十円を給する 社会局援護課勤務を命ずる」とする辞令を受領しており(甲B63) 、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日付で琉球政府行政主席比嘉秀平より援護事務嘱託であった照屋昇雄に対し「旧軍人軍属資格審査委員会設置規定第四条の規定により旧軍人軍属資格審査委員会臨時委員を命ずる」とする辞令が発給されているのである( 甲B64) 。

照屋の証言と辞令からすれば、照屋が1954年(昭和29年)10月19日から、社会局援護課に勤務し、援護事務嘱託として稼動し、さらに1955年( 昭和30年) 5月1日から旧軍人軍属資格審査委員会の臨時委員として稼動したことが明らかである。

さらに1956年(昭和31年)1月8日に願により嘱託を解かれるまで照屋が援護事務業務を遂行していたことも、琉球政府発行の公式書類により明らかである(甲B65) 。

照屋は真実、復員業務事務の中で復員調査票を作成し、さらに援護事務の一環として各部隊の戦況、現地の状況を調査し、アメリカ側の資料とも照合して戦況調査を行ない住民の自決者についての情報も集めて役所に提出した。

これらの活動結果がその後の集団自決に援護法の適用が決定された際の具体的な適用の際の資料として活用されたものである。

この点については、原告が第7準備書面21頁において
「この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった」
と指摘しており、この指摘が時期の点でも正確であることが了解いただけよう。

3 補足


そうしてみると、被告提出の乙56の1ないし乙59は、照屋が1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかったとする被告主張の根拠にはなり得ないし、また「照屋氏は1958年( 昭和33年) 10月まで援護事務に携わる援護課に在籍していなかった」とし照屋が渡嘉敷島で住民から聴き取り調査をしたり、自決命令があったとして援護法適用のために活動したということは考えられないとする主張も全く根拠がないことになる。

乙56の1及び2は、照屋が1956年(昭和31年)1月8日に願いにより(援護事務)嘱託を解かれた前後の処遇に関するものである。

具体的に指摘すると、嘱託で働いていた照屋は、1955年(昭和30年)12月31日に琉球政府に三級民生管理職として正式に採用されたので(乙56の1)、それを受けて直ちに願いを出し、援護事務嘱託を解く決定を琉球政府になしてもらったのであり、その日付が1956年(昭和31年)1月8日であったのである(甲B65)。年末年始を挟んだため8日程度の間が空いているが、実質は完全に連続性のある身分の移動といえるのであり、乙56によって、逆に甲63ないし65の真実性がより明らかになっている。

乙56ないし58のような援護課勤務でない別の時期の照屋の勤務に関する資料を提出して、照屋が社会局の援護課に勤務したのは1958年(昭和33年)10月からであり渡嘉敷島住民のための援護事務は行っていないと被告が主張するのは、悪意に満ちた誤導というほかはない。

第2 阿嘉島の野田隊長による自決命令について


1 被告主張


被告は、準備書面(7)第2の3の(2)(15頁)において、
「座間味島においては、集団自決の発生当時、住民は『自決せよ』との軍命令(隊長命令)をうけていたのであり、阿嘉島においては、野田少佐による自決命令の訓示がなされていた(乙9・730頁)。同じ慶良間列島の渡嘉敷島においてのみ、戦後、島に残っていた者の責任回避のために軍命令があったという話が言われ始めたとする原告の主張には、何の根拠もはない」
と主張する。

さらに被告準備書面(10)第4の1の(3)(11頁)でも
「大城昌子が
『阿嘉島駐屯の野田隊長から、いざとなったときは玉砕するように命令があったと聞いていました』(乙9・730頁)
と証言しているほか『座間味村史』上巻(乙49・357頁)にも同様の記載がある。さらに、阿嘉国民学校慶留間分教場の校庭で野田隊長の訓示を聞いた與儀九英氏は、野田隊長が
『敵ノ上陸ハ必至。敵上陸ノ暁は全員玉砕アルノミ』
と厳しい口調で大声で住民に訓示していたと明確に証言しており(乙48)、慶留間島において野田義彦少佐の住民に対する玉砕訓示があったことは明白である」と述べる。

この野田隊長による自決命令については、原告は、準備書面(7)49頁以下で、その不存在を主張したが、改めて、以下内容を補足して、かかる命令の不存在と野田隊長の行為が《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠と何らならないことを指摘する。

2 野田隊長による自決命令の不存在-『沖縄県史』第10巻より-


まず、大城昌子証言は
「いざとなった時には玉砕するように命令があったと聞いていました」
とするものであり、大城昌子自ら玉砕命令を受けたものでもなく、他人から玉砕命令を聞いたというものであり単なる伝聞にすぎない。しかも、この大城証言はその後にさらに、
「その頃の部落民にはそのようなことは関係ありません。…(中略)…考えることといえば、天皇陛下の事と死ぬ手段だけでした。命令なんてものは問題ではなかったわけです」
と、命令とは無関係に自らの意思で自決したという決定的な言葉が続くのである(乙9・730頁)。

また、そもそも座間味村には座間味島、阿嘉島、慶留間島があり(うち阿嘉島及び慶留間島に、野田戦隊が配置されていた)、阿嘉島の事例は、本件訴訟で問題となっている座間味島の集団自決とは別のものである。そして阿嘉島では、集団自決は一件も発生しなかったことを県史がみずから認めているのである(乙9・700)。被告の主張のように野田隊長による「自決命令の訓示」があったと仮定しても、阿嘉島で集団自決が一件も発生していないのであるから、野田隊長の訓示は何の意味も持たなかったことになる。

