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  • rabe12月14日
    12月14日 (※この日の日記は無いようです)
  • rabe11月16日
    十一月十六日 ここでがんばりぬこう。一日じゅう自分にそういいきかせていた。いま耳にしたのだが、蘇州では、まいもどってきた中国の敗残軍によって、ひどい略奪が行われたという。まったく、ため息が出る。それなのに中国人は、たとえ揚子江から砲撃されても、この町を守れると信じているのだ。 それはそれとして、私にすがりついている中国人たちはいったいどうなるのだろう。韓がまた前借りを頼みにきた。青島に友人がいるので、済南経由で家族を避難させるつもりだったのだが、いま、むりだということがわかった。日本人の侵攻を防ぐため、済南の手前にある鉄道橋が中国人の手によって爆破されたのだ。ということは、日本軍はすでに黄河の手前か、そのほとりにいることになる。こうなったら韓も家族を漢口にやるしかないだろう。彼はただ、いっしよに行ってくれる知り合いの家族を待っている。まにあうといいのだが。 いまさら商売に...
  • rabe1月10日
    一月十日 ローゼンが、手紙を持ってきてくれた。ドーラのはもちろん、ミュンヘンにいる二人の子ども、グレーテルとオットーのもある。そのほかに『ティルマンの息子たちの物語』というきれいな本とソーセージニ本、クネッケパンニパック、インシュリン、バター一キロ。こんなにいろいろ贈り物に囲まれると、なんだか慰問袋をもらった兵隊のような気がする。 九時 クレーガーが、石田少佐から返事をもらって帰ってきた。日本軍はなんと、我々に米や小麦粉を売ろうとしない。はっきり約束したくせに。自治委員会だけに売ろうというのだ。我々のほうでは、言われたとおり今朝早々と米の販売を中止してしまった。難民たちはひどくがっかりした。自治委員会がまだ専用の販売所を開いていないからだ。これは大変なことになる! ローゼンが本部に訪ねてきた。日本軍は、私にだけでなくローゼンにも、報告書に少し手加減してもらいたいといって...
  • 中文11月16日
    11月16日 雨天,没有空中来客。但是我心情不好,南京很沉闷,跟暴风雨来临前一样。佣人们挨了骂,因为下雨的时候,他们没有把防空洞遮盖好。要是我自己不事事操心,就没有人动弹。他们都像做了催眠术,也像蛇笼里的老鼠。远洋公司也挨了骂,因为他们拆掉了房子里的一根水管,拆坏了一个洗手盆,弄丢或偷走了一个门闩。后来,我的心情渐渐地好多了!我和默勒(里贝感冒了,躺在床上)开车从哈普罗公司去太古洋行,给他和里贝预订11月20日从这里开往汉口的武陵(音译)号船票。所有的客舱都预订满了,结果我们只能预订散席票。不太好,可是路上说几句好话,也许他们还能在船舱里找到铺位。最重要的是,他们能离开南京了。 如同我在大使馆里听说的一样,库特沃不打算把妇女们先送到汉口了。人们已经估计到了几天以后局势的变化,即南京失陷。所以要妇女们11月18日带着行李上船,然后在下关附近的船上等候消息,看看中国人是否封锁去汉口...
  • rabe1月12日
    一月十二日   南京が日本人の手に渡って今日で一ヵ月。私の家から約五十メートルほどはなれた道路には、竹の担架に縛りつけられた中国兵の死体がいまだに転がっている。   ドイツ、アメリカ、イギリスの大使館を訪ねて、昨日の家捜しを報告し、ローゼン、アリソン氏、プリドー=ブリュン各氏と相談した。この件について、全員の意見が一致した。すなわち、日本の警察は、外国人の建物に入るときには、その国の大使館へ事前に連絡するか、もしくはその国の大使館員を同伴する義務がある、ということだ。   こうしているあいだに、米の販売が全面的に中断されてしまった! 米だけではない、石炭も安全区に運びこめなくなった。日本軍は塀に貼り紙をして、自分の住居に戻れといっている。肝心の家が焼き払われたり略奪にあったりしていることなんか、てんでおかまいなしなのだ。   日本人と友好的にやっていくにはどうするかと...
  • rabe12月1日
    十ニ月一日 九時半に、クレーガー、シュペアリング両人を平倉巷で開かれる委員会へ行く。いろいろな役目をわりふって、名簿を作る。馬市長が部下を連れて現れ、米三万袋と小麦粉1万袋を提供すると約束。残念ながらそれを難民地域まで運ぶトラックがない。米と小麦粉は売ればいい。できるだけ高値で。難民用の給食所をつくる予定だ。 三つめの防空壕が完成した。屋根を鉄板でおおい、入り口は土で囲ってある。午後、駐屯軍司令部から二万ドル受け取った。これは、蒋介石からの約束の十万ドルの第一回目だ。のこりはいつもらえるかと聞いたが、相手は肩をすくめただけだった。 フィッチ、クレーガー、スマイス、YMCAの王(ワン)、リッグズ、私のメンバーで寧海路五号にある家を見に行く。明日から、ここを委員会の本部にするつもりだ。スマイスは、家のりっぱなことと豪華な調度品、それから一万七千五百ドルもの値打ちのある防空壕...
