15年戦争資料 @wiki内検索 / 「渡嘉敷村」で検索した結果

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  • k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(ha)
    ...記載文献)* k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(ha) k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(ha)(a)(「渡嘉敷村史」中の富山証言)* (b)(朝日新聞での富山証言)* (a)(「渡嘉敷村史」中の富山証言)* 「渡嘉敷村史」は,渡嘉敷村史編集委員会の編集により,渡嘉敷村役場が発行したものである。 「渡嘉敷村史」には, 「すでに米軍上陸前に,村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり,戦場においては,軍の命令を住民に伝える重要な役割を負わされていた。渡嘉敷村の兵事主任であった新城真順氏(戦後改姓して富山)は,日本軍から自決命令が出されていたことを明確に証言している。兵事主任の証言は次の通りである。 ...
  • k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(2ha)
    ...る。 k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(2ha) (判決本文p175~) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。 k 「渡嘉敷村史」(平成2年)渡嘉敷村史編集委員会編集(2ha)(a)(「渡嘉敷村史」中の富山証言)* (b)(朝日新聞での富山証言)* (a)(「渡嘉敷村史」中の富山証言)*   「渡嘉敷村史」は, 渡嘉敷村史編集委員会の編集により, 渡嘉敷村役場が発行したものである。   「渡嘉敷村史」には, 「すでに米軍上陸前に, 村の兵事主任を通じて自決命令が出されていたのである。 住民と軍との関係を知る最も重要な立場にいたのは兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を扱う専任の役場職員であり...
  • 渡嘉敷村:二期作米の収穫開始 「大豊作」で実りの秋
    ...0c.html 渡嘉敷村:二期作米の収穫開始 「大豊作」で実りの秋  【渡嘉敷】渡嘉敷村では実りの秋を迎え、二期作米の収穫が2日から始まった。  今期は心配された台風の襲来もなく生育は順調。黄金色の稲穂がこうべを垂れ、「大豊作」と農家は喜んでいる。作業は20日ごろまで続くという。  渡嘉敷区にある15ヘクタールの水田には「ちゅらひかり」「ひとめぼれ」「あきたこまち」「黒米」などの品種が植えられ、約30トンの生産量を見込んでいる。  収穫作業に汗を流していた當山清林さん(71)は「例年10アール当たり約600キロの生産量だが、今期は700キロ。二期作米の出来としては久しぶりの大豊作だ」と喜んだ。  新米はJA渡嘉敷や県内の大型店舗、離島フェア、沖縄の産業まつりなどで販売される。 (米田英明通信員) (琉球新報) 2009...
  • 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』
    『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 渡嘉敷村役所蔵。渡嘉敷村遺族会編一九五三・三・六。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 はじめに   この記録は今次大戦における沖縄戦の一端渡嘉敷島における戦聞の概要を収録したのであるが 沖縄本島と切離された孤島の戦線には幾多様相を異にするものがある   当時村長米田惟好氏 役所職員 防衛隊長屋比久孟祥氏等の協力を得て纒めたものでありますが 過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し そして今後幾多反省すべきことがあること(※1)を痛感した   将来この社会において再びこの様な事を繰返すことのないよう 永遠に平和を愛好し人類の幸福と...
  • 『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同
    ...慶良間戦況報告書』、渡嘉敷村、座間味村、所載)と沖縄県渡嘉敷村役所にある『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(渡嘉敷村遺族会、一九五三・三・六)は、共に、沖縄戦における渡嘉敷島の戦闘を記録したものである。その内容、文章は酷似しており、戦記『鉄の暴風』(沖縄タイムス社、一九五〇・八・十五)を踏襲している点でも同じい(ママ)。  『渡嘉敷島における戦争の様相』(以下『様相』と略す)について、曽野綾子氏は、『ある神話の背景』(文芸春秋・一九七三・五・十)の中で、「恐らく初めて星氏によってジヤーナリズムの明るみに出された」ものだと述べ、また、「星氏によって発見された琉大図書館の資料」であるとも説明している。が、この指摘は正しくない。一九五九年四月十日に刊行された『みんなみの厳のはてに』(金城和彦・小原正雄編、光文社)に、その梗概が載っているからである。二二二ページ「二 渡嘉敷島の戦闘」と...
  • 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(2)
    ...ア イ ウ (6) 渡嘉敷村が発行した『渡嘉敷村史・資料編』(昭和62年) 6 太田良博の反論の顛末 7 手榴弾交付=自決命令説について(1) はじめに (2) 富山真順の証言の変遷ア イ ウ エ (3) 家永訴訟での手榴弾交付=自決命令説の登場ア 金城重明の証言(昭和63年2月9日) イ 安仁屋政昭の証言(昭和63年2月10日) ウ 曽野綾子の反論(昭和63年4月5日)(ア) (イ) (ウ) (4) 朝日新聞記事(昭和63年6月16日) (5) 『渡嘉敷村史通史編』の手榴弾交付説ア はじめに イ ウ エ (6) 軍の意思によらず手榴弾が住民の手に渡っていた現実ア イ ウ エ オ (7) 3月20日時点での赤松隊の状況ア はじめに イ ウ エ (8) 手榴弾交付説の破綻ア はじめに イ 金城重明の証言(ア) (イ) (ウ) 5 赤松命令説の削除と訂正 『ある神話の背景』の出...
