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第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等

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pipopipo555jp

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沖縄集団自決裁判大阪地裁判決
事実及び理由
第3 争点及びこれに対する当事者の主張
第3・4 争点4(真実性の有無)について
第3・4(2)原告らの主張
第3・4(2)エ 渡嘉敷島について

第3・4(2)エ(エ) 自決命令を否定する文献,見解等





a 赤松大尉の手記


(a) (「住民の処置は頭になかった」)*


自決命令を出したとされる赤松大尉は,「私は自決を命令していない」と題する手記を執筆し,次のとおり,自決命令を出していないと明言する(甲B2)。すなわち,
「二十六日夜」「私たちは」「寝ていると,十時過ぎ,敵情を聞きに部落の係員がやってきた。私が『上陸はたぶん明日だ』と本部の移動を伝えると『では住民は?住民はどうなるんですか』という。正直な話,二十六日に特攻する覚悟だった私には,住民の処置は頭になかった。そこで,『部隊は西山のほうに移るから,住民も集結するなら,部隊の近くの谷がいいだろう』と示唆した。これが軍命令を出し,自決命令を下したと曲解される原因だったかもしれない。」

「二十七日,米軍の上陸開始,二十八日には部隊も住民も完全に包囲されてしまった。われわれの陣地のほうからは,集結した住民の姿も見えなかった。」(甲B2・216,217頁)。

※「二十七日,米軍の上陸開始」というが、赤松隊において誰がどう現認したのか、原告弁護団も赤松手記も、誰も説明していない。

(b) (赤松によるマスコミ批判)*


赤松大尉は,座間味村がまとめた「座間味戦記」が「マスコミの目にとまるや」
「つぎつぎと刊行される沖縄関係の書物のいたるところに,赤松という大隊長が,極悪無残な鬼隊長として登場することになったのである。」「兵士の銃を評論家のペンにたとえれば,事情は明白だ。ペンも凶器たりうる。『三百数十人』もの人間を殺した極悪人のことを書くとすれば,資料の質を問い,さらに多くの証言に傍証させるのがジャーナリズムとしての最小限の良心ではないか」

「戦記の作者の何人かは沖縄在住の人である。沖縄本島と渡嘉敷の航路は二時間足らずのものなのに,なぜ現地へ行って詳しい調査をしなかったのか。彼らの書物を孫引きして,得々として“良心的”平和論を説いた本土評論家諸氏にも同じ質問をしたい」
と現地調査もしないままの無責任な報道を批判する。


b 「ある神話の背景」(甲B18)


「ある神話の背景」によれば,「鉄の暴風」の記述は,当事者に対する取材も信用に足る証拠もないまま,著者の偏見と風聞に基づいて書かれたものであり,それが他の文献等に引用されることによって,赤松大尉の自決命令が沖縄の神話となっていったことが分かる。すなわち,軍の自決命令により座間味,渡嘉敷で集団自決が行われたと最初に記載したのは「鉄の暴風」であり,これを基に作成したのが「戦闘概要」である。「戦闘概要」には「鉄の暴風」と酷似する表現、文章が多数見られ,偶然の一致ではあり得ず,引用した際のものと思われる崩し字が「戦闘概要」に見られる。さらにこれらを基に作成されたものが「戦争の様相」であるが,「戦争の様相」に「戦闘概要」にある自決命令の記載がないのは,「戦争の様相」作成時には部隊長の自決命令がないことが確認できたから,記載から外したものである(甲B18・48頁)。そして,これらの3つの資料は,米軍上陸の期日が昭和20年3月27日であるにもかかわらず,同月26日と間違って記載していると指摘する(甲B18・49頁)。

※そもそも、「昭和20年3月26日米軍が慶良間列島に上陸」は、沖縄第32軍の司令部電によるものである。また、そもそも赤松隊が特攻舟艇出撃を中止せざるをえなくなった大きな理由として、赤松自身に拠れば(「ある神話の背景」によれぱ)、米軍侵攻に関する船舶団内の御認識、お門違いの「命令」によるものだった。

「ある神話の背景」によれぱ,上記神話が生まれた背景は,次のとおりである。すなわち,生存者であり集団自決の音頭をとった村長であるという立場上,事件について説明責任を免れない古波蔵村長が,遺族からの怨嵯の目から逃れ,責め苦を少しでも軽くするために,元村長としての責任を負担するよりも,集団自決を命じた下手人として赤松大尉を選び,非難を向けた。このことは,古波蔵村長の,赤松大尉や安里巡査に対するあからさまな人身攻撃的言辞や,事件当日の軍命令についてのあいまいで一貫性のない説明などからも窺われる。