  • rabe12月12日
    十二月十二日 日本軍はすんなり占領したのではないかという私の予想はみごとにはずれた。黄色い腕章をつけた中国人軍隊がまだがんばっている。ライフル銃。ピストル。手榴弾。完全装備だ。警官も、規則を破ってライフル銃をもっている。軍も警察も、もはや唐将軍の命令に従わなくなってしまったらしい。これでは安全区から軍隊を追い出すなど、とうていむりだ。朝の八時に、再び砲撃が始まった。 十一時に唐将軍の代理だといって龍上校と周上校がやってきた。三日間の休戦協定を結びたい、ついてはその最後の試みをしてもらえないかという。 休戦協定の内容は――この三日間で、中国軍は撤退し、日本軍に町を明け渡す。われわれは、まずアメリカ大使あての電報、つぎに調停を依頼する唐将軍の手紙(大使に電報を打つ前に、唐がこれをわれわれに出さなければならない)、最後に軍使に関するとりきめを、まとめあげた。 軍使は、白...
  • rabe12月13日
    underlineは誤訳が指摘されている箇所です。 十二月十三日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。 本部に着くとすぐ、我々はたちどころに国際赤十字協会をつくりあげ、私が役員として加わった。ここしばらくこの件を担当していた盟友マギーが会長だ。 委員会のメンバー二人で野戦病院に行く。それぞれ外交部・軍政部・鉄道部のなかにつくられていた。行ってみてその悲惨な状態がよくわかった。砲撃が激しくなったときに医者も看護人も患者をほうりだして逃げてしまったのだ。我々はその人たちを大ぜい呼び戻した。急ごしらえの大きな赤十字の旗が外交部内の病院の上にはためくのを見て、みな再び勇気をとりもどした。 外交部にいく道ばたには、死体やけが人がいっしょくたになって横たわっている。庭園はまるで中山路なみだ。一面、投げ捨てられた軍服や武器で覆われて...
  • rabe12月10日
    十二月十日 不穏な夜だった。きのうの夜八時から明け方の四時ごろまで、大砲、機関銃、小銃の音がやまなかった。昨日の朝早く、すんでのところで日本軍に占領されるところだったという話だ。日本軍は光華門まで迫っていたのだ。中国側はほとんど無防備だったという。交代するはずの部隊が現れなかったのに、中隊をいくつか残しただけで、予定通り持ち場を離れてしまったのだ。この瞬間に日本軍が現れた。あわやというところで交代部隊がたどりつき、かろうじて敵軍を撃退することができたという。今朝早くわかったのだが、日本軍は昨夜、給水施設のあたりから揚子江まで迫ってきていたらしい。遅くとも今夜南京は日本軍の手に落ちるだろう、だれもがそう思っている。 金誦盤氏から力になりたいとの申し出があった。金氏は医者で、ドイツ語を話す。安全区の外にある八つの野戦病院の責任者だとのこと。そこには軽症者しか入っていないのだそうだ。...
  • rabe12月11日
    十二月十一日 八時 水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ! 爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。 九時 ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二...
  • rabe12月6日
    十二月六日 ここに残っていたアメリカ人の半分以上は、今日アメリカの軍艦に乗りこんだ。残りの人々もいつでも乗りこめるよう準備している。われわれの仲間だけが拒否した。これは絶対に内緒だが、といってもローゼンが教えてくれたところによると、トラウトマン大使の和平案が蒋介石に受け入れられたそうだ。南京が占領される前に平和が来るといい、ローゼンはそういっていた。 中国語で書かれた安全区の地図 拡大 黄上校との話し合い忘れることができない。黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。 「日本に征服された土地は、その土のひとかけらまでわれら中国人の血を吸う定めなのだ。最後の一人が倒れるまで、防衛せねばならん。いいですか、あなたがたが安全区を設けさえしなかったら、いまそこに逃げ込もうとしている連中をわが兵士の役に立てることができたのですぞ!」...
  • 宮平秀幸証言ビデオ(チャンネル桜製作)
    宮平秀幸証言ビデオ(チャンネル桜製作) 集団自決の真実 (3)7-1 から http //www.ch-sakura.jp/topix/428.html チャンネル桜 「爆弾!」スペシャル - 沖縄集団自決の真実 (1) ~ (3) [ 平成20年2月16日 放送 ] 集団自決の真実 (1)8-1 http //jp.youtube.com/watch?v=eIDRB-itSqo そこから辿ります。 集団自決の真実 (1)は、8-1から8-8 まで8パーツ 集団自決の真実 (2)は、4-1から4-4 まで4パーツ 集団自決の真実 (3)は、7-1から7-7 まで7パーツ 宮平秀幸証言とは
  • rabe12月26日
    十二月二十六日十七時 素晴らしいクリスマスプレゼントをもらったぞ。夢のようだ!なんたって六百人をこす人々の命なのだから。新しくできた日本軍の委員会がやってきて、登録のために難民を調べ始めた。男は一人一人呼び出された。全員がきちんと整列しなければならない。女と子どもは左、男は右。ものすごい数の人だった。しかし、すべてうまくいった。だれひとり連れていかれずにすんだ。隣の金陵中学校では二十人以上引き渡さなければならなかったというのに。元中国兵という擬いで処刑されるのだという。わが家の難民はだれもがほっとした。私は心から神に感謝した。いま、日本兵が四人、庭で良民証を作っている。今日中には終わらないだろうが、そんなことはどうでもいい。将校が決定した以上、もうひっぱられる心配はないのだから。 葉巻とジーメンスのカレンダーを担当の将校に渡したとき、百子亭にある家からもうもうと煙が上がってきた...