  • 渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』
    渡嘉敷村・座間味村共編 『渡嘉敷島における戦争の様相』 琉球大学図書館。日付なし。手書き・ガリ版刷り。伊敷論文よりの復元版。 大阪地裁の公判において『渡嘉敷島における戦争の様相』は原告側証拠甲B23及び被告側証拠乙3として提出された。また、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』は被告側証拠乙10として提出された。参照:書証一覧 まえがき   この記録は米軍上陸から赤松隊降伏までの沖縄戦の一端渡嘉敷島の一部を記録しましたが本島と切離された孤島の戦線は幾多相様を異にするものが多々あった。 当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが過去を省みて如何に戦争が罪悪であるかを吾々は実際に体験し、そして今後幾多反省すべきことがあるかを痛感した。将来に再度この様な事を繰返すことのないよう永遠に平和を愛好し人類の幸福と繁栄...
  • 毎日 集団自決訴訟:判決の日…悲劇の舞台63年目 渡嘉敷島
    ...、沖縄県・渡嘉敷島(渡嘉敷村)は戦後63回目のあの日を迎えた。「集団自決」に軍の関与を認めた地裁判決。島内の慰霊の塔を訪れる人たちからは「当然だ」との声が漏れる一方、戻らぬ家族を思う鎮魂の祈りも静かに続いた。  1945年3月28日の朝、島内には手りゅう弾の爆発音が響き渡った。300人以上とされる犠牲者と、大戦による島民の戦没者も含めて慰霊する「白玉之塔」には朝から続々と島民らが訪れ、手を合わせる姿があった。  塔を訪れた「集団自決」の生存者、吉川嘉勝さん(69)は判決の一報に「ほっとした」と漏らした。「この島々で軍がいるところだけで自決が起きているのは事実。教科書検定に抗議する昨年9月の県民大会で渡嘉敷や座間味だけではなく、県民全体が立ち上がり、真実を語った成果だ。裁判所がよく判断してくれた」と話した。  生存者の一人、73歳の男性は「自決場では周囲で血が噴...
  • d 「座間味戦記」(昭和32年ころ,「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(ha)
    ...沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(ha) 「座聞味戦記」は,座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。 「座間味戦記」には, 「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い,又老人,子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」 として,原告梅澤が住民に対して,若年者は最後まで戦い老人・子供は忠魂碑前で玉砕するよう指示した旨の記述がある(乙3・7頁)。 <被告らの読みとり> <原告らの読みとり> 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
  • 沖縄戦資料index
    ...戦資料index地理渡嘉敷村ガイド 文献 沖縄戦根元史料作戦と戦闘経緯 沖縄戦前夜 慶良間諸島の戦闘と集団自決 住民虐殺 体験証言沖縄県史渡嘉敷 座間味 阿嘉 慶留間 渡嘉敷村史 座間味村史 その他 軍政と住民動員 富山証言と手榴弾配布 朝鮮人軍夫と朝鮮人慰安婦 援護法 米軍資料 戦時報道 防衛研究所資料 論争史戦後ルポ 潮1971年11月号 青い海1971年6月号 曽野・太田論争など 家永教科書裁判の頃 「ある神話の背景」分析 否定派の裁判提起裁判を起こした右翼の経緯 産経新聞「正論」 雑誌「正論」「WILL」 日本会議学生が行ったアンケート 藤岡信勝氏が発した闘争指令 原告関係者資料梅澤証言 赤松嘉次・赤松隊資料 安里証言 海上挺進第2戦隊関係 照屋「証言」 世界日報特集 その他関係者資料大江健三郎氏関連資料 その他 狼魔人歪曲関係 星雅彦、上原正稔 最近の論評書評 07教科書検...
  • 渡嘉敷島に残留した別部隊員
    ...り着いた.  」 渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 より 石田少尉は残留組か? 石田四郎少尉が三池明少佐とともにこのとき本島に帰還したとすれば、上記「作命甲31号」に名前が記載されているはずです。 沖縄戦資料index
  • 阪神さん「渡嘉敷、座間味に行きます」
    ...をもとにして書かれた渡嘉敷村の公式文書を抄録したものである。」となっています。この公式文書とは戦闘概要なのか戦闘の様相なのかは書いてありません。また、書籍中では赤松が集団自決せよと命令したとは書いてありません。 大して参考になる情報ではありませんが、古い書籍なので念の為報告しました。 Re 渡嘉敷、座間味に行きます Name ni0615 Date 01/20 19 30 阪神さん そうですか、今の季節は雨が多いのですか。お気をつけて ところで、「みんなみの巌のはてに(小原正雄、金城和彦)1959年4月10日発行」については、伊敷清太郎さんが、渡嘉敷の記録にふれて言及してました。 http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html ~~~~~  『渡嘉敷島における戦争の様相...
