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鉄の暴風・悲劇の離島・集団自決

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鉄の暴風―沖縄戦記
第2章 悲劇の離島
一 集団自決
1950年8月15日 初版発行
1993年7月15日 第10版第1刷発行
2001年9月13日 第10版第3刷発行
沖縄タイムス社


第2章 悲劇の離島

一 集団自決

1


設営隊の球一六七〇部隊(約一個大隊、兵員一千人)が引揚げてから、慶良間列島の渡嘉敷島には、陸士出身の若い赤松大尉を隊長とする、海上特攻隊百三十人と、整備兵百二十人、島内の青壮年で組織された防衛隊員七十人、設営隊転進後配備された朝鮮人軍夫約二千人、それに通信隊員若干名が駐屯していた。この劣勢な戦力に、男女青年団、婦人会、翼賛壮年団員などが参加した。三月二十五日、未明、阿波連岬、渡嘉敷の西海岸、座間味島方面に、はじめて艦砲がうち込まれ同日、慶良間列島中の阿嘉島に、米軍が上陸した。これが沖縄戦における最初の上陸であった。

渡嘉敷島の入江や谷深くに舟艇をかくして、待機していた日本軍の船舶特攻隊は急遼出撃準備をした。米軍の斥候らしいものが、トカクシ山と阿波連山に、みとめられた日の朝まだき、艦砲の音をききつつ、午前四時、防衛隊員協力の下に、渡嘉敷から五十隻、阿波連から三十隻の舟艇がおろされた。それにエンジンを収りつけ、大型爆弾を二発宛抱えた人間魚雷の特攻隊員が一人ずつ乗り込んだ。赤松隊長もこの特攻隊を指揮して、米艦に突入することになっていた。ところが、隊長は陣地の壕深く潜んで動こうともしなかった。出撃時間は、刻々に経過していく。赤松の陣地に連絡兵がさし向けられたが、彼は、「もう遅い、かえって企図が暴露するばかりだ」という理由で出撃中止を命じた。舟艇は彼の命令で爆破された。明らかにこの「行きて帰らざる」決死行を拒否したのである。特攻隊員たちは出撃の機会を失い、切歯掘腕したが、中には、ひそかに出撃の希望をつなごうとして舟艇を残したのもいた。それも夜明けと共に空襲されて全滅し、完全に彼らは本来の任務をとかれてしまった。翌二十六日の午前六時頃、米軍の一部が渡嘉敷島の阿波連、トカクシ、渡嘉敷の各海岸に上陸した。住民はいち早く各部落の待避壕に避難し、守備軍は、渡嘉敷島の西北端、恩納河原附近の西山A高地に移動したが、移動完了とともに赤松大尉は、島の駐在巡査を通じて、部落民に対し「住民は捕虜になる怖れがある。軍が保護してやるから、すぐ西山A高地の軍陣地に避難集結せよ」と、命令を発した。さらに、住民に対する赤松大尉の伝言として「米軍が来たら、軍民ともに戦って玉砕しよう」ということも駐在巡査から伝えられた。

軍が避難しろという、西山A高地の一帯、恩納河原附近は、いざという時に最も安全だと折紙をつけられた要害の地で、住民もそれを知っていた。

住民は喜んで軍の指示にしたがい、その日の夕刻までに、大半は避難を終え軍陣地附近に集結した。ところが赤松大尉は、軍の壕入口に立ちはだかって「住民はこの壕に入るぺからず」と厳しく身を構え、住民達をにらみつけていた。あっけにとられた住民達は、すごすごと高地の麓の恩納河原に下り、思い思いに、自然の洞窟を利用したり、山蔭や、谷底の深みや、岩石の硬い谷川の附近に、竹をきって仮小屋をつくった。

その翌日、再び、赤松大尉から、意外な命令が出された。「住民は、速やかに、軍陣地附近を去り、渡嘉敷に避難しろ」と言い出したのである。渡嘉敷には既に米軍が上陸している。それに二十八日には、米軍上陸地点においては、迫撃砲による物凄い集団射撃が行われていた。渡嘉敷方面は、迫撃砲の射撃があって危険地帯であるとの理由で、村の代表たちは、恩納河原に踏みとどまることを極力主張した。

同じ日に、恩納河原に避難中の住民に対して、思い掛けぬ自決命令が赤松からもたらされた。
「こと、ここに至っては、全島民、皇国の万歳と、日本の必勝を祈って、自決せよ。軍は最後の一兵まで戦い、米軍に出血を強いてから、全員玉砕する」というのである。

この悲壮な、自決命令が赤松から伝えられたのは、米軍が沖縄列島海域に侵攻してから、わずかに五日目だった。米軍の迫撃砲による攻撃は、西山A高地の日本軍陣地に迫り、恩納河原の住民区も脅威下にさらされそうになった。いよいよあらゆる客観情勢が、のっぴきならぬものとなった。迫撃砲が吠えだした。最後まで戦うと言った、日本軍の陣地からは、一発の応射もなく安全な地下壕から、谷底に追いやられた住民の、危険は刻々に迫ってきた。住民たちは死場所を選んで、各親族同士が一塊りになって、集まった。手榴弾を手にした族長や、家長が「みんな、笑って死のう」と悲壮な声を絞って叫んだ。一発の手榴弾の周囲に、二、三十人が集まった。