  • rabe12月29日
    日本語版ラーベの日記「南京の真実」には、12月29日の項はなし。 但し、中文にはあり。 ラーベの日記index
  • rabe1月6日
    一月六日 ばんざい! アメリカ大使館のアリソン、エスピー、マクファディェンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに十二月三十一日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。 これで日本の軍当局から米と小麦粉(これは軍が略奪したものだが)が買える。価格は高いが(米一袋約十三メキシコドル)、約五万メキシコドル買うことにした。石炭も一万二千メキシコドルぐらい買っておかなくては。難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある。 韓はあまり乗り気ではない。米屋から、中国軍が南京を奪還しようとしていると聞かされたからだ。すでに南西部では砲声が聞こえたという。「そうなれば米だって小麦粉だってただで手に入りますよ」。けれども私は、心ならずも韓に言い聞かせなければならなかっ...
  • rabe12月28日
    十二月二十八日 あいもかわらず、放火がくりかえされる! まるで重い病いにでもかかっているようだ。おそるおそる時計の針に目をやるが、針は遅々として進まない。難民はだれしも新年のお祝いを恐れている。酔ったいきおいで、日本兵がますます乱暴を働くにきまっているからだ。慰めようとするが、いまひとつ力がこもらない。それはそうだろう、そういう我々自身、信じていないのだから! 誰だか知らないが、今日が登録の最終日だといううわさを広めた人がいるらしい。そのため何万人もの人が登録所につめかけた。安全区の道路は人で埋まり、歩くこともできない。私はドイツ国旗のおかげでかろうじて前へ進める。ここではハーケンクロイツのついた私の車を知らない者はない。なんとかして道をあけようとして、ぶつかり、押し合いへし合いしている。そのわずかな隙間に滑りこみつつ、ようやく目的地に着いた。私が通ったとたん、あっとい...
  • (原告側訴状添付)書籍目録
    通118 | 戻る | 次へ (別紙) 書籍目録 書籍目録1 2 1 題名 太平洋戦争 著者 家永三郎 発行者 大塚信一 発行所 株式会社岩波書店 発行年月日 平成14年7月16日 第1刷発行平成15年2月14日 第2刷発行 型式 縦 14.8㎝横 10.5㎝ぺ一ジ 463ぺ一ジ 定価 1400円 2 題名 沖縄ノート 著者 大江健三郎 発行者 山口昭男 発行所 株式会社岩波書店 発行年月日 昭和45年9月21日 第1刷発行平成19年11月15日 第53刷発行 型式 縦 17.5㎝横 10.5㎝ぺ一ジ 228ぺ一ジ 定価 740円 戻る | 次へ 別紙一覧 読める判決「集団自決」  
  • rabe1月1日
    一九三八年一月一日 昨日の夜九時半、七人の同志が年始に来た。アメリカ人のフィッチ、スマイス、ウィルソン、ミルズ、ベイツ、マッカラム、リッグズの面々だ。手元に残った最後の赤ワインをあけ、一時間ほどおしやべりした。日頃は意気軒昂のベイツが、疲れはてて眠りこんでしまったので、はやめにお開きになった。私にも中国人の客にとっても休養をとることに異存はなかったから、そろって十一時に寝た。 朝七時ごろ、張がきた。かみさんの容態が悪化したという。私は大急ぎで服を着て、鼓楼病院へ連れて行った。三回目だ。 家に戻ると、盛大な歓迎が待っていた。うちの難民たち「老百姓(ラオバイシン)」(中国語で名もなき民の意)はずらりと両側に並び、私に敬意を表して、日本軍からもらった何千もの爆竹をいっせいに鳴らした。こうして新しい自治政府を祝うのだ。それから六百人全員で私を取り囲み、白い包装紙に朱液で書かれた...
  • rabe11月6日
    十一月六日 今日出張先で、あれこれいやなニュースを耳にした。中国人の間では、だんだんと「もうどうでもいいや・ムード」が広がっているように思える。リーべもこの間こんなことをいっていた。発電所で働く労働者たちに、「いっそ共産主義者になったほうがましなのではないか」と聞かれたというのだ。今日は今日で、内緒だが、といって、ある人が次のような話をしてくれた。なんでも、インテリの中国人はみなボルシェヴィズムに身をささげるべきだと思っているという。 いや、驚いた。新聞によると、中国軍(傭兵部隊だということを忘れてはならない。南京は指令を出したものの、むろんのこと徴兵令が出なかったからだ)が、強力な日本軍と上海で戦っているという。ドイツ人の軍事顧問が鍛え上げたえりすぐりの南京部隊が上海に派遣されていたのだが、すでに三分の二が戦死したらしい。いくら精鋭部隊といえども、武装が十分でなければどうしよう...
  • rabe12月5日
    十二月五日 よく晴れた日曜日だというのに朝っぱらから腹が立ってしかたない。運転手が迎えにこなかったのだ。呼びにやる。雷を落とす。悪態をつく。詫びを入れる。もう一度雇う。思えば、これで二十五回目だ! というわけでやっとのことで車に乗りこんだとたん、今度は空襲警報だ。爆弾が落ちた。だが今は許可証を持っているので、二度目のサイレンの後なら外に出られる。それにあまりにやることが多くて、爆弾などかまってられない。こういうとひどく勇ましく聞こえるが、さいわい爆弾はいつもどこかよそに落ちている。 アメリカ大使館の仲介で、ついに、安全区についての東京からの公式回答を受け取った。やや詳しかっただけで、ジャキノ神父によって先日電報で送られてきたものと大筋は変わらない。つまり、日本政府はまた拒否はしてはきたものの、できるだけ配慮しようと約束してくれたのだ。 ベイツ、シュペアリングとい...