  • d 「座間味戦記」(昭和32年ころ,「沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(2ha)
    ...沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(2ha) (判決本文p147) (引用者注)当サイトでは、原審判決に大阪高裁が付加あるいは判断を改めた部分等は, 区別しやすいようにゴシック体で表示し, 削除した部分は薄い色で削除した部分示しました。   「座聞味戦記」は, 座間味村が援護法の適用を申請する際の資料として当時の厚生省に提出したものである。   「座間味戦記」には, 「夕刻に至って梅沢部隊長よりの命に依って住民は男女を問わず若き者は全員軍の戦斗に参加して最後まで戦い, 又老人, 子供は全員村の忠魂碑の前に於いて玉砕する様にとの事であった。」 として, 控訴人梅澤が住民に対して, 若年者は最後まで戦い老人・子供は忠魂碑前で玉砕するよう指示した旨の記述がある(乙3・7頁)。 目次 戻る 通2-058 次へ 通巻
  • 第1 渡嘉敷島の巻(1)
    ...決」の体験者である。渡嘉敷村で教育委員を歴任し、現在、渡嘉敷島において、当時を語る。《赤松命令説》を完全否定する(Ⅴ)。 (1) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9) 「(27日、米軍上陸後)僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う」 「この人は、あっちこっちの避難小屋を巡って、『軍ヌ命令ドゥヤンドー、ニシヤマ(北山)ンカイ、避難シイガ、イカントゥナランテンドー(軍の命令で 北山に避難するよう、行かないと駄目だぞ)』と伝えていた。 伝令にいわれて、うちの母は『ナー、ワッター、ナマドゥ、チョークトゥ、ワラビンチャーン、アミンカイ、ンダチ、チャシン、シヌアタイヤレー、シマウティ、シヌサ、マーンジ、シナワン、ヰヌムンドゥヤクトゥ、ワッター、ナー、マーンカイン、イカンドー(...
  • 第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等
    ...」(乙12) l 「渡嘉敷村史」(乙13) m 米軍の慶良間列島作戦報告書 n (小括)* a 「鉄の暴風」(乙2) 「鉄の暴風」には,第2・2(5)イ記載のとおり,赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。 「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は,山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており,太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり,「鉄の暴風」は,沖縄タイムス社が体験者を集め,その人たちの話を記録して文章化したものである。 b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収) (a) (内容)* 「戦闘概要」は,当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下,渡嘉敷村遺族会が編集したものである。 「戦...
  • (原)第3・4(1)ウ(ア) 自決命令を示す文献等
    ...」(乙12) l 「渡嘉敷村史」(乙13) m 米軍の慶良間列島作戦報告書 n (小括)* a 「鉄の暴風」(乙2)   「鉄の暴風」には, 第2・2(5)イ記載のとおり, 赤松大尉が渡嘉敷島の住民に集団自決を命じたとする記述がある。   「鉄の暴風」の執筆者である太田良博は, 山城安次郎と宮平栄治以外の直接体義者からも取材しており, 太田良博の取材経過に関する「ある神話の背景」(甲B18)の記述は誤りである。太田良博の「『鉄の暴風』周辺」(乙23)に記載されているとおり, 「鉄の暴風」は, 沖縄タイムス社が体験者を集め, その人たちの話を記録して文章化したものである。 b 「戦闘概要」(乙10「ドキュメント沖縄闘争 新崎盛睴編」所収) (a) (内容)*   「戦闘概要」は, 当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協力の下, 渡嘉敷村遺族会が編集し...
  • 第1 渡嘉敷島の巻(3)
    ...。(Ⅴ) (1)『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月発行】(甲B39)p399~406 「翌日の朝九時頃、“集合”と号令がかかって、集まったところで、宮城遥拝をして、手榴弾がみんなに配られ、僕のところに渡されたのは、不発弾だったのか、あんまり押しつけたら、ネジがバカになって、信管がボロッと抜けて、でも火薬を食べたら死ぬんじゃないかと思って、家族の手に、少しずつあけて、なめて見たが、死なないものだから、それで男の人のいるところでは、もう、これじゃだめだから、自分の家族は、自分で始末しよう、といった。  女世帯のところは、もう慌てて、頼むから、あなたの家族を殺したら、次は、私たちを殺してくれ、と、いって、あっちでも、こっちでも殺し合っているのを見ましたよ。 僕らは、叔父がいないものだから、親戚のおじーに頼んであったらしい。でも、おじーは、山の中を逃げまわるうちに、頭がちょっとお...
  • 第4 渡嘉敷島における隊長命令の不在(1)
    ...良間島・座間味村及び渡嘉敷村「戦況報告書」戦争の様相』 と呼ぶ(乙3)の記載ア イ ウ (4) その後の出版物の類似性 (5) 3 赤松隊長の反論(1) 『私は自決を命令していない』ア イ (2) 赤松隊長の「血の叫び」ア イ 4 赤松命令説の破綻(1) 『ある神話の背景』の内容ア イ ウ エ オ カ キ 1 赤松命令説の問題の所在 渡嘉敷島において発生した住民の集団自決については、かつて赤松隊長から発せられた《部隊の行動を妨げないため、また、部隊に食糧を供給するため、住民はいさぎよく自決せよ》との無慈悲な命令によるものだとする《赤松命令説》が定説とされていた。 かかる《赤松命令説》の記述は、『鉄の暴風』(昭和25年)(乙2)、『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)(以下『戦闘概要』と呼ぶ)、『秘録沖縄戦史』 (昭和33年)(乙4)、『沖縄戦史』...
  • 「沖縄戦に“神話”はない」----「ある神話の背景」反論(8)
    ...ス社刊『鉄の暴風』、渡嘉敷村遺族会編『慶良間列島・渡嘉敷島の戦闘概要』、渡嘉敷村が出した『渡嘉敷島における戦争の様相』の三つである。そして、この三つの戦記は、そのうちのどれかを模写したような文章の酷似が随所にある、と曽野氏は指摘する。結論を言えば他の二つの戦記は『鉄の暴風』のひき写しであるというのである。  「事実内容」の問題 『鉄の暴風』の文章を、他の二つの戦記がまねたようだという判断から、事実内容までもほとんど『鉄の暴風』の受け売りだとし、『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記が信用できないので、その文章をまねて書かれた他の二つの戦記の事実内容まで疑わしいとする推理だが、この推理はおかしい。渡嘉敷村遺族会編の戦記も渡嘉敷村編の戦記も、直接の体験者たちの証言または編集によってまとめられたものであることは間違いない。直接の体験者たちによってまとめられたものが、いくぶん文章をまねることはとも...
