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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その2

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原告準備書面(7)全文2007年03月30日その2







第3 援護法における救済拡大の経緯に関する被告らの主張の問題点


1 被告らの主張


被告らは、その準備書面(7)の第1の2において、「沖縄作戦における沖縄島民の行動に関する史実資料」(乙36)、「沖縄作戦講話録」(乙37)及び「戦斗参加者調査資料」(乙39の1~5)に記載されている内容を根拠に、
「日本政府は当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた。戦闘協力者(戦闘参加者)に該当しないとしていた扱いを陳情により変更したわけではない」
などと主張している。

しかしながら、以下に述べるところから明らかなように、上記主張は一連の事実経過を総合的に踏まえたものではなく、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それに基づく粗雑な推論によって事実を歪曲するものである。


2 援護法適用の拡大の経緯


まず、戦傷病者戦没者遺族等援護法(以下「援護法」という。)が沖縄に適用されるに至った一連の事実経過を纏めると、次の通りである。

  • S27(1952).4  援護法公布。
    ※ 援護法の目的は、「軍人軍属の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し、国家補償の精神に基づき、軍人軍属であった者又はこれらの者の遺族を援護すること」にあった。軍人や軍属ではない一般住民は適用外となっていた。

  • S27(1952).8  政府が沖縄に「那覇日本政府南方連絡事務所」を設置(甲B51の1枚目・平成18年11月23日付琉球新報3 段目)。
    ※ 政府としても将来的には援護法の沖縄への適用は当然と考えていたので、主として援護業務推進のために、総理府内に「南方連絡事務局」を創設した(甲B51の1枚目・3段目)。

  • S28(1953).3  北緯29度以南の南西諸島にも援護法の適用が認められる。
    日本政府の機関委任事務として、琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置される(甲B51の1枚目・4段目)。

    宮村幸延が座間味村の「援護係」に着任する(甲B1・陳述書8頁「ア」、甲B26・本田靖春著「第一戦隊長の証言」298頁最下段)。

    「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して、各市町村に遺族会が相次いで結成されて行く(甲B51の1枚目・4段目)。
  • S28(1953).9  「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められる(甲B51の1枚目・5段目)。
  • S30(1955).3  総理府事務官の馬淵新治が、援護業務のため沖縄南方連絡事務所へ着任する(乙37・4-3頁)。
  • S31(1956).3  中等学校生徒について、男子生徒は全員軍人、女子戦没学徒は軍属として死亡処理され、援護法の適用を受けるようになる(甲B51の2枚目・平成18年11月30日付琉球新報3段目)。

当時は、「軍民一体の戦闘」という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれたというのが、遺族会の沖縄戦認識だった。しかし、その犠牲をどのように援護法に適用させるかという難題に直面していた(甲B51の2枚目・4段目)。

  • S31(1956).3  厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れる。遺族会の事務局長自ら沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味・渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させる(甲B51の2枚目・5段目。乙16・933頁)。尚、その際に、座間味村では宮城初枝に対する事情聴取が行われ、《梅澤命令説》が公認されることとなったものである。

また、この昭和31年頃までに、渡嘉敷村では、琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めていた照屋昇雄が100名以上の住民から聞き取りを実施していた。しかしながら、集団自決が軍の命令だと証言した住民は一人もいなかった。同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討し、その結果、《赤松命令説》を作り出したものである(甲B35))。

以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになる(甲B51の2枚目・5段目)。

  • S32(1957).7  厚生省が一般住民を対象とした「沖縄戦の戦闘参加者処理要綱」を決定し、住民の沖縄体験を20種に類型した「戦闘参加者概況表」にまとめる。
その結果、軍の命令による「集団自決」に該当すれば一般住民も兵士同様に「戦闘参加者」として認定され、「準軍属」扱いされることになる。

但し、軍の命令を受けて「自分の意志」で戦闘に参加・協力したか否かが問われることになったので、軍の命令を聞き分けられる「小学校適齢年齢の7歳以上」という年齢制限が設けられる(以上、甲B51の2枚目・5~6段目)。