  • rabe12月3日
    十二月三日 ローゼンが訪ねてきた。トラウトマン大使がよろしくいっていたとのことだった。昨晩大使は税関の艀(はしけ)でこちらにきたのだが、そのまま漢ロヘとんぼ返りしたという。思った通り大使は和平案を伝えに蒋介石の所へ行ったのだ。私がそういうと、何度かためらったあと、ローゼンも認めた。細かい内容についてはもちろん何も聞き出せなかったが、こちらもそれ以上聞くつもりはなかった。そういう行動に出たというだけで十分だったからだ。うまくいくといいが! ローゼンは私に電報を見せてくれた。これは本当は大使あてなのだが、つぎのような内容だった。 ドイツ大便館南京分室 漢口発 三七年十二月二日 南京着 十二月三日東京、十二月二日日本政府は、都市をはじめ、国民政府、生命、財産、外国人及び無抵抗の中国人民をできるだけ寛大に扱う考えをもっております。また、国民政府がその権力を行使することによって、首都を戦...
  • rabe12月4日
    十二月四日 どうにかして安全区から中国軍を立ち退かせようとするのだが、うまくいかない。唐将軍が約束したにもかかわらず、兵士たちは引き揚げるどころか、新たな塹壕を掘り、軍関係の電話を引いている有様だ。今日、米を運んでくることになっていた八台のトラックのうち、半分しか着かなかった。またまた空襲だ。何時間も続いた。用事で飛行場にいたクレーガーは、あやうく命を落とすところだった。百メートルぐらいしか離れていないところにいくつも爆弾が落ちたのだ。 難民は徐々に安全区に移りはじめた。ある地方紙は「外国人」による難民区などへいかないようにと、繰り返し書き立てている。この赤新聞は、「空襲にともなうかもしれない危険に身をさらすことは全中国人民の義務である」などとほざいているのだ。 ラーベの日記index
  • rabe12月9日
    十二月九日 いまだに米を運ぶ作業が終らない。そのうえ、作業中のトラックが一台やられてしまった。苦力がひとり、片目をなくして病院へ運ばれた。委員会が面倒を見るだろう。残っていたアメリカ人たちといっしょに、ドイツ大使館のシャルフェンベルグ、ヒュルター、ローゼンら三人も船に乗っているが、もし状況が落ち着けば、今晩会議のために上陸するつもりでいる。 さっきとは別のトラックで米を取りに行っていた連中がおいおい泣きながら戻ってきた。中華門が爆撃されたらしい。泣きながらいうところによると、はじめ歩哨はだめだといったが、結局通してくれた。ところが米を積んで戻ってみると、およそ四十人いた歩哨のうち、だれひとり生きてはいなかったという。 午後二時、ベイツ、シュペアリング、ミルズ、龍、参謀本部の大佐、私、のメンバーで安全区の境界を見回る。唐将軍が文句をいってきたからだ。南西の境の丘から、炎と...
  • rabe12月2日
    十二月二日 フランス人神父ジャキノを通じ、我々は日本から次のような電報を受け取った。ジャキノは上海に安全区をつくった人だ。 電報 一九三七年十二月一日 南京大使館(南京のアメリカ大使館)より十一月三十日の貴殿の電報の件以下は、南京安全区委員会にあてられたものです。 ジャキノ 日本政府は、安全区設置の申請を受けましたが、遺憾ながら同意できません。中国の軍隊が国民、あるいはさらにその財産に対して過ちを犯そうと、当局としてはいささかの責も負う意思はありません。ただ、軍事上必要な措置に反しないかぎりにおいては、当該地区を尊重するよう、努力する所存です ラジオによれば、イギリスはこれをはっきりとした拒絶とみなしている。だが我々の意見は違う。これは非常に微妙な言い方をしており、言質を取られないよう用心してはいるが、基本的には好意的だ。そもそもこちらは、日本に「中国軍の過ち」...
  • rabe12月7日
    十二月七日 昨夜はさかんに車の音がしていた。そして今朝早く、だいたい五時ころ、飛行機が何機もわが家の屋根すれすれに飛んでいった。それが蒋介石委員長の別れの挨拶だった。昨日の午後会った黄もいなくなった。しかも、委員長の命令で! あとに残されたのは貧しい人たちだけ。それから、その人たちとともに残ろうと心に決めた我々わずかなヨーロッパ人とアメリカ人だ。 そこらじゅうから、人々が家財道具や夜具をかかえて逃げこんでくる。といってもこの人たちですら、最下層の貧民ではない。いわば先発隊で、いくらか金があり、それと引き換えにここの友人知人にかくまってもらえるような人たちなのだ。 これから文字通りの無一文の連中がやってくる。そういう人たちのために、学校や大学を開放しなければならない。みな共同宿舎で寝泊まりし、大きな公営給食所で食べ物をもらうことになるだろう。約束の食糧のうち、ここ...