  • 第3・4(1)ウ(オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について
    ...ど赤松大尉の記念品が渡嘉敷村の資料館に飾られることもあり得ない旨主張する。 しかし,古波蔵村長が証言しているのは,衛生兵が住民を治療したという事実だけであり,戦場の混乱した状況の中で,現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと,赤松大尉が自決命令を出したということが矛盾するわけではない。また,渡嘉敷村の資料館に赤松大尉の時計が飾ってあるとしても,赤松大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけではない。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
  • 慶良間諸島・久米島・伊江島住民の沖縄戦記<沖台 沖縄235>
    ...間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書  (1)座間味戦記  (2)渡嘉敷島における戦争の様相 2、元逓信員沖縄戦記 久米島郵便局支部 3、伊江島の戦記(一部分) なお、1の「慶良間列島 座間味村及び渡嘉敷村戦況報告書」は琉球大学の図書館に保存されている「ガリ版刷り」が原本です。その(2)の「渡嘉敷島における戦争の様相」については、「、」「。」誤字まで考察した、伊敷清太郎さんによる写本の方が正確だとおもわれます。伊敷論文については、http //www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1420.html そこから、曽野綾子が問題にした2つの文書「様相」と「概要」の内容(電子Text)にもリンクしています。「鉄の暴風」を踏襲した文章はそのごく一部分で、その他の記述は実に貴重なものです。「ある神話の背景」はそうした部分を覆い隠すのに成功し...
  • 第4・5(1) 前提となる事実
    ...の参軍体制)* c(渡嘉敷村の参軍体制)* イ 集団自決の発生(ア) 座間味島 (イ) 渡嘉敷島 (ウ) 自決者の人数 (エ) 座間味島及び渡嘉敷島以外の集団自決 ウ 日本軍による住民加害(ア)(馬淵新治の調査)* (イ)(渡嘉敷島での住民加害)* (ウ)(その他)* ア 太平洋戦争当時の沖縄の状況、体制等 (ア)沖縄全体の状況,体制等 a(戦況悪化)* 昭和16年12月に始まった太平洋戦争は,昭和17年のミッドウェー沖海戦を機に日本軍は劣勢を強いられ,昭和19年7月にはサイパン島が陥落し,昭和20年2月には米軍が硫黄島に上陸し,次の米軍の攻撃は台湾か沖縄に向かうと予想される状態であった。 b(第三二軍と「軍官民共生共死」の具現化)* 昭和19年3月,南西諸島を防衛する西部軍指揮下の第三二軍が編成され,同年6月ころから実戦部隊が沖縄に駐屯を開始し,この沖縄守備軍・第...
  • (原)第3・4(1)ウ(オ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計について
    ...ど赤松大尉の記念品が渡嘉敷村の資料館に飾られることもあり得ない旨主張する。   しかし, 古波蔵村長が証言しているのは, 衛生兵が住民を治療したという事実だけであり, 戦場の混乱した状況の中で, 現実に負傷している住民を衛生兵が治療したということと, 赤松大尉が自決命令を出したということが矛盾するわけではない。また, 渡嘉敷村の資料館に赤松大尉の時計が飾ってあるとしても, 赤松大尉が自決命令を出さなかったことの根拠となるわけではない。 目次 戻る 通2-024 次へ 通巻
  • 正論:軍命令を否定する証言元琉球政府の照屋昇雄さん
    ...が命を絶った=沖縄県渡嘉敷村渡嘉敷 渡嘉敷島の集団自決を軍命令とした経緯などについて語る照屋昇雄さん=那覇市内のホテル  第二次大戦末期(昭和20年)の沖縄戦の際、渡嘉敷島で起きた住民の集団自決について、戦後の琉球政府で軍人・軍属や遺族の援護業務に携わった照屋昇雄さん(82)=那覇市=が、産経新聞の取材に応じ「遺族たちに戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するため、軍による命令ということにし、自分たちで書類を作った。当時、軍命令とする住民は1人もいなかった」と証言した。渡嘉敷島の集団自決は、現在も多くの歴史教科書で「強制」とされているが、信憑(しんぴょう)性が薄いとする説が有力。琉球政府の当局者が実名で証言するのは初めてで、軍命令説が覆る決定的な材料になりそうだ。  照屋さんは、昭和20年代後半から琉球政府社会局援護課で旧軍人軍属資格審査委員会委員を務めた...
  • 次のものを資料として・・・・
    ...『慶良聞戦況報告書』渡嘉敷村 『慶良問戦況報告書」座間味村 『慶良間列島・渡嘉敷島村の戦闘概要』昭和二十八年三月二十八日 渡嘉敷村遺族会 『秘録沖縄戦史』山川泰邦著 沖縄グラフ社 『悲劇の沖縄戦』浦崎 純『太陽』昭和四十五年九月号 平凡社 陣中日誌 星雅彦エッセイ 沖縄タイムス 昭和四十五年四月三日付 崎原恒新氏エッセイ『鎮魂』 琉球新報 昭和四十五年四月二十八日付 『沖縄戦記』戸次(べつき)寛(未発表) 『手記』赤松嘉次(未発表) 『修親』第十五巻第六号 昭和四十七年六月号 『旧陸軍刑法』昭和二十六年十一月 陸幕法務課 『サン=テグジュペリ 愛と死』ジュール・ロワ著 山崎庸一郎訳 晶文社 328 『思考と行動における言語』S・I・ハヤカワ著 大久保忠利訳 岩波現代叢書 『非政治的人間の考察』トーマス・マン著 前田敬作・山口知三訳 筑摩書房 『 OKI...
