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「マルレ」とは:『陸軍船舶戦争』より

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「マルレ」とは:『陸軍船舶戦争』より


『陸軍船舶戦争』
松原茂生(元船舶参謀・自衛隊)/遠藤 昭
戦誌刊行会 1994(平成8)年

以下の文章は元船舶参謀という立場からタテマエに縛られている。その点、元特幹一期生で海上挺進第2戦隊員として沖縄阿嘉島に配属され、沖縄戦の生き残りとなった儀同保氏の調査は、現実を踏まえたタテマエに束縛されないものだから信頼がおける。必読である→海上挺進戦隊、特幹生、マルレ。(引用者)

  • (引用者注)《マルレ》:書籍中では○の中にレの一字
第9章 比島攻防戦
7、《マルレ》の量産

7、《マルレ》の量産

《マルレ》、正式名称を四式肉薄攻撃艇と呼ぶらしいが記録は全て連絡艇となっている。

陸軍で唯一の量産特攻艇であり比島決戦以後使用されている。

全長五・六メートル、自重○・八三トン、速力二〇~二四ノツト、全力三時間、合板製の二人乗りモーターボートである。

  • (引用者注)自重は諸説あるようだ。試作機は軽かったかもしれない

エンジンには日産やトヨタの自動車用エンジンを使用しており、甲、乙、丙、丁、戊、己の六型式がある。

昭和十九年五月に船艇研究専門機関として第十陸軍技術研究所が開設されたが、六月中旬に、自動車エンジンを用い、速力二〇ノット以上、一二〇キロ爆雷を両舷に各一個持った特攻艇の試作が発令された。

  • (引用者注)後段で触れられているように、2個の爆雷は結束して後端から落下させるようになった。

担当者の努力により、七月十日には甲一型が完成し、以後、小型化、又は、爆雷前装型(海軍震洋艇方式)、および爆雷後装型などを試作、甲八型迄に及ぶ。

昭和十九年八月以後十二月迄の間に三千隻が建造され、その後、本土防衛用に二千隻が追加建造された。
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乙.丙・丁型については資料も無く、実在も明かでない。

ロケット噴進により短時間だけ高速を出すことを計画したのが五式肉薄攻撃艇(連絡艇戊)である。

艇尾に八本のロケットを附したが、重量過大(ニトン・全長七メートル)となり巡航速力が一〇ノットに低下した。ただし、二〇秒間のロケット噴射中は五〇ノットを発揮できた。乗員は一名である。

ロケット改良の必要があり、開発は中止された。

連絡艇戊三型は熱線誘導装置を装備した無人特攻艇である。資料では《マル戊》となっているが指揮艇とも呼ばれたらしい。

誘導装置や専用機関は終戦迄開発できなかった。

終戦直前の同研究所の作業計画があるので別表に要約してある。表中に五式雷撃艇とあるのが連絡艇戊五型であり、同砲撃艇とあるのが連絡艇己二型のようであるが断定できない。

開発担当者の戦後の解説、陸軍公式図、および研究所作業計画の各々を完全に特定するには新資料の発見が必要であろう。



昭和十九年八月頃から、《マルレ》一〇〇隻を持つ海上挺進戦隊とその基地を担当する海上挺進基地大隊が編成された。

海岸にトンネルを掘り、その中を基地とするのが《マルレ》隊の配置方式であった。

大発乗員の養成のために陸軍船舶特別幹部候補生隊が初め香川県三豊郡豊浜町に、やがて瀬戸内海の
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小豆島に移転した。

昭和十八年十二月に、中学校(旧制)三・四年生(十五・六才)を対象とした新しい制度によったもので合格者四〇〇〇名中、第一期生として一八〇〇名が、続いて約四ヵ月後に残り二二〇〇名が第二期生として入隊、以下四期迄が入隊した。

  • (引用者注)筆者は記述を避けているが、一期生二期生の入隊は「海上挺進」の編成方針がきまるずっと前である。一期生においては大発乗員の養成過程を終了したと同時に「海上挺進隊」に組み込まれた。

昭和十九年八月、宇品の船舶司令部内の船舶練習部に秘密に「第十教育隊」が編成された。

陸軍船舶部隊の主任務が広い意味での輸送から攻撃、それも特攻に準ずる過激なまでの攻撃部隊に変身したのだ。

当然、陸軍船舶特別幹部候補生隊も、そして学徒動員で陸軍に入隊し、船舶兵に配属された多数の人々も、《マルレ》の要員としての教育を受けることになった。

  • (引用者注)陸軍船舶特別幹部候補生(特幹生)の、大発運行要員から海上特攻要員へと変わる運命の転回を、『当然』の2文字で有無を言わせず押し付けてしまう倣岸ぶりにはあきれる。こうして、少年・青年たちに『死』を押し付けた参謀閣下は、果たして、その行為に応じた責任を取ったのであろうか?