住民には自決用として、三十二発の手榴弾が渡されていたが、更にこのときのために、二十発増加された。

手榴弾は、あちこちで爆発した。轟然たる不気味な響音は、次々と谷間に、こだました。瞬時にして、――男、女、老人、子供、嬰児の肉四散し、阿修羅の如き、阿鼻叫喚の光景が、くりひろげられた。死にそこなった者は、互いに根棒で、うち合ったり、剃刀で、自らの頸部を切ったり、鍬で、親しいものの頭を、叩き割ったりして、世にも恐ろしい状景が、あっちの集団でも、こっちの集団でも、同時に起り、恩納河原の谷川の水は、ために血にそまっていた。

古波蔵村長も一家親族を率いて、最期の場にのぞんだ。手榴弾の栓を抜いたがどうしても爆発しなかった、彼は自決を、思いとどまった。そのうち米軍の迫撃砲弾が飛んできて、生き残ったものは混乱状態におち入り、自決を決意していた人たちの間に、統制が失われてしまった。そのとき死んだのが三百二十九人、そのほかに迫撃砲を喰った戦死者が三十二人であった。手榴弾の不発で、死をまぬかれたのが、渡嘉敷部落が百二十六人、阿波連部落が二百三人、前島部落民が七人であった。

この恨みの地、恩納河原を、今でも島の人たちは玉砕場と称している。かつて可愛い鹿たちが島の幽邃*1な森をぬけて、おどおどとした目つきで、水を呑みに降り、或は軽快に駈け廻ったこの辺り、恩納河原の谷間は、かくして血にそめられ、住民にとっては、永遠に忘れることのできない恨みの地となったのである。

恩納河原の自決のとき、島の駐在巡査も一緒だったが、彼は、「自分は住民の最期を見とどけて、軍に報告してから死ぬ」といって遂に自決しなかった。日本軍が降伏してから解ったことだが、彼らが西山A高地に陣地を移した翌二十七日、地下壕内において将校会議を開いたがそのとき、赤松大尉は「持久戦は必至である、軍としては最後の一兵まで戦いたい、まず非戦闘員をいさぎよく自決させ、われわれ軍人は島に残った凡ゆる食糧を確保して、持久態勢をととのえ、上陸軍と一戦を交えねぱならぬ。事態はこの島に住むすぺての人間に死を要求している」ということを主張した。これを聞いた副官の知念少尉(沖縄出身)は悲憤のあまり、働突し、軍籍にある身を痛嘆した。

恩納河原の集団自決で志を得なかった、渡嘉敷村長は、途方に暮れてしまったが、軍陣地に行った。村民も知らず知らずのうちに、また軍陣地の近くに蝟集していた。赤松は村民の騒々しい声を耳にして再び壕から姿を現わし「ここは軍陣地だ、村民が集まるところではない、陣地が暴露するぞ」と荒々しくどなりつけた。しかたなく住民は、日本軍陣地をはなれて谷底に降り、三日間飲まず喰わずでさ迷った。乾パンや生米を噛り、赤子には生米を噛んで、その汁を与えたりした。水だけ飲むこともあった。張りつめていた気力が、急に体から抜け、山峡の道を歩む足はふらふらと浮いていた。迷い歩いたあげく、住民はふたたびもとの恩納河原に集結した。無意識のうちにみんなの足がそこに向いて行った。あの忌わしい自決の場所、しかしそこには食糧がいくらか残つていることを誰も知つていたから村民はそこで一応解散した。その頃列島海峡には、飛行艇約百五十隻が常駐、駆逐艦二隻、艦載機二〇機ばかりを搭載した小型空母一隻が周辺に屯していた。巡洋艦は時々、夕刻にやつてきて食糧を補給したりして、直ぐどこかへ引返した。輸送船は絶えず海峡に出入していた。とにかく大小の艦船総数約三〇隻が、慶良間海峡には常時碇泊していた。艦隊は、昼間は海峡に碇泊して戦闘準備をしたり、本島攻撃に出たりするが、夜間は日本の特攻機を避けて、大型艦船はどこかへ忽然と消えて行った。昼間海峡の艦船からはレコード音楽が拡声機を通じてはっきりと流れてくる。小高い所からは通信兵の手旗信号が望められる位の近距離にあつた。細長い沖縄本島の遥か残波岬から、喜屋武岬に至る対岸は、舷を列ねた鉄の浮城に囲繞されている。そして本島攻撃の艦砲の音は数秒おきに轟いて、この小さい島を揺るがせていた。四月一日頃、渡嘉敷島に上陸していた一部米軍は一応撤退し、それからは毎日、午後になると舟艇二、三隻でどこかの海岸に上陸し、島の様子を偵察しては即日引揚げるのだった。