  • 第4・5(2) 集団自決に関する文献等
    ...沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(ha) e 「秘録沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著(ha) f 「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著(ha) g 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久刊行(ha) h 「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)山川泰邦著(ha) i 「沖縄県史第8巻」(昭和46年)琉球政府編集(ha) j 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集(ha) k 「米軍の慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)(ha) l 体験者らの供述等(ha) m その他(ha) n (新たな供述や新聞報道)(ha)*(a) (本件訴訟を契機に)* (b) (宮平春子)* (c) (上洲幸子)* (d) (宮里育江)* (イ)(梅澤命令説を否定等する文献)*   梅澤命令説について否定し,又はその存在の推認を妨げる文献等としては,以下に記載するものが...
  • 妄説に断! 渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった
    ...下りるように、当時の渡嘉敷村長玉井喜八氏と共に、集団自決を軍命令ということにして、厚生省への申請書類を作成したというのである。また、当時の調査では、集団自決を軍命令だとする住民は一人もいなかったという。戦後六十一年を経て、その人物が、新たな証言をするというのである。  以前、この問題を取り上げた曽野綾子氏の著書「ある神話の背景」を読み、私はノンフィクション本としては、完璧ともいえる取材と分析、そして深い人間観に裏打ちされた文章に感銘を受けていた。特に、大学時代ドイツ文学を専攻した私にとって、卒論の対象とした作家トーマス・マンの「非政治的人間の考察」の文章が、引用されていたのは嬉しかった。そして、この本こそ、私自身、「戦後思想」を疑い、脱却するきっかけとなった一冊でもあった。  私は「ある神話の背景」で、既に全てが語られていると思っていた。ドキュメントとしても、これ以上...
  • (原)(1) 前提事実
    ...島の状況)*   渡嘉敷村は, 渡嘉敷島を中心として, その他複数の小島で構成されている。昭和19年当時, 渡嘉敷村の人口は約1400人であった。   渡嘉敷村では, 古波蔵村長、防衛隊長の屋比久孟祥、富山兵事主任、安里巡査らが軍の指示を住民に伝達していた。   昭和19年9月9日, 鈴木少佐を隊長とする第三基地隊と呼ぱれる約1000人の兵隊が, 渡嘉敷村に上陸し, 上陸後直ちに陣地構築に取りかかった。渡嘉敷村の村民も, 国民学校の生徒を動員するなどして陣地構築作業に従事した。   同月20日には, 赤松大尉を隊長とする海上挺進第三戦隊104人が, 渡嘉敷島に駐屯した。第三戦隊は, 同年4月に海上特攻隊として編成された部隊であり, ○レ(マルレ)と呼ばれる特攻船艇を約100隻保有していた。   渡嘉敷村は, 同年10月10日に空襲を受け, この空襲以...
  • (原)(2) 集団自決に関する文献等
    ...沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収)(2ha) e 「秘録沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著(2ha)  f 「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著(2ha) g 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久刊行(2ha) h 「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)山川泰邦著(2ha)  i 「沖縄県史第8巻」(昭和46年)琉球政府編集(2ha) j 「沖縄県史第10巻」(昭和49年)琉球政府編集(2ha)  k 「米軍の慶良間列島作戦報告書」(昭和20年)(2ha)  l 体験者らの供述等(2ha)  m その他(2ha)  n (新たな供述や新聞報道)(2ha)* (a) (本件訴訟を契機に)* (b) (宮平春子)* (c) (上洲幸子)* (d) (宮里育江)* (e)(垣花武一)* (イ)(梅澤命令説を否定等する文献)*   梅澤命令説について否定し,又はそ...
  • f 「戦闘概要」(昭和44年,新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」所収)(2ha)
    ..., 太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員, 防衛隊長らの協カのもと, 渡嘉敷村遺族会が編集したもので, 新崎盛暉「ドキュメント沖縄閾争」に転載, 収録されている。 (引用者注)伊敷清太郎氏の論考より復刻した「戦闘概要」はこの資料庫にあります。渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』   「戦闘概要」には, 「同年三月二七日午後, 赤松隊長より, 当時の村長と駐在巡査を通じて, 住民は各自の壕を後にし, 指定された西山の友軍陣地北方に集合せよとの命令伝達されたので, 各自の壕を後にし, 指定された西山軍陣地北方に集結した。 同年三月二八日, 午前一○時頃, 部隊より住民二○名に対し, 一個ずつの手留弾が渡され, 午後一時頃皇國の万才と日本の必勝を祈り, 一せいに玉砕した。」 との記載のほか, 「昭和二○年三月二七日, 夕刻駐在巡査安里喜順を通じ...
  • 1970年3月赤松来沖時の報道
    ...拝行 きょう慰霊祭 渡嘉敷村 "集団自決"論議再び 赤松元大尉、ついに雲がくれ 渡嘉敷島 悲しみの慰霊祭 "悲劇のナゾ"混とん しめやかに25回忌慰霊祭 真相はほかにある! 自決命令下さなかった だが責任は私に 赤松氏が記者会見 25回目の合同慰霊祭 渡嘉敷島の表情 過去は忘れたい 悪夢よみがえる思い 白玉之塔慰霊祭 参考:曽野綾子「ある神話の背景」より 突然自衛隊の高官 戦場の跡を軍事視察? 1970年3月24日沖縄タイムス9面 赤松氏来沖と祖国復帰に伴う自衛隊問題とは深層で結びついていると、当時は疑う向きもあった。沖縄紙にはその頃自衛隊関連の記事が多い。那覇空港での阻止行動はそうした背景の元に行われたと思われる。 新聞画像 再び兵隊の供給地か 防衛庁 意識的に"沖縄兵"帰す 1970年3月25日沖縄...