  • rabe12月8日
    十二月八日 昨日の午後、ボーイの張がかみさんを鼓楼病院から連れ帰った。まだすっかりよくなったわけではないが、時が時だけにどうしても子どものそばにいたいというのだ。のこりの家族が四十マイルも離れたところにいるといって、張は嘆いた。病気の曹の仕事を一部、引き受けてくれていたので迎えにいく時間がなかったのだという。だれもそれを私に言ってくれなかった。だから、張の身内はとっくに全員ここにきているとばかり思っていたのだ。かわいそうだがもう手遅れだ。 二年ほど前、トラウトマン大使が北載河で開かれたティーパーティーの席で私にこういって挨拶したことがあった。「やあ、南京の市長が来た!」そのころ私は党の地方支部長代理をしているのだが、いくらか気を悪くした。ところが、いま瓢箪(ひょうたん)から駒が出た。といったからって、ヨーロッパ人が中国の町の市長になどなれないのはわかりきっている。しかし、このと...
  • 【緊急資料11 月16 日】甲状腺検査・診断における「福島県立医大メソッド」について
    トップページ 【緊急資料11 月16 日】甲状腺検査・診断における「福島県立医大メソッド」について 緊急資料11月16日これまでの鈴木講義を視聴して.pdf  3.1MB 改訂増補版:「福島県立医大メソッド」について.pdf (3.3 MB) 分割ファイル これまでの鈴木講義を視聴して(1/3).pdf 1.6MB これまでの鈴木講義を視聴して(2/3).pdf 1.2MB これまでの鈴木講義を視聴して(3/3).pdf 652KB 【緊急資料11 月16 日】甲状腺検査・診断における「福島県立医大メソッド」について 2012.11.16 田島直樹 一般市民、市民と科学者の内部被曝問題研究会医療部会員 私は、これまでの鈴木眞一氏講義を視聴して、甲状腺検査・診断における「福島県立医大メソッド」には、多大な疑問をいだくようになりました。 2012...
  • rabe12月25日
    十二月二十五日 昨日の午後、日記を書いているとき、張と中国人の友人たちがひっそりと小さなクリスマスツリーの飾り付けをしていた。そういえば以前、張はよくこれを手伝っていた。 小さいというのを別にすれば、このツリーは、前に飾っていたのとそっくり同じだ。なんとクリスマスの庭(キリスト誕生の瞬問を再現した厩の模型)まであった。厩をとりかこむ動物たちも。人になれているのも野生のも入り混じっている。私たち家族はみなこれを見て喜んだものだった。食堂のまん中の扉が開いて、わずかばかりのロウソクが部屋に貧弱な光を投げかけると、それでもそこはかとなくクリスマスの気分が漂った。 クレーガーとシュペアリングがクリスマスツリーを見にきた。南京広しといえどもツりーがあるのはここだけだ。クレーガーは白ワインを一本提げてきた。シャルフェンベルク家の瓦礫から「救出された」ものだ。残念ながら漏れてしまって...
  • rabe1月11日
    一月十一日 イギリス大使館を訪ね、プリドー=ブリュン領事、フレーザー大佐、ローゼン、アリソン、ヒュルター各氏と会う。イギリス、ドイツ、アメリカの大使館で私の頼みを引き受けてくれた。頼みというのは、日本兵の違法行為に関する日々の報告を我々から受け取って、日本大使館あるいはそれぞれの国の政府に転送することだ。こうしてもらえれば委員会はうんと助かる。もし、それぞれの大使館が今後も日本軍に抗議し続けてくれれば、じき、状況は良くなるかもしれない。 今日の昼、日本軍に米の輸送を禁止された。これは我々が自治委員会のために計画したものだ。 午後、私がまだ本部にいたとき、日本の警察がやってきて家捜しをした。脱走兵〈refugee 難民)が略奪した古着を探しているという。その服は、数日前、その兵士からうけとって本部のフィッチの事務所にしまってあった。たまたまフィッチの部屋だけに鍵がかかって...
  • 中文12月10日
    12月10日 昨天夜里非常不安宁。隆隆的炮火声、步枪声和机枪声从昨天晚上8时一直响到今天凌晨4时。然后这种震耳欲聋的轰鸣声渐渐减弱,到5时完全停了下来。我听说日本人昨天差一点就把城市占领了。他们一直推进到了光华门,据说那里几乎没有防御。中国的一个后备团没有及时补上,但是应当被替换下来的部队除了少数几个连以外都撤了下来。恰恰在这个时候,日本人出现了。在最后的紧要关头,赶到的后备部队经过艰苦的战斗才将敌人打退下去。今天一太早听说,日本人已于昨晚推进到了扬子江边的自来水厂附近。大家普遍认为,至迟今天晚上,城市将要落到日本人的手里。我们决定公布昨天晚上发出的两份电报,但是开头章节不予公布,免得唐将军出丑。3名记者此刻正在努力通过美国炮艇帕奈号的帮助(艾奇逊先生)将这两份电报发出去。现在只有通往下关的城门是可以通行的,记者们要想把这条消息发出去,很有可能就要拿自己的生命冒险,因为他们不像我们昨天...
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    判決全文 と 準備書面一式 とから調べ 引用は自己責任にてお願いします m(- -)m 書証一覧  サイト内検索 書証一覧本件書籍(結審時) 調書 原告側提出甲A 甲B1~20 甲B21~40 甲B41~60 甲B61~80 甲B81~100 甲B101~120 甲B121~140 甲B141~160 甲C1~ 被告側提出乙1~20 乙21~40 乙41~60 乙61~80 乙81~100 乙101~120 乙121~140 本件書籍(結審時) 番号 証拠名 by whom 成立 本件書籍(1) 「太平洋戦争」岩波現代文庫版 家永三郎・岩波書店 2002年平成14年7月16日 本件書籍(2) 「沖縄ノート」  大江健三郎・岩波書店 1970年昭和45年9月21日 調書 略称 氏名 法...
