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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か2

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渡嘉敷島の惨劇は果して神話か―曽野綾子氏に反論する―2

太田良博
昭和四十八年七月十一日から同七月二十五日まで
琉球新報朝刊に連載
『太田良博著作集3』p171-175
目次


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【引用者註】自決命令と住民処刑について

『ある神話の背景』では、渡嘉敷島に関するいくつかの戦記がほとんど『鉄の暴風』の中の第二章「集団自決」のひき写しであることが念入りに例証されている。『鉄の暴風』の渡嘉敷戦記の部分が、直接体験者でない人から取材した伝聞証拠によるものである点をあげ、その信憑性が疑われている。だが、この場合、逆の見方も成り立つ。たとえば、直接体験者(遺族会)の記録である『渡嘉敷島の戦闘概要』が『鉄の暴風』をまねているというなら、それは表現を借用したというだけの話で、『鉄の暴風』の記述が大体においてまちがいないことの有力な証拠にさえなりうる。

問題は軍が自決命令を出したかどうかだが、『ある神話の背景』では、赤松証言に基づ
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いてその事実はなかったという判断に傾いている。

この点について、私は次の疑問だけを述べておく。なぜ、戦闘必須の兵器である手榴弾が多数住民の手に渡っていたか。もし防衛隊員(正規兵といえない)の手から流れたというなら、一人の防衛隊員が妻に会いに行ったぐらいで処刑するような軍隊が、兵器の管理をなぜ怠ったか。理由なく手榴弾(あの場合は重要兵器)を住民に渡す行為こそ罰せらるべきである。

手榴弾は軍が渡したのではなかったか。第二の疑問は、赤松の本隊から離れた場所にいた住民は生存者が多く、本隊近くに集まった住民、本隊に近接して行動した住民に犠牲者が多かった事実である。

それから、集団自決の生き残り金城重明氏の手記にはっきり自決命令があったことをみとめている点である。金城氏は、現在、牧師である。集団自決の体験を一生の十字架として牧師になった人である。その言葉は、「神に誓った言葉」であるはずである。クリスチャンである『ある神話の背景』の作者は、金城氏のこの言葉については何も述べていない。むしろ、そこを素通りしている。ただ、赤松元大尉の自決命令否定をおもくみている。

住民を殺害して、今日なお自分の行為はまちがっていなかったとする加害者の言葉が、「被害の罪」を背負って神に仕える信仰者の言葉よりも信頼がおけるのだろうか。火のな
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い所に煙は立たないという。当時、少年だった金城氏は、自決命令の「煙の部分」をたしかにみたのだろう。(座問味島では軍の自決命令が確認されている)。

集団自決について赤松戦隊員だった一人は、実に不愉快なことを述べている。「軍が命令を出していないということを隊員があらゆる角度から証言したとなると、遺族の受けられる年金がさしとめられるようなことになるといけないと思ったから、我々は黙っていた」

それから住民処刑についても、『ある神話の背景』は、いろいろ弁護しているが、その中でこれも不愉快に感じたのは、次の点である。赤松隊の陣中日誌中の伊江島女性処刑に関する記述に、「日本人としての自決を勧告す。女子、自決を諾し、斬首を希望、自決を幇助す」とある部分を、作者が、元法務官だったという人の意見などを参考に、「その場合の赤松隊側の責任は、一般刑法による自殺幇助に該当するという」などと述べて納得した形になっているくだりである。

物事の本質に対する解釈が、右のような弁護に傾き、自殺を強制し、殺す殺人行為を自殺帯助として疑わないようにみえるのは、いささか、意外である。敵に通報されるかも知れないとの脅迫観念からか、赤松の戦隊本部の位置を知った住民はいずれも処刑されている。

このことから逆に類推すると、赤松の陣地に保護を求めてきた住民たちの集団自決は、伊江島女性に対する「自殺幇助」と同性質のもので、そのハシリだったのかも知れない。
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「悪においても、善においても、それほどに完壁だというものは、この世にめったにあり得ない」とする作者が、赤松隊の行動のなにからなにまで弁護しようとする態度には、頭をかしげざるをえない。

ついに住民処刑の弁護は、「人一人殺したものでないと、なにごともわからないのではないか」という見方に発展する。

陸軍の特攻艇は、『ある神話の背景』に書いてあるような「必死兵器」ではなかった。事実、馬天沖や嘉手納沖で爆雷攻撃を実施した戦隊はいずれも半数以上が生還している。「必死兵器」でなかったことが、のちの出撃中止と微妙にからんでいる。「決死」(必死ではない)を「生きる可能性」の方へ転換させる心理的動機が、そこにかくされているような気がする。そして、「決死のつもりのエリート意識」が、住民に死を強要するようになる。そして、本人たちは生き残る。昭和二十年八月十五日(終戦)をさかいに、それまで狂気の行動をとった彼らは、初めて自らの都合のよい論理のミノにかくれる(詔勅で武器を捨てたのだから降伏ではなかった)。どころか、立派な軍隊だったことを強調する。『ある神話の背景』によると、「赤松隊が終戦を確認したのは、八月二十一日付で軍情報隊長、塚本保次大佐からの書簡が届けられて来たからであった」とある。ところが、赤松隊では、その三日前から降伏準備をしていた。同隊陣中日誌には、八月十九日、戦死者の遺骨を集
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めたり、附近から石をひろったりしている(高校野球の甲子園の土を連想する)。

八月二十日は兵器を処分している。「終戦の確認」を待ち切れずに、郷里に帰れるのだと、兵器を捨てて、小学生のようにいそいそと降伏準備をする敗残兵たち(敗残兵の規定には理由がある)。――自分らが島に残した行動の歴史的意味を知らないで―。

金城重明氏は戦争被害者としてこの体験を十字架として生きているが、『ある神話の背景』の作者は、赤松戦隊員にかかわって、贖罪の十字架を負っているのだろうか。

しかし、赤松隊の加害者たち自身に、人間としての、戦争に対する深い反省がないとすれば、そのことに、ほんとの問題がひそんでいるような気がするのである。
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