  • 被告準備書面(1)要旨2005年12月27日その2
    ...)(乙12) シ 『渡嘉敷村史』(1990年)渡嘉敷村史編集委員会編集(乙13) (2)以上のように、赤松大尉が住民に対して「自決せよ」 第3 真実性等 2 渡嘉敷島における「赤松隊長による自決命令」の存在 (1)以下のように、赤松隊長が、住民に自決を命令したとする文献が多数存在する。 ア 『鉄の暴風』(1950年)沖縄タイムス社発行(乙2) 「赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し『住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ』と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として『米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう』ということも駐在巡査から伝えられた。」(33頁) 「恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。『こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必...
  • j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」所収)(ha)
    ...勤務した経歴を持ち,渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。 『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には, 「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって,いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと,それから,いわゆる集団的な殺し合いのときに,防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると,集団的な殺し合いを促している事実があります。これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。曽野綾子さんなどは,『ある神話の背景』という作品の中でこれを否定しているようですけれども,兵事主任が証言をしております。兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」 「兵事主任という役割は,大きな役割だと言いましたが,兵事主任の証言を得ているということは,決定的であります。これは,赤松部隊から,米軍の...
  • 阪神さんの写真記録
    ... ※(引用者注)渡嘉敷村歴史民俗資料館は旧港のターミナル2階にあるそうです。渡嘉敷港よりフェリーターミナル方面へ徒歩1分。ch桜によれば、金城武徳氏が嘱託館員だったとか。 参考:慶良間諸島の沖縄戦PDF  渡嘉敷島戦跡案内図PDF 参考:渡嘉敷島地図(北部)~渡嘉敷村史より~ クリック拡大  →考察図「玉砕場の川」 阪神さんの検討は、http //keybowokinawan.blog54.fc2.com/blog-entry-133.html のコメント欄を必読のこと。  →渡嘉敷島南部地図 撮影日時:2010/2/2~2/3 渡嘉敷島 写真はクリックすると拡大します。 1 白玉の塔(白玉之塔PDF)に死者数内訳がありました。 2 因みに、この塔の近くに自衛隊のヘリが発着訓練する場所があり煩かったです。 345大城徳安さん碑銘6 死者の名簿には松...
  • こじつけの手法
    ...6日付夕刊に、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任だった富山真順氏の語を新証言と銘打ち、 「3月20日に軍が17才未満の少年らを非常招集して2個の手榴弾を配り、兵器軍曹が『いいか、敵に遭遇したら、一個で攻撃せよ。捕虜となる恐れがあるときは、残り一個で自決せよ』と命じた」と報じた。この記事は、平成2年3月に出版された渡嘉敷村の『村史通史編』に収載され、これを執筆した安仁屋政昭沖縄国際大学教授は、手榴弾が軍の厳重な管理のもとに置かれた武器であることを理由に、「これこそ『自決強要』の物的証拠というものである」と主張する。 手榴弾の配布をもって自決強要の物的証拠だとする安仁屋教授の主張は、同教授の「解釈」ないし「評価」にすぎないものを事実だと強弁するものである。つまり、手榴弾の配布は自決命令と同じことだというすりかえのレトリックを用いて、自決命令をこじつけようとしているのだ。 しか...
  • 第3・4(2)エ(キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計
    ...い。 また,渡嘉敷村資料館には,赤松大尉の陸軍士官学校卒業時の恩賜の時計や第三戦隊の軍医の遺品が,記念品として飾られている。これも,赤松大尉が自決命令を出していたとすればあり得ないことである。 戻る | 次へ 読める判決「集団自決」
  • 第2・2(5) (集団自決を記述した文献の存在)
    ...沖縄戦記」(座間味村渡嘉敷村戦況報告書)所収) (ウ) 「秘録 沖縄戦史」(昭和33年)山川泰邦著 (エ) 「沖縄戦史」(昭和34年)上地一史著 (オ) 「悲劇の座間味島沖縄敗戦秘録」(昭和43年)下谷修久著 (カ) 「秘録 沖縄戦記」(昭和44年)・山川泰邦著 (キ) 「沖縄県史 第8巻」(昭和46年)琉球政府編集 (ク) 「沖縄県史 第10巻」(昭和49年)琉球政府編集 イ 渡嘉敷島について(ア) 「鉄の暴風」 (イ) 「秘録 沖縄戦史」 (ウ) 「沖縄戦史」 (エ) 「悲劇の座間味島 沖縄敗戦秘録」 (オ) 「秘録 沖縄戦記」 (カ) 「慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要」(昭和44年,「ドキュメント沖縄闘争新崎盛障」所収,以下「戦闘概要」という。) (キ) 「沖縄県史 第8巻」 (ク) 「沖縄県史 第10巻」 (ケ) 「家永第3次教科書訴訟第1審 金城重明証言」(昭和63年,「裁か...