  • rabe12月27日
    十二月二十七日 サンタクロースのまねをしようと思い、百二十六人いる難民の子どもたちに二十セント硬貨を贈ることにした。ところがさんざんな目にあってしまった。もみくちゃにされて、ひきさかれそうになったのだ。乳飲み児を抱いた父親たちが押しつぶされそうになっているのに気がついて、私はあわてて中止した。プレゼントをもらったのはおよそ八十人から九十人。いずれ折を見て、だれがまだもらっていないか聞いてみよう。今日、本部を片づけた。仕事もないのに、ここには怠け者の苦力がたくさん泊まりこんでいた。ものの二十分でぴかぴかになり、元通り堂々たる姿になった。 鼓楼病院に今日、男が一人、担ぎ込まれてきた。五ヵ所も銃剣で刺されている。金陵中学の難民収容所では、およそ二百人の元兵士が選び出されたのだが、そのうちの一人だという。この元兵士たちは、射殺されたのではなく、銃剣で突き殺されたのだ。目下この方法が取ら...
  • rabe12月22日
    十二月二十二日 憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。 そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。 わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィスと庭も見わたすか...
  • rabe12月20日
    十二月二十日 委員会本部に日本人将校がきていた。南京一のホテル、首都飯店を片づけたいので作業員を二十人集めてくれないかという。このホテルには日本軍の参謀将校が泊まることになっている。私は十六人世話した。昼にはこの将校が自分でトラックに乗せて連れ帰るうえ、五中国ドル支払われるという約束だった。これが日本軍が示したはじめてのまともな対応だった。中国人たちも明らかにいい感じを受けていた。 寧海路に着いてから、棲霞山の江南セメントエ場のシンバーグ氏と知り合った。けがした中国人を数人、南京に運ぶつもりだったという。ラジオで、南京は完全に落ち着いており、電気・水道や電話設備も正常化しているといっていたからだ。いざ来てみて、そうとうびっくりしたらしい。日本軍にとめられ、けが人を途中で送り返さなくてはならなかったとのこと。それでもとにかく南京にいこうと心に決め、延々と続く道を歩いているところを...
  • rabe12月30日
    十二月三十日 新しく設立された自治委員会は、五色旗(北京政府時代の中国国旗)をたくさん作った。一月一日に大がかりな公示がある。そのとき、この旗が振られることになっている。この「自治委員会」は我々に取って代わろうとしている。仕事を引き継いでくれるというのなら文句はない。だが、どうも金目当てのような気がしてしかたがないのだ。 こちらからは何ひとつ引き渡さない。あくまでも、ごり押しされた場合にかぎる。ただし、そのときもねばれるだけねばるつもりだ。思うに、日本の外交官たちは日本軍のやり方を恥ずかしく思っているらしい。だからドイツの旗がついた家が四十軒も略奪にあい、しかもそのうち何軒も焼き払われたなどということはうやむやにしておきたいのだ。 ぬかるみとごみにまみれた通称ジーメンス・キャンプのわが庭の藁小屋のなかで、二晩続けて子供が生れた。男の子と女の子。こんな宿しか産婦に与えられ...
  • rabe12月23日
    十二月二十三日 昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたいとのこと。なんと今日の昼までに、という。そんなことがらくにできるのは一国の大使館くらいなものだろう。我々にはそんな簡単な仕事ではない。だが、やりとげた。さっそくクレーガー、シュペアリング、ハッツに来てもらい、地区ごとに分担を決め、時間までにちゃんと仕上げた。それによると、ドイツ人の家で略奪にあったのは三十八軒。うち、一軒(福昌飯店)は燃やされてしまった。だがアメリカ人の被害ははるかに甚大だ。全部で百五十八軒にものぼる。 リストの完成を待っていたとき、ボーイの張が息せききってやってきた。日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、二万三千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられな...
  • rabe12月31日
    十二月三十一日 今日、うちの難民がふたり、外をぶらついていたところを日本兵に連れていかれて、略奪品を運ばせられた。昼、家にもどると、かみさんのひとりがひざまずいて訴えた。「お願いです! うちの人を連れ戻してください。でないと、殺されてしまいます!」みるも哀れな姿だった。しかたなく私はそのかみさんを車に乗せて、中山路でようやく連中を見つけた。 武装した兵隊二十人とむきあう。案の定二人を引き渡そうとはしない。私の立場はちょっと具合の悪いものだった。なんとか連れ戻すことができたときには心底ほっとした。 家に戻ってから難民を集めて、この二人のおろか者をみなの前で叱りとばした。ばかなことをして捕まっても知らんからな。六百三十人もいる人間のあとをそのたびに追っかけちゃいられない。いったい何のためにここに逃げてきたんだ? また私が助けに行くと思ったら大まちがいだ。こんなことが続いたら...
  • 中文12月29日
    12月29日  我为那个准备恢复电厂供电的日本工程师招到了50名工人,并另外派了30名工人供维修水厂使用。我们欧洲人同日本人一样关心尽快得到照明和水。中午我同斯迈思博士一起拜会了日本大使馆的福井先生。我们请求允许我们运输燃煤和大米。福井先生愿意替我们到军方说情,他本人帮不了我们的忙,因为一切得通过军事当局。10时,福井先生和高玉先生来访,他们为我送来了上海的邮件。这是极其令人高兴的。其中有3封信是妻子从上海寄来的(最后一封信注明的日期是12月22日),还有两份公文:一是礼和洋行经理鲍尔博士给克勒格尔的公文,注明的日期是12月17日;二是大使馆参赞菲舍尔给我的公文,注明的日期是12月22日,这份公文全文如下: 德国总领事馆 上海 1937年12月22日 亲爱的拉贝先生:  本月18日在南京的日本大使馆参赞日高通知我,根据他个人的查实,大使先生的房子和德国大使馆...