  • S38(1963).10  6歳未満の集団自決者も「準軍属」として扱われるようになる(甲B51の3枚目・6~7段目)。


3 宮村幸延の奔走


以上の経過を纏めると、政府は援護法が公布された昭和27年の段階から沖縄に同法を適用することを考えており、それは喫緊の課題であった。現に翌昭和28年3月には琉球政府社会局に援護事務を主管する「援護課」が設置され、各市町村にも「援護係」が新しく設置された。

そのような流れの中で、同月、宮村幸延が座間味村の「援護係」に早々に着任した。当時は「琉球遺家族会」が「琉球遺族連合会」と改称して各市町村に遺族会が相次いで結成されて行ったり、その「琉球遺族連合会」が「日本遺族会」の一支部として正式加入を認められたりするなど、遺族会の活動も極めて活発化し、住民の意識においても援護法適用は喫緊の問題であった。本田靖春著『第一戦隊長の証言』にも
「戦傷病者戦没者遺族等援護法が制定され、村役場はこれに基づく業務に早急に取り組む必要に迫られていた」
と、その切迫した状況が記されている(甲B26・298頁最下段)。そのため、昭和28年3月に援護係に着任した宮村幸延も、当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走していたのであり、着任早々の時点から3回程上京し、厚生省沖縄班長や係員と折衝していたものである(甲B1・8頁「イ」)。この時期の幸延の複数回の上京については、「第一戦隊長の証言」にも述べられている。299頁最下段には
「そう判断した幸延さんは、厚生省とじかに談判しようと上京を決意した」
とあり、300頁2段目にも
「ともあれ、ふたたび自費で上京した幸延さんは、厚生省に2回目の陳情をした」
と記されている。

この折衝の過程で、14歳以下の者に対する援護法の適用が「法令なし」との理由で断られた。しかしながら、同時に係官より、「軍命令があったのならネー」と示唆する発言があった。そこで宮村幸延は帰村して審議を重ね、軍命令で処理する方針を決めたものである(甲B1・8頁「イ」及び「ウ」)。この方針は、当時の遺族会の沖縄認識、即ち、
「『軍民一体の戦闘』という協力体制から、住民を巻き込んだ地上戦闘下で住民は日本軍に死に追い込まれた」
という認識にも合致していた。そのような認識の背景となっている事実がどのようなものか、そしてその事実が果たして真実に合致しているかどうかは全くの別問題として、とにかく援護法適用による補償が最大の課題であった。

その後、昭和31年3月、厚生省の援護課事務官が半月にわたって沖縄住民の戦争体験の実情調査に訪れ、遺族会の事務局長自らが沖縄戦で最も悲惨な体験をした座間味島、渡嘉敷島を案内して、直接生存者から聴取させた。その際、座間味島での集団自決の前夜に自決のための爆薬を原告梅澤の下に乞いに来た5人のうちの唯一の生存者である宮城初枝も事情聴取され、国の役員、役場の職員、島の長老らを前に、
「住民は隊長命令で自決をしたと言っているが、そうか」
との内容の問いに対し、やむなく
「はい」
と答えたものである(甲B5・「母の遺したもの」250~253頁。尚、252頁6~7行目には、>「厚生省による沖縄での調査がはじまったのが一九五七(昭和三二)年三月末」
となっているが、これは計算を1年誤ったものであり、正しくは前記の通り、甲B51の2枚目・5段目や、乙16・93頁などからすると、昭和31年3月である。宮城初枝の記憶違いか、著者である娘宮城晴美氏の聞き取り違いであると推測される。そのため、原告ら準備書面(5)19頁最終行は、1957(昭和31)年3月と訂正する。また、原告準備書面(5)20頁の5ないし8行目も誤りであるので、訂正する。正確な経緯は前記の通りである。)。

上記の経過から推測すると、幸延が厚生省に陳情を始めた以降、昭和29年から30年頃には、座間味村においては、自決者遺族が援護法給付を受けるため、村幹部、島の長老ら(琉球政府の関係者も含まれていたかもしれない)が、風説に過ぎなかった《梅澤命令説》を、村として公的に打ち出すことが継続的に検討計画されていたものと思われる。