  • 「裁かれた沖縄戦」安仁屋政昭
    ...すけれども、私自身、渡嘉敷村史の編集を担当しておりまして、1972年以来の調査で言いましても、20年近い調査活動をやっている中で、曽野綾子さんの説をくつがえすだけの反証は出てきております。先ほど申し上げました通り、兵事主任という役割は、大きな役割だと言いましたが、兵事主任の証言を得ているということは、決定的であります。これは、赤松部隊から、米軍の上陸前に手流弾を渡されて、いざというときには、これで自決しろ、と命令を出しているわけですから、それが自決命令でないと言われるのであれば、これはもう言葉をもてあそんでいるとしか言いようがないわけです。命令は明らかに出ているということですね。 ―――その、兵事主任の証言というのは、渡嘉敷村史に収録されているということですね。 安仁屋政昭:はい、渡嘉敷村史にも収録されておりますし、私が二年か三年前に書いています地方史研究にも書いてお...
  • 2007年(平成19年)1月15日付沖縄タイムス記事
    ...力者の申し立てでは、渡嘉敷村、座間味村ともすぐに申請を行うことが可能だった。事前の調査が元で「早い時期に申請ができた」と言う。 渡嘉敷村・小嶺幸信さん 認定難、感じず 渡嘉敷村役場の援護担当だった小嶺幸信さん(78)は、当初、戦争で焼けた戸籍の整備を担当し、住民の沖縄戦での死没状況の詳細を調べた。五七年からの「戦闘協力者」の申し立てでは、書類作成を一人で担当、何百通の書類を書き上げた。 渡嘉敷村でも援護法に向けた準備は、適用の前から進められており、「五四年に役場に入った時にすでに前調査が行われていた。兵事関係の担当者が防衛隊などから話を聞いて戦況をまとめてあった」という。そのため、「『集団自決』の犠牲者を申請するとき、特に認定が難しかったという記憶はない」と振り返る。(編集委員・謝花直美) 沖縄裁判教科書関係資料
  • 赤松隊「陣中日誌」記述の変遷
    ...判対照資料 P:渡嘉敷村遺族会編 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』 比較着眼点 (1)転進命令、泛水命令、自沈命令と大町大佐の関わり (2)渡嘉敷島住民への避難命令に関する記述 (3)米軍上陸に関する現認記述 (4)「集団自決」した住民についての現認記述
  • ノムラカツヨシ「渡嘉敷島・集団自決命令」
    ...沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。  疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。  その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。(産経新聞) - 7月24日2時41分更新 私はたまたま曽野綾子先生の「ある神話の背景」を読んでいます。かつて出版された同書がすべて絶版で、古本のサイトでも在庫無く、芝の図書館で借りました。読売新聞社の「 曽野綾子選集2」、「生...
  • 沖縄裁判教科書関係資料
    ...言」 援護法の適用 渡嘉敷村ガイド 争点原資料 検定の経緯 著書と事実を歪曲されて 虐殺事例 富山証言 教科書裁判の頃 参考文献 原告側概説 特集・沖縄集団自決:虚構の軍命令 軍命令はなかったことを教える、授業実践報告服部 剛 裁判を起こした経緯 沖縄戦集団自決についての取り組み昭和史研究所 沖縄集団自決冤罪訴訟と教科書検定との関係を初めて知る方に南木隆治 2005/7/24産経新聞記事 2007/1/1「靖國応援団の歩みと皆様への感謝」南木隆治 産経新聞「正論」 再論・沖縄集団自決・良心の欠けた不誠実な弁明秦郁彦 沖縄戦の集団自決と大江氏裁判秦郁彦 沖縄集団自決をめぐる理と情秦郁彦 集団自決と検定・沖縄集会「11万人」の怪秦郁彦 集団自決と検定それでも「命令」の実証なし 曽野綾子 集団自決と検定「正確さ」犠牲にはできない八木秀次 再論・...
  • (原)第3・4(2)エ(キ) 衛生兵の派遣と恩賜の時計
    ...   また, 渡嘉敷村資料館には, 赤松大尉の陸軍士官学校卒業時の恩賜の時計や第三戦隊の軍医の遺品が, 記念品として飾られている。 これも, 赤松大尉が自決命令を出していたとすればあり得ないことである。 目次 戻る 通2-040 次へ 通巻
  • j 「家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」(安仁屋政昭編「裁かれた沖縄戦」所収)(2ha)
    ...務した経歴を持ち, 渡嘉敷村史の編集にも携わった者である。   『家永第3次教科書訴訟第1審 安仁屋政昭証言」には, 「米軍の上陸前に赤松部隊から渡嘉敷村の兵事主任に対して手榴弾が渡されておって, いざというときにはこれで自決するようにという命令を受けていたと, それから, いわゆる集団的な殺し合いのときに, 防衛隊員が手榴弾を持ち込んでいると, 集団的な殺し合いを促している事実があります。 これは厳しい実証的な検証の中で証言を得ております。 曽野綾子さんなどは, 『ある神話の背景』 という作品の中でこれを否定しているようですけれども, 兵事主任が証言をしております。 兵事主任の証言というのはかなり重要であるということを強調しておきたいと思います。」 「兵事主任という役割は, 大きな役割だと言いましたが, 兵事主任の証言を得ているということは, 決定的でありま...