陸軍の《マルレ》は体当りボートではない。敵艦の舷側スレスレに口ープで結んで細長くした二箇の爆雷を投下したら反転退避することになっているが、当時《マルレ》乗員は、体当りするくらい近接しなければ攻撃効果は上らないと信じていた。



海上挺進戦隊は隊長以下一〇七名、《マルレ》艇も一〇〇隻、戦隊長と中隊長は一隻二名、他は一隻一名の乗務である。

一〇隻で一小隊、三小隊で一中隊となる。
一〇隻足りないのは戦隊長小隊であろうか。

一機一艦、一艇一艦を屠ることの研究が六月二七日から発足し、前者は生還を期しえないため軍令を
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もって部隊を編成する迄に到らなかったが、後者は《マル八》(マルハチ)と呼び、爆雷投射後、転舵反転することが正攻法であるため軍令により挺進戦隊の編成となった。

《マル八》の試験は七月十一日に完了した。そして予定総数三〇〇〇隻の内第一回分として一〇〇〇隻分の建造が発令され、八月十九日には、初の海上挺進戦隊一〇隊の編成が下令された。

比島六隊、沖縄四隊である。

九月二二日に残り二〇〇〇隻分が発注され、比島十隊、台湾五隊、沖縄五隊の配属が追加された。

そして、比島作戦での成果が確認されたため、追加建造が決り、七月中旬迄に十箇戦隊、そして、九月上旬迄に追加十箇戦隊の編成を完結し、本土各地に配属されることになった。



昭和二〇年一月九日、リンガエン湾に配置の《マルレ》一箇戦隊の敵輸送船団奇襲は成功し、沈没三隻、大破九隻、中破四隻の大戦果をあげている。

即、駆逐艦「ロビンソン」「フィリップ」「イートン」が大破、「リーズ一「ホッジス一が中破、輸送船「コアホーブ一が大破、貨物輸送船「アルサイアニ」が中破、歩兵揚陸艦「三六五号」「九八四号」が沈没、戦車揚陸艦「六七四号」が沈没、「六〇一号」「六一〇号」「六二五号」「一〇二五号」「一〇二八号」大破、「五八八号」中破などが確認されているそうだ。

当時、同盟電で『《マルレ》が敵の輸送船三十数隻を撃沈した』との報道があったことからも確実であろう。

全艇体当りのため日本側記録では確認されていない。

この奇襲の後、連合軍は海岸線への砲爆撃を強化し、そのため、ほかの地点での《マルレ》隊は出撃数も減り、
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戦果も散発的となった。

当時、海軍でも特攻艇「震洋」が量産されていたが、比島へ輸送中の航空母艦「雲龍」が撃沈され、配備数もほとんどなく、戦果も上っていない。

《マルレ》は建制の部隊であるが、その攻撃法が捨身に近いため、部隊への編入は原則として志願により、又、極小数ではあるが出撃後、爆雷を投下して帰投した艇員もあったそうだ。



基地部隊は、重機四、軽機十二、重榔弾筒十四を持ち、全員小銃で武装しており、中には大隊砲を持った部隊もあった。

《マルレ》出撃後は陸上戦闘に参加することを予定していたらしい。



尚、第一次挺進戦隊配属者三一二一名中、一七四三名の多数の戦死者を出している。これは出撃以外の戦闘での戦死者を含むが、戦闘場面の第一線配置のため、非常に高い被害率となっている。

尚、移動中の海没者は内、二八九名である。



比島作戦の特色として、陸軍独自に構想した潜航輸送艇(《マルゆ》)、駆逐艇(カロ艇・海上駆逐第一大隊)、特大汽艇(SS艇・機動輸送中隊)、伊号高速艇(高速輸送第一大隊第六中隊)が連絡艇(《マルレ》)の他に少数ずつ実戦配備されたことであった。
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(引用者注)この記事を読んで、海上挺進部隊が「志願」を前提として兵員を集めたものか、そうではないのか、判断できるだろうか? 日本官僚主義の集大成とも言える「軍官僚」(筆者は元、広島の船舶本部参謀)らしく、「特攻」なのかどうか、断定せずに云い抜けできる仕掛けを、当時においても、また50年を経て書かれたこの文中においても施している。


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