一方、渡嘉敷村では、前記の通り、琉球政府社会局援護課の照屋昇雄が、昭和31年頃までに、100名以上の住民から聞き取りをしたものの《赤松命令説》を証言した住民は一人もいなかった。しかし、同氏は尚も渡嘉敷村村長や日本政府南方連絡事務所の担当者らと集団自決の犠牲者らに援護法を適用する方法を検討して、《赤松命令説》を作り出したものである。

そして、以上の結果が、援護法適用という「善意」による日本政府の「公的な沖縄戦認識」として定着することになった。

4 弥縫策として隊長命令説


以上の経過から明らかなように、《梅澤命令説》も《赤松命令説》も援護法適用のために作り出されたいわば弥縫策に過ぎない。しかるに、それをもって「日本政府が当初から集団自決を日本軍の部隊長の命令によるものと認定し、自決した住民を戦闘協力者(戦闘参加者)として援護法の対象としようとしていた」などと主張することは、一連の事実経過の全体から敢えて目を背け、自らに都合の良い事実だけを断片的に拾い上げ、それのみに基づいて主張することにより事実を歪曲するという誤魔化しであり、正に本件各書籍が行っている事実の歪曲の手法以外の何物でもない。

真相は、昭和31年3月の厚生省の半月にわたる実情調査で、《梅澤命令説》と《赤松命令説》という弥縫策が出来上がってしまったということである。その弥縫策を踏まえて前記乙36、乙37及び乙39の1ないし5が作られているに過ぎないものである(あるいは、当該実情調査以前にも、既に《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が座間味島及び渡嘉敷島内に流布していたと推測されるから、そのような島内の事情もまた乙36等の記載内容に影響しているものとも考えられる。即ち、座間味島では宮里盛秀助役ら村幹部からの《忠魂碑前集合玉砕命令》が原告梅澤の自決命令と誤解される状況が存在し、渡嘉敷島では集団自決の音頭をとった村長以下が生き残ったため、死者に対する申し訳なさや自らの責任回避等により《赤松命令説》を語るようになったと推測される。それら《梅澤命令説》及び《赤松命令説》が島内で流布した背景については、平成18年11月10日付原告準備書面(5)4頁以下、及び24頁以下で述べた通りである。)。

5 原告梅澤の陳述書との食い違いについて


また、被告らは、宮村幸延の「功績調書」(乙40の2)に昭和32年(1957年)の上京の件しか記載されていないことを挙げて、原告梅澤の陳述書(甲B1)の内容と相違するものとしているが、それもまた前記の事実経過を無視した主張である。そもそも当該「功績調書」に昭和32年の上京の件しか記載されていないのは、当該上京こそが特筆すべき結果をもたらした上京だったからに過ぎない。前述の通り、宮村幸延は昭和28年3月に援護係に着任した当初より援護法適用に向けての補償業務に奔走し、上京していたものである。原告梅澤の陳述書には、その当初の上京のことも含めて記載されているのであって、前記「功績調書」の内容と矛盾するものではない。常識で考えても、そもそも援護法適用が喫緊の課題という状況にありながら、昭和28年の着任後昭和32年まで一度も上京しないということは到底考えられない。

また、たとえ原告梅澤の記憶や理解に若干の不正確さがあったとしても、それは長年月を経ることに伴う不可避的なものである。同人の記憶内容と理解の骨子は、客観的な事実経過から外れるものではない。

6 「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載について


尚、乙36等の書類を個別に見ると、次のような問題も存在する。

住民処理の状況」(乙36)の記載について
まず、「住民処理の状況」(乙36)について見ると、問題部分の記述は、「軍(・)によって作戦遂行を理由に自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)と(・)す(・)る(・)本事例」となっている。即ち、命令の主体が特定されず単に「軍」と記載されているだけでなく、自決命令の存在についても未だ推測に基づく表現に止まっている(43頁「c」の「」)。自決命令の主体が原告梅澤らであるならば、少なくとも「軍」といったような抽象的な表現には止めない筈であるし、自決命令の存在がはっきりしているのであれば、「自決を強(・)要(・)さ(・)れ(・)た(・)本事例」と記載する筈である。