さらに阿嘉島の義勇隊員であった中村仁勇は
「野田隊長は住民に対する措置という点では立派だったと思います」
と野田隊長の住民に対する対応を評価する。そして中村は、
「(3月)26日の切り込みの晩、防衛隊の人たちが戦隊長のところへ行って、
『住民をどうしますか、みんな殺してしまいますか』
と聞いたわけです。野田隊長は、
『早まって死ぬことはない。住民は杉山に集結させておけ』
と指示したそうです」と証言する(乙9・708頁)。この言葉は、3月26日の段階で野田隊長から自決命令が出ていないことを雄弁に物語っている。

さらに中村は、
「6月末ころだったんですが、中岳というところに部落民みんなを集めて
『住民は逃げたければ逃げてもいい。ただし、兵隊の逃亡は容赦しない』
という命令がありました。それから住民はどんどん島を抜け出して、最後まで残っていたのは、私の家族とか郵便局長の家族とか、ほんのわずかの人数でした。島の周辺にはひっきりなしにパトロールの舟艇がやってきて、浜へおりて合図をやるとすぐに迎えにきて座間味の方へ連れていくんです。…(中略)…部落民がはじめて島を抜けだすのは、命令があった時よりもずっと前からで(あった)…」
などとも述べている(乙9・710頁)。野田隊長が、住民に自決を求めていなかったこと、住民が投降することを認めていたことは、ここからも明らかであろう。

なお、阿嘉島の垣花武一も
「その後公然と逃亡許可がおり、6月22日、野田隊長は『降伏したい者は山をおりてよし』という命令を出したため、3分の2近くの者が小さい子供たちを連れて米軍の方に行きました」
と、中村仁勇と同様の証言をしている(乙9・725頁)。

加えて、阿嘉島の住民中島フミは
「軍曹に殺してくれとお願いした。するとその人は『お前たちは心の底から死にたいとは思っていないから殺さない』といわれた」
と証言する(乙9・718頁)。自決命令が出ていれば、殺してくれと頼まれて拒絶する理由はない。殺してくれと頼まれても拒絶していることは、自決命令のなかった証左といえる。

2 野田隊長による自決命令の不存在-『座間味村史』下巻より-


『座間味村史』下巻(乙49)においては、
「慶留間部落民は、前月(2月)八日の『大詔奉戴日』に阿嘉駐屯の戦隊長・野田少佐から訓示を受けた際、隊長がしきりに『玉砕』について話していたことが脳裏にひっかかっていた。この『玉砕』の話の内容について詳しく覚えている人はいないが、隊長がこと細かに『玉砕』について説明していたことから、ほとんどの住民が“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味だな”と解釈していた。ただその場では自分たちとはおよそ無縁の話だと、そんなにこだわりもせず聞き流した程度であったが、上陸によって、住民たちは野田隊長の訓示の意味を悟ったという」
との記載がある(乙357、358頁。下線部は原告代理人)。

しかし、そもそもこのような訓示があったか否かがまず問題である。前記の沖縄県史第10巻(乙9・昭和49年)においては、大城昌子が伝聞ではあるがそのような訓示について論及しているが、平成元年発行の座間味村史下巻においては、
「内容について詳しく覚えている人がいない」
として結局具体的に野田隊長の訓示内容を証言できる者がいなかったことが明らかとなっている。

この座間味村史下巻の第2編第5章は、ほかならぬ宮城晴美が十分な調査をして執筆した部分であり(乙63・2、3頁)、宮城晴美の調査をもってしても不明であった野田隊長の玉砕訓示の内容が、現在になって突然與儀九英によって具体的に明らかにされた(乙48)というのも、釈然としないところである。

そして、このような野田隊長の玉砕訓示が仮にあったとしても、それは(與儀を除いて)
「内容について詳しく覚えている人がいない」
程度の話であり、さらに“いざとなったら自分たちもいさぎよく『玉砕』しろという意味であると「解釈した」が、「自分たちとはおよそ無縁の話だと聞き流した程度であった」というのであるから、およそ具体的な「命令」とは考えられないものである。

さらに、「玉砕」という言葉自体についても、「軍民一丸となって死を恐れずに敵に向かっていき精一杯戦うべし」という士気高揚の意味にとるのがむしろ自然であり、また自決を示唆するものとしても、「いよいよ米兵に虐殺陵辱されそうになったら」という条件付きのものとも取ることができる。

いずれにしても「全員玉砕アルノミ」との言葉を、「軍の足手まといにならぬように住民は先に自決せよ」というような意味の自決命令と解するのは、あまりに無理矢理な解釈と言わざるを得ない。

4 まとめ


以上の点からすると、被告は大城昌子証言、與儀九英証言を著しくねじ曲げて、野田隊長による住民への自決命令があったと強弁しているに過ぎない。

さらに本質的な問題は、本件で争われているのは、阿嘉島でも野田隊長でもない、渡嘉敷島の赤松戦隊長と座間味島の梅澤戦隊長(原告梅澤)から自決命令が出たか否かであるという点である。

赤松戦隊長と梅澤戦隊長の自決命令の根拠(状況証拠)にするために、断片的な証拠から、およそ現実にあったとも思われない野田隊長の自決命令について阿嘉島や慶留間島の例を持ち出すのは牽強付会そのものであり、このような主張は問題を複雑化させ争点を曖昧にするだけである。

被告は渡嘉敷島の赤松隊長と座間味島の梅澤隊長から自決命令が出たか否かについて、直截に根拠を示すべきなのである。

以 上


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