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一一 陸の孤島・南京

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一一 陸の孤島・南京

 十二月十五、十六日、外国人記者が去つたあと南京にとどまったたのは二二名の外国人であ一た。すでにで述べたように、かれらは南京市内の難民の救済・保護のために、日本軍の上海護送の申し出を断ってとどまつた人たちである。次頁の表3は南京安全区国際委員会から日本大使館に屈られたかれらの名簿である。

 南京安全区国際委員会の創立委員の一人、金陵大学歴史学教授ベイツ氏は、同委員会で最後まで南京にとどまった人について、のちの「東京裁判」でこう証言している。

「此の委員会(南京安全区国際委員会)は日本軍に依る南京攻撃を予想して、一九三七年十一月下旬に創立されました。最初此の委員会が創立された当時、委員長はデンマーク人でありまして、其の委員には、ドイツ・英国・アメリカの国籍の人がありましたが、日本軍南京攻撃に先立ち外人居留民は殆ど全部引揚げましたので、攻撃当時はドイツ人及びアメリカ人しか居りませんでした。」(洞富雄『日中戦争史資料8』47頁)

 つまり、自系ロシア人を除けば、ドイツ人(オーストリア人も含めて)とアメリカ人だけがとどまったのである。その理由をあるアメリカ人は上海の友人への手紙のなかでこのように書いている。

 「国際委員会は難民にとつて大きな助けとなりましたが、これにはほとんど奇跡に近い話があるのです。三人のドィツ人が目ざましく働いていくれたのです。私は彼らの仲間になるにはナチス

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の徽章でもっけようかと思ったほどです。国際委員会の準備段階ではデンマーク人一人と英国人三人が大いに力になってくれましたが、中国軍が南京を撤退する前に、勤務先の会社や政府の命令で引揚げてしまいました。そんなわけで仕事の大部分はアメリカ人宣教師の肩にかかってきました。」(ティンパレー前掲書、洞富雄編『日中戦争史資料9』所収、四九頁)

表3 南京残留西洋人リスト(1937年12月16日)
氏名 委員 国籍 所属団体
1.ジョン・H・D・ラーべ
  John H. D. Rabe
2.エドワルト・スペルリング
  Eduard Sperling
3.クリスチャン・クレーガー
  Christian Kroeger
4.R・ヘンペル
  R.Hempel
5.A・ツァウティヒ
  A. Zautig
6.R・R・ハッツ
  R. R. Hatz
7.コラ・ポドシポロフ
  Cola Podshivoloff
8.A・ジアル
  A. Zia1
9,C・S・トリマー
  C. S. Trimmer
10.ロバート・O・ウィルソン
  Robert O. Wilson
11.ジェームズ・H・マッカラム
  James H. MaCallum
12.グレイス・バウアー
  Grace Bauer
13.アイヴァ・ハインズ
  Iva Hynds
14.マイナー・S・ベイツ>
  Meiner S. Bates
15.チャールズ・H・リッグズ
  Charles H. Riggs
16.ルイス・S・C・スマイス
  Lewis S. C. Smythe
17.ミニ・ヴォートリン
  Minnie Vautrin
18.W・P・ミルズ
  W.P.Mi11s
19.ヒューバート・L・ソーン
  Hubert L. Sone
20.ジョージ・A・フィッチ
  George A. Fitch
21.ジョン・G・マギー
  John G. Magee
22.アーネスト・H・フォスター
  Ernest H. Forster
 (ポウル・デウィット・トワイネン)
  (Paul Dewitt Twinem)
安全区
赤十字
安金区

赤十字







赤十字



安全区
赤十字
赤十字

赤十字





安全区

安全区

安全区
赤十字
赤十字

安全区
赤十字




安全区
赤十字


赤十字


ドイツ









オースト
リア
ロシア
(自系)


アメリカ



























(中国)


ジーメンス洋行

上海保険公司

礼和洋行

北ホテル

キースリング洋行

安全区機械工

サンドグレン電気店

安全区機械工

金陵大学付属鼓楼病院医師

〃   医師

連合キリスト教伝道団

金陵大学付属鼓楼病院看護婦

〃   看護婦

金陵大学





金陵女子文理学院

合衆国長老派教会伝道団

金陵神学院

YMCA

アメリカ聖公会伝道団



金陵女子文理学院

注1)安全区=南京安金区国際委員全委員。
  赤十字:国際赤十字南京委員会委員(南京戦傷者救済委員会)。
2)最後に( )で示したトワィネン夫人は,資料によってはアメリカ人に入れて,外国人23としているので,付記しておいた。
3)上記22人は洞富雄編『日中戦争史資料9』所収の徐淑希編「南京安全区襠案」およびアメリカ国務省文書「南京残留西洋人リスト」(南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集 1 アメリカ関係資料編』所収)によった。

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 その当時ドイツと日本は防共協定を結ぴ、同じファシズム国家として親密な間柄にあったから、日本軍占領下の南京においても、ドイツ人の安全はいちおう保障されていたのである。パナイ号事件で日本側が米国に多少気兼ねをしたことも、南京のアメリカ人の立場を以前よりは有利にした。

 日本軍は翌一九三八年一月の上旬、アメリカ大使館に執務再開を許可するまで、外から外国人を南京に入れなかった。安全区に残った二二名の外国人は、南京一帯を占領する日本軍を大海とみれば、まさに大海に囲まれた孤島のような生活を強いられた。そうした模様を金陵大学附属鼓楼病院の牧師マッカラムは「東京裁判」に提出した日記および手記で、つぎのように述べている。

 「(一九三七年十二月二十九日〕私共は完全に此の世の人々と絶縁して居ります。誰も南京に入ることは出来ません。又南京から出ることも大変困難であるらしい。私共は私共の仲間の或者を遣して当地に発生した又は発生している恐るべき事件の報道を持ち出そうと相談しました。然し私共は仲間が一度出立したからには二度と還らぬだろうということを知って居ります。」(洞富雄編『日中戦争史資料8』一一七頁)

 これら南京にとどまった二二名の外国人は、外界と完全に隔絶され、城外にも、江岸にも行くことを許されなかった。翌年の二月になって南京を離れることが許されたドイツ人は、上海に着いたのち、

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「監獄よりも制約を受ける生活」に別れを告げてきたという手紙を漢口の友人に送っている(『漢ロヘラルド』38・2・19)。

 日本軍占領下のまっただなかにとどまった外国人のおかれた状況は、この「監獄よりも制約を受ける生活」というドイツ人の言葉に端的に語られている。

 一九三八年一月六日になって、アメリカ大使館三等書記官ジョン・M・アリソン(JohnM.Allison)ら三名の大使館員が執務再開のため南京上陸を許可された。ついで一月九日、イギリスとドイツの大使館員が上陸を認められた。こうして十二月十六日以来、外界とまったく隔絶されていた南京残留の外国人は、ようやく世界との絶望的な隔離から脱することができたのである。ている。

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