  • rabe12月24日
    十二月二十四日 昨夜灯をともした赤いアドヴェントシュテルンを今朝もういちど念入りに箱に詰め、ジーメンスのカレンダーといっしょに鼓楼病院へもっていった。女性たちへのクリスマスプレゼントだ。 ちょうどいい機会だからと、ウィルソン先生が患者を見せてくれた。顔じゅう銃剣の傷だらけの婦人は、流産はしたものの、まあまあ元気だった。下あごに一発銃撃を受け、全身にやけどを負った男性もいた。ガソリンをかけられて、火をつけられたのだ。この人はサンパンをいくつか持っている。まだ二言三言口がきけるが、明日までもつまい。体の三分の二が焼けただれている。 地下の遺体安置室にも入った。昨夜運ばれたばかりの遺体がいくつかあり、それぞれ、くるんでいた布をとってもらう。なかには、両眼が燃え尽き、頭部が完全に焼けこげた死体があった。民間人だ。やはりガソリンをかけられたという。七歳くらいの男の子のもあった。銃...
  • 「ラーベの日記」中国語版2月11日,12日
    2月11日 南京国际委员会遇到的几个问题 2月11日(フィルムのこと) 1938年2月12日 2月11日 今天,我们的苦力“钱痢”(外号)步行回农村老家,他老家离城有3小时的路程。我很担心,他的家人是否还活着,他怎么能找到他们。据说,外面的日军杀人如麻。 刚刚传来一条消息:麻生将军所称的具有良好纪律的日本军队的一个士兵闯入民宅,屋内住有一位妇女和她两个女儿。这个士兵想要强奸其女,遭到反抗,随后,他把这3位妇女锁人屋内,纵火烧屋。一个女儿被烧成了焦炭,母亲脸部严重灼伤,此案正在调查中。 辛德贝格带来一条更糟糕的消息,这次说的是中国强盗,共4人,他们猜想某老乡家藏有钱财,于是,他们把他的四肢捆绑起来,吊挂在火堆上烤,强迫他供出藏钱的地方。我们这是在亚洲啊!此类暴行听得太多,就会想家的。 上海传来一条好消息:上海方面已把100吨蚕豆装船发往这里,这正是我们治疗脚...
  • rabe11月10日
    十一月十日 爆撃機が九機ほど、上空を飛びかっている。中国側は猛烈に砲撃しているが、当たらない。 高射砲弾のかけらがすきまなく降ってくる。近所の屋根がガタガタ音をたて始めたので、リーべを除く全員を防空壕へ避難させた。リーべは校門のところで私のツァイス製の望遠鏡で上空を観察中。爆撃を無事にやりすごせると、いつもほっとする。うまい具合に避難させるのは難しくなるいっぼうだ。運良くいままで無事だったせいか、みな、気がゆるんでしまった。折に触れて雷を落とさないことには、危険を感じなくなっている。ところで、うちの防空壕は地下水ですっかりふやけてしまった。地下水をさえぎるのは大仕事だ。何時間も汲み出さなければならない。 上海から戻ってきたわが国の軍事顧問の話では、前線のうしろでは、軽症を負った中国人の兵士たちがうろついているという。もう統制がとれなくなっているのだろう。そのため、夜はもは...
  • rabe11月11日
    十一月十一日 爆弾が雨あられのように降ってくる。だしぬけに、おもてで歓声があがった。高射砲弾がひとつ命中したのだ。あっというまに防空壕はもぬけのから。こんな見ものを逃す手はないというわけだ。まっぷたっになった爆撃機が、炎に包まれ、もうもうたる煙をあげて落ちてくる。五人から七人乗っているはずだが。なかから二人、炎と煙のなかを飛び降りた。パラシュートもつけずに。二十秒後には、堂々たる機体は残骸と死体だけになっていた。 ラーベの日記index
  • rabe11月19日
    十一月十九日  雨は降り続き、荷造りも続く。帳簿をしめようと思うのだが、こう用事が多くてはとてもそこまで手が回らない。韓はかなりの金額を集金してきた。私は社の金をほとんど全額、それから自分の金も二千ドル漢口へ振り込んだ。従業員には十一月分の給料を払った。これで、店がまだ開いているうちに食料品が買えるだろう。あと石炭一トンに石油を四缶貯蔵できる。いまのところそれで精いっぱいだ。使用人たちは、おびえきった目をしておろおろいている。ついに私もクトゥー号で逃げ出すと思っているのだ。どんなことがあってもここを動かないから、と言い聞かせると、ようやくみなほっとした顔をした。  国際委員会が発足した。主要メンバーは鼓楼病院のアメリカ人医師、それから金陵大学の教授たち。全員宣教師だ。難民区を作ろうというのがその目的だ。つまり、城壁のなか、あるいは外に中立地域をつくり、万が一砲撃されたとき、非戦闘...