そして何よりも、乙36の上記問題部分の記述がどのような根拠(証言)に基づいているのかという点は全く不明であり、記述内容の正確性それ自体に多大なる疑問がある(この点については、後述の乙37及び乙39についても同様である)。現に乙36・2枚目「本資料の出処について」の「3」にも「比較的(・・・)信憑性があり」と記載され、信用性に一定の留保が付されている。

「沖縄戦講和録」(乙37)の記載について
次に、「沖縄戦講和録」(乙37)について見ると、問題部分の記述は、
「沖縄の場合慶良間群島の渡嘉敷村(住民自決数329名)座間味村(住民自決数284名)の集団自決につきましては、今も島民の悲嘆の対象となり強く当時の部隊長に対する反感が秘められております。」(下線部原告ら代理人)
となっているだけで、原告梅澤及び赤松大尉若しくは軍による自決命令の存在が記載されているわけではない(4-31)。

そして、自決者の数についても、乙36・43頁の数(座間味村155名、渡嘉敷村103名)、甲B6「鉄の暴風」2枚目左頁8行目の数(座間味島52名)とも大きく異なっている。

被告らが、《梅澤命令説》及び《赤松命令説》の根拠とする調査結果の自決者数が、かように各調査結果ないし文献により異なるのも不可思議である。両島とも狭い島であり、住民間のつながりも濃く、自決の実態や自決者数についての調査はさほど困難であったとは思われない。

《梅澤命令》、《赤松命令》が実態のない幻のようなものであるがゆえに、集団自決以外の原因で亡くなった住民についてもこれに含まれて行ったため、軍命令による自決者数が増加していったことが強く疑われるのである。

「戦斗参加者概況表」(乙39-5)の記載について
更に、「戦斗参加者概況表」(乙39-5)について見ると、自決命令の主体が単に「警備隊長」と記載されているだけで、果たして原告梅澤及び赤松大尉のことを指しているのか疑問も残る(4枚目「(15)」)。

また、そこに記載されている「警備隊長」の命令の内容は、座間味島、渡嘉敷島に共通して、
「住民は男女老若を問はず軍と共に行動し、いやしくも敵に降伏することなく各自所持する手榴弾を以って対抗出来る処までは対抗し、愈々と云う時にはいさぎよく(以下、解読不能)」
というものであるが(4枚目「(15)」)、この内容は、本件各書籍に記載されているものとも、被告らが主張している原告梅澤及び赤松大尉の命令内容とも大きく異なっている。即ち、そもそも被告らの主張する命令の内容は、原告梅澤については、
  1. 「老人・こどもは村の忠魂碑の前で自決せよ」(本件書籍一「太平洋戦争」300頁8行目以下)、及び
  2. 「部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食糧を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ」(本件書籍三「沖縄ノート」69頁10行目以下)というものであり、赤松大尉については、上記2及び
  3. 「持久戦は必至である。軍としては最後の一兵まで闘いたい。まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残ったあらゆる食糧を確保して、持久体制をととのえ、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態は、この島に住むすべての人間に死を要求している」(本件書籍二「沖縄問題二十年」4頁13行目以下)
というものである。

これら1ないし3は、いずれも上記「戦斗参加者概況表」(乙39-5)に記載されている「警備隊長」の命令内容とは大きく異なっている。このことは即ち、援護法適用による沖縄復興のために政府も村役場も「軍命」があったか否かだけに拘ったため、その存在の仮構には腐心したが、「軍命」の細かな内容は全く重視されていなかったこと、そしてその時々の風聞等によってその都度その都度命令の内容が変容して行ったことを端的に物語るものである。

小括

以上述べたところより、「住民処理の状況」「沖縄戦講和録」「戦斗参加者概況表」の記載に基づいて梅澤隊長ないし赤松隊長による集団自決命令の存在を言う被告らの主張には、何ら理由がないと言うべきである。

【引用者註】どうもすり替えのような気がする、これら書証による被告側の立証ポイントは、すでにその時「自決命令説はあった」ということであったはずだ。


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