大城将保は,昭和58年に発行された「沖縄戦を考える」(甲B24)において,「曽野綾子氏は,それまで流布してきた赤松事件の“神話"に対して初めて怜悧な資料批判を加えて従来の説をくつがえした。」「今のところ曽野綾子説をくつがえすだけの反証は出ていない。」と評価している。


c 「陣中日誌」(甲B19)


赤松隊が作成した陣中日誌によれば,自決命令があつた形跡は全くなく,「三月二十九日」「悪夢の如き様相が白日眼前に晒された昨夜より自訣したるもの約二百名」(甲B19・13頁)とあるように,赤松隊が集団自決があったことを知ったのも,昭和20年3月29日になってからであった。


d 「沖縄戦ショウダウン」(甲B44)


沖縄出身の作家である上原正稔は,集団自決を目撃した米軍兵士グレン・シアレスの紹介する「沖縄戦ショウダウン」を琉球新報に連載した(甲B44)。上原正稔は,その取材過程において,赤松大尉が自決命令を出しておらず,金城武徳,大城良平,安里巡査,知念証人らの供述または証言から,赤松大尉が立派な人物との評価を得ていることを知った。上原正稔は,取材の結果,「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり,自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず,赤松嘉次さんは世を去った」ことを確認した。



e 知念証人及ぴ皆本証人の各証言


(a) (知念証言)*


知念証人は,赤松大尉の側近として常に赤松大尉の側にいた者であるところ,赤松大尉による自決命令を反対尋問も踏まえて完全に否定した。


(b) (皆本証言)*


皆本証人は,第三戦隊においては昭和20年3月23日の空襲と艦砲射撃が始まるまで陸上戦を予想していなかったと証言しているところ(皆本証人調書2,15頁),陸上戦を予想していないのに住民に手榴弾を交付することなどあり得ず,同月20日に役場の職員から手榴弾の交付を受けたとする金城証人の証言は虚偽である。

そして,皆本証人は,
  1. 集団自決の起こった3月28日は午前1時頃に主力部隊と合流したこと(皆本証人調書10頁),
  2. 同日午前3時頃赤松大尉の下に報告に行ったが,自決命令に関する話は一切なかったこと(同10頁),
  3. 翌29日になって部下から集団自決が起きたとの報告を受けたこと(同12頁),
  4. 赤松大尉とは親密に連絡を取っていたが,8月15日の終戦に至るまで赤松大尉自身からも他の隊員からも,赤松大尉が住民に自決命令を出したという話は一切聞いていないこと(同12頁)を証言している。


f 照屋昇雄の供述


照屋昇雄は,昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課において援護法に基づく弔慰金等の支給対象者の調査をしたとして,渡嘉敷島での聞き取り調査について,「1週聞ほど滞在し,100人以上から話を聞いた」ものの,「軍命令とする住民は一人もいなかった」と供述し,赤松大尉に「命令を出したことにしてほしい」と依頼して同意を得た上で,「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため,軍による命令ということにし,自分たちで書類を作」り。その書類を当時の厚生省に提出した旨供述している(甲B35)。

g 徳平秀雄の供述


渡嘉敷島の郵便局長であった徳平秀雄は,
「恩納川原に着くと,そこは,阿波連の人,渡嘉敷の人でいっぱいでした。そこをねらって,艦砲,迫撃砲が撃ちこまれました。上空は飛行機が空を覆うていました。そこへ防衛隊が現れ,わいわい騒ぎが起きました。砲撃はいよいよ,そこに当っていました。そこでどうするか,村の有カ者たちが協議していました。村長,前村長,真喜屋先生に,現校長,防衛隊の何名か,それに私です。敵はA高地に迫っていました。後方に下がろうにも,そこはもう海です。自決する他ないのです。中には最後まで闘おうと,主張した人もいました。特に防衛隊は,閾うために,妻子を片づけようではないかと,いっていました。防衛隊とは云っても支那事変の経験者ですから,進退きわまっていたに違いありません。防衛隊員は,持って来た手榴弾を,配り始めていました。」

「そういう状態でしたので,私には,誰かがどこかで操作して,村民をそういう心理状態に持っていったとは考えられませんでした。」
と供述している(乙9・765頁)。

徳平秀雄の供述によれば、渡嘉敷村の責任者の協議の中から進退窮まった状態で自然発生的な雰囲気として自決が決まり手榴弾が配布された状況が明らかとなっており,軍や赤松大尉の命令など全く語られていない。


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