  • rabe11月14日
    十一月十四日 すばらしく晴れた日曜日。爆撃もなし! 韓にいわせると、日本人は日曜には来たがらないそうだ。 「どうしてだか、私にもわかりません。たぶん敵も骨休めしたいんでしょう」 それを聞いて、以前天津にいた楊を思い出した。楊はひどくなまけものだったので、毎日、どこへ行き、どんな取引をしたか、日誌につけさせなければならなかった。日曜日の文句はきまっていた。「今日は、神聖な日曜日。だから仕事をするわけにはいかない!」 リーべは今朝早くに漢口まで行くつもりだったが、見合わせた。ジャーディン海運社の蒸気船でいくのだが、最下等客室しかあいていなかったのだ。私だったら乗ったがね。そして船長か一等航海士にうやうやしく下につれて行かれるまで、一等客用のサロンでねばっただろう。イギリス人は、ヨーロッパ人にはていねいだから。 ラーベの日記index
  • rabe11月18日
    十一月十八日 今日は、『中華新聞』の南京版も出なかった。印刷工が逃げ出したのだろう。力車や荷馬車、乗用車、トラツクが夜昼となく町から出ていく。どれもこれもうずたかく荷物を積んでいる。大半は揚子江へ向かう。船で漢口やその先へ避難するからだ。時を同じくして、北部から新米兵の隊列があとからあとからやってきた。どうやら、あくまでも防衛する覚悟らしい。兵士は、ぎょっとするほどみすぼらしい身なりだ。みな裸足で、黙々と行進してくる。果てしなく続く疲れ切った人々の無言の行列。 ついこの間ド―ラは、北京で娘のグレーテルとヴィリ夫婦の荷物をまとめた。きのう、そのときのドーラの気持ちがよくわかった。クトゥー号に積むものを選びだすため、部屋から部屋へと歩きまわって、自分がどんなにこれらの品に愛着を抱いているかということに、はじめて気がついたのだ。 トランクのそばに置いてあるものを全部下におろさな...
  • rabe11月12日
    十一月十二日 見ず知らずのドイツ人の婦人から、ついさっき電話があった。 「もしもし、いますぐおたくの技師さんをよこしてちょうだい。うちのミシン、壊れちゃったのよ!」 「奥様、こちらはジーメンス電機です。シンガーミシンではありません」 「ええ、わかってます。シンガーなら、もう行ってみました。あの会社ったら、ほんとにいまいましいったらありゃしない。だからおたくに電話したんですよ。だってうちのは電気ミシンなんですもの」 はあ、どうしたものだろう? ま、明日、うちの電話技師の宋さんでもやることにしよう。やあ、どうやらまた商売が繁盛してきそうだぞ! ミシンの婦人からまた電話あり。お宅の技師さん、なるべく午後にお願いしますね、だと。 ラーベの日記index
  • rabe11月17日
    十一月十七日 メインストリートは一晩中騒々しかった。乗用車、トラツク、なんと戦車まで。どれもがのろのろ通っていった。政府の大がかりな移転が始まったのだ。国民政府主席の林森氏はすでに発ったという話だ。韓の家族のことが心配だ。早くしなくては・・・・・。 荷物をうずたかく積んだ力車が何百となく、下関へ向かっている。まだいくつか運行されている汽船に乗るつもりなのだ。それにしても新たに徴集された新兵、かれらはなんというひどい格好をしているのだろう。程度の差こそあれ、みな、ぼろをまとって、荷物を背負い、さびついた猟銃をかついでいる。 今聞いたのだが、蘇州付近で張学良の指揮下のおよそ五千人の兵士たちが蒋介石に対する服従を拒んだのだそうだ。それでようやく、なぜ日本軍があんなにやすやすと侵攻できたのかわかった、なんでも、蒋介石委員長がみずから蘇州に赴き、精鋭部隊に命じて反抗的な一団から武器...
  • rabe11月15日
    十一月十五日 政府は南京から撤退するつもりだ。私は交通部(運輸省)でそう確信した。執務室も廊下も旅行かばんと荷箱で足の踏み場もない。揚子江上流の長沙に移ることになっているのだ。それから鉄道部へ行った。そこのボーイからこっそり聞き出したのだが、ここも明日荷造りするらしい。 ドイツ大使夫妻のところにお茶によばれ、シュペーマン将軍を紹介される。太原府から来たそうだ。クトゥー号は、まず女性と貴重品を漢口に運んでから、大使館の人間と残りのドイツ人を運ぶ予定になっているという。国民政府が逃げ出したら、大便館もぐずぐずしてはいられない。さもないと、敵対的な地域に残ってしまうことになる、というのがおおかたの意見だ。 ラーベの日記index
  • rabe11月30日
    十一月三十日 韓に家族を連れて越してくるようにいった。一家はいま学校で暮らしている。台所や風呂場は韓が作らせた。韓の友人で怡和通レンガ工場の経営者、車を贈ってくれた孫さんも越してきた。新しい防空壕はまだできあがらない。全力をあげているのだが。ゆるく積み上げた煉瓦壁(セメントがないので両側を厚板で補強してある)がひとつあるほかは鉄板を使った。だれが調達してきたのかはわからない。とにかくそこにあったのだ。ほかにもいろいろそういう物がある。おかげでわが家の庭はすさまじいことになっている。水道がとまりはしないかと心配だ。トラックで大型の貯水タンクを運んでこなくては。灯油も買った。ロウソクも。石炭は約1ヶ月分ある。 一晩かけて予備の注射器を煮沸消毒した。器具一式と、インシュリンのアンプル三個を肌身離さず持ち歩いている。張のかみさんはまだ入院している。コックの層も入院中だが、こちらは快方に...
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