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毒おむすび渡された

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毒おむすび渡された 県議会議長、沖縄戦体験を語る

琉球新報2007.6.21


【写真】「歴史は正しく語り継がなければ」と強調する仲里利信県議会議長=南風原町の自宅

 「弟が目の前で死んでも悲しんでいる余裕さえもなかった。父も沖縄戦で死んだ。歴史を風化させないために正しく語り継いでいかなければならない」。22日の県議会意見書可決を前に、仲里利信議長(70)が自身の沖縄戦体験について告白し、全会一致への決意を新たにした。仲里議長は19日の県議会文教厚生委員会でも戦争の現実を訴えた。

 1945年2月の夜、通信隊に入っていた父・利吉さんが、ふいに現れた。「今度の戦は負け戦に間違いない。ここにいると駄目だから、すぐにやんばるに行け」。父が手配していた友軍(日本軍)の車で家族9人、宜野座へ避難した。

 海からの艦砲射撃が激しくなった4、5月ごろ、ガマに移動した。200人ほどが入れる大きなガマだった。そこは「スパイがはびこってる」「あの人もそう」とたくさんのうわさが飛び交い、険悪な空気が流れていた。

 その中で3歳の妹と同じ年のいとこが泣きじゃくった。しばらくして3人の日本兵が来て、「この子たちが泣いてると、敵に発見されてみんな殺される。これを食べさせろ」と毒の入った白いおむすびを持ってきた。家族みんなで話し合ったが、すぐに「家族は一緒だ。食べさせられんさー」と全員でガマを出た。

 その後はガマや墓に隠れたが、家族壕を掘るために、弟を背負い、母と3人で山に向かった。ようやく壕が完成し、残りの家族を迎えに行こうと山を下りていくと、2、300メートル先に14、5人の米兵の姿を見つけ、一目散に山へ戻った。

 後は別れた家族を捜して、何も口にせずに何日も山を歩いた。母の母乳も出なくなり、弟が弱っていった。恩納村、宜野座と回り、金武で残りの家族と再会できたが、そこにも食糧はなく、弟は満1歳で衰弱死した。「(1年前の)生まれた日の生まれた時間だ」と母が静かに言った。死体は金武に埋めて、戦後掘りに行ったが、捜しきれなかった。

 自身の体験と重ね合わせながら仲里議長は「歴史を風化させたら、また戦争への道を歩んでしまう」と危機感を募らせる。「平和を願う気持ちは全県民一緒だよ。この問題は保守革新も関係ない。県議会も全会一致でまとめることに重みがある」。仲里議長の静かな口調に強い決意がにじんだ。(深沢友紀)

(6/21 9:50)
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