  • 秦郁彦現代史家
    ...は内相から知事を経て渡嘉敷村長、巡査、ついで住民に至る系統である。 b 戒厳令が施行されなかったので、戦隊長から村長に対する法的命令権はなく、連絡、指導権しかない。米軍上陸と同時に第32軍、県庁と島との通信連絡は杜絶した。 c 戦隊と村の連絡は、兵事主任と駐在所巡査が担当。 d 戦隊は米軍上陸前日の45年3月26日、特攻出撃ないし本島への移動準備中で、急に大町大佐より出撃中止の命があり、ボートを自沈させ、27日急造の陣地へ移ったため、結果的に島の「守備隊長」として陸上戦へ移行したため、住民対策は考慮していなかった。 e 防衛隊は島在住の在郷軍人が主体で、若干の年少者(16~18才)もふくまれていた。在宅のまま戦隊、勤務隊に配属され、住民の護衛役としての戦闘任務を想定したが、戦隊の戦力とは見なされてなかった。ただし、手榴弾は渡されていた。 f 命...
  • 軍の自決命令 私は聞いた
    ...最近になって、当時、渡嘉敷村役場で兵事主任を務め、「集団自決」の際に生き残った人が「日本軍は非戦闘員の住民にも自決命令を出していた」と初めて明らかにし、インタビューに応じてその詳細を証言した。戦後四十三年、沖縄戦には、なお多くの陰が残されているようだ。間もなく六月二十三日、沖縄の日本軍壊滅の日が来る。(藪下影治朗編集委員、写真も)  一日一便、那覇への村営定期船は、渡嘉敷漁港近くの岸壁から出る。漁協二階からは、渡嘉敷地区の集落、港、そして村民のいう「玉砕場」へと続く山なみが一望できる。漁協組合長で村議の富山真順さん(72)。事前の約束を得ていたのに、その口は用意には開かなかった。 「できれば話さずにおきたい。それが本心なので……」 陸軍を負傷で除隊した富山さんは、1942年(昭和十七年)、郷里渡嘉敷村(当時の人口約千三百人)の役場に入った。軍隊に詳しいので、...
  • 源哲彦 沖縄タイムス「論壇」投稿
    ... 源哲彦 (渡嘉敷村、61歳) (前略) 住民の「集団的な殺し合い」は一夜明けた3月28日に起こっている。 この事件について重大な事実が明らかになっている。 すでに米軍上陸前に、兵事主任新城真順(戦後改正して富山)を通じて「玉砕(自決)命令」が出されていたのである。 島の住民と軍との関係を知る重要な立場にいたのが兵事主任である。 兵事主任は徴兵事務を取り扱う専任の役場職員である。  戦後、富山眞順(故人)は、軍から「自決命令」が出されていたことを明確に証言している(以下『渡嘉敷村史・通史編』。 ①1945年3月20日、赤松隊から伝令が来て兵事主任に対し渡嘉敷部落の住民を村役場に集めるよ命令した。 兵事主任は、軍の指示に従って、「17歳未満の少年と役場職員を役場の前庭に召集した」。 ②その時、兵器軍曹と呼ばれていた下士官が部下に手りゅう弾を2箱持って来さ...
  • 第3・4(1)イ(エ) 援護法適用のための捏造について
    ...当時から座間味村及ぴ渡嘉敷村当局や住民たちの共通認識となっていたから,原告らの前記主張は失当である。 また,原告梅澤及び赤松大尉の命令による集団自決は,当初から「戦闘協カ者(参加者)」に該当するものとして,援護法による補償の対象とされていた。 元大本営船舶参謀であり,復員後に厚生事務官となった馬淵新治は,「住民処理の状況」(乙36)において,援護法の適用の対象となる「戦闘協力者(参加者)」に該当するものとして,「慶良間群島の集団自決 軍によつて作戦遂行を理由に自決を強要されたとする本事例は,特殊の[ケース]であるが,沖縄における離島の悲劇である。自決者座間味村155名渡嘉敷村103名」を挙げている(乙36・43頁)。 昭和32年5月の「戦斗参加者概況表」(乙39の5)においても,「座間味島及び渡嘉敷島における隊長命令による集団自決」が,戦闘参加者の20類型の1...
  • f 「戦闘概要」(昭和44年,新崎盛暉「ドキュメント沖縄闘争」所収)(ha)
    ...日,太平洋戦争当時の渡嘉敷村村長や役所職員,防衛隊長らの協カのもと,渡嘉敷村遺族会が編集したもので,新崎盛暉「ドキュメント沖縄閾争」に転載,収録されている。 「戦闘概要」には, 「同年三月二七日午後,赤松隊長より,当時の村長と駐在巡査を通じて、住民は各自の壕を後にし,指定された西山の友軍陣地北方に集合せよとの命令伝達されたので,各自の壕を後にし,指定された西山軍陣地北方に集結した。同年三月二八日,午前一○時頃,部隊より住民二○名に対し,一個ずつの手留弾が渡され,午後一時頃皇國の万才と日本の必勝を祈り,一せいに玉砕した。」 との記載のほか, 「昭和二○年三月二七日,夕刻駐在巡査安里喜順を通じ住民は一人残らず西山の友軍陣地北方の盆地へ集合命令が伝えられた。」 「間もなく兵事主任新城真順をして住民の集結場所に連絡せしめたのであるが,赤松隊長は意外にも住...
  • l その他(ha)
    ...。 例えぱ,渡嘉敷村の役場職員であった吉川勇助は,陳述書に,軍の陣地から防衛隊員が「伝令」と大声で叫びながら古波蔵村長のもとへやってきて,何事かを告げ,その後古波蔵村長が「天皇陛下万歳」と三唱して自決が始まった旨記載し,沖縄タイムスの取材に対して,軍から離脱した防衛隊員が軍の強要により自決した旨供述している(乙67,70の1ないし3)。 戻る | 次へ 第4・5(2) 集団自決に関する文献等 読める判決「集団自決」
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