そのころから渡嘉敷島住民は漸く平穏を取りもどした。空襲もなかった。弾も落ちなかった。米軍からしばし放任されていたのである。しかし死にまさる住民の困苦は降伏の日までつづいた。住民はいよいよ飢餓線上を、さまよわねばならなくなったのである。

それに、米軍に占領された国頭の伊江島から、伊江島住民が二千余人、渡嘉敷島の東端の高地に、米軍艦によって送られて来た。島の農作物は忽ちにして喰いつくされ、人々は野草や、海草や、貝類を、あさって食べるようになった。その間赤松大尉からは独断的な命令が次々と出された。四月十五日、住民食糧の五〇%を、軍に供出せよという、食糧の強制徴発命令があり、違反者は銃殺に処すという罰則が伝えられた。

住民の食糧の半分はかくして、防衛隊員や朝鮮人軍夫等により陣地に持ち運ばれた。

日本軍は食糧の徴発命令のほかに、家畜類の捕獲、屠殺を禁じ、これも違反者は銃殺刑に処す、ということであった。


ある日のこと、既に捕虜になっていた伊江島住民の中から、若い女五人に、男一人が米軍から選ばれて、赤松の陣地に降伏勧告状を持っていくことになった。彼らは渡嘉敷村民とは隔絶されていたため島の内情がわからない。それで白昼堂々と白旗をかかげて、海岸づたいに赤松の陣地に向った。彼らは日本軍陣地につくと直ちに捕縛されて各自一つずつ穴を掘ることを命ぜられた。それがすむと、後手にしばられて、穴を前にして端坐させられた。赤松は彼らの処刑を命じて、自らは壕の中にはいってしまった。日本刀を抜き放った一人の下土官が「言いのこすことはないか」と聞いた。彼らは力なく首を横に振った。三人の女が、歌を、うたわせてくれと言った。「よし、歌え」と言いおわらぬうちに女たちは荘重な「海ゆかば」の曲をうたった。この若い男女六人は遂に帰らなかった。

それから渡嘉敷島の住民で、十五、六歳の少年二人が日本軍によって銃殺された。二人の少年は思納河原の玉砕のときに、負傷し、人事不省に陥ったが、のちに意識を取りもどして、彷徨しているうちに、米軍にとらわれ、降伏勧告のために赤松の陣地にやられたのが、運のつきであった。彼らは、自決の場所から逃げ出したという理由と、米軍に投降し、米軍に意を通じたという理由で処刑されたのである。

その他防衡隊員七人が命令違反のかどで斬られ、また島尻郡豊見城村出身の渡嘉敷国民学校訓導大城徳安は注意人物というので、陣地にひっぱられて、斬首された。

日本軍の将校をのぞいては、島におるものは、兵も、民も、やせさらばえて、全神経を食物に集中するようになっていた。老人たちは、栄養失調でつぎつぎにたおれた。また食糧をあさって山野をさまよっているうちに、日本軍の斬込みに備えて、米軍が、山中の所々に、敷設した地雷に、ふれて死ぬものも少なからずいた。その間、舟艇を爆破されて、特攻出撃の機会を失っていた決死隊の少尉達は、赤松隊長と離れてそれぞれ別行動をとり、五、六人宛の決死隊を組んで独断で、ときどき上陸してくる、米軍の監視兵のところに、斬込みに行ったりして、地雷にふれ、迫撃砲の餌食となって相ついで戦死した。

こんな状態が七月*2までつづいた。住民の食生活はいよいよ苦しくなった。じりじりと死の深淵に追いやられていくのを、坐視するに忍びず、遂に島の有志たちは集団投降の決意を固めて、十三日には七十人ばかりの住民が投降した。

それから渡嘉敷村長が米軍の指示に従い村民を壕から誘い出して、どしどし投降させた。

七月*3十五日、米軍機から日本軍陣地の上空にビラが散布された。それにはポツダム宣言の要旨が述ぺられ、降伏は、矢尽き、刀折れたるものの取るべく賢明な途だ、という意味のことが書かれてあった。十七日には、防衛隊員が全部米軍に降伏し、十九日に到って初めて、日本軍は山の陣地を降りた。知念少尉が軍使として先頭に立ち、次いで赤松大尉以下が武装して米軍指定の場所に向った。彼は蒼白な顔をしていたが態度はあくまでも鷹揚だった。

渡嘉敷国民学校跡で、渡嘉敷島の日本軍と、米軍との、降伏に関する最後の会談がなされた。その会談には、民間側からは只一人、国民学校の宇久校長が参席した。会談中、赤松大尉は、通訳のもどかしさを叱りつけたりした。会談は終った。日本軍の部隊降伏と武装解除ということになった。降伏式は、紳士的な方法で行われた。一人一人が武器を差し出して米軍に渡した。

かくして、本島作戦と切離されていた渡嘉敷島戦線は、独特の様相と、経過を示しつつ、沖縄島の降伏におくれること一カ月近くの七月*4十九日に終幕した。


2


渡嘉敷島とともに座間味島は慶良間列島戦域における、沖縄戦最初の米軍上陸地である。

座間味島駐屯の将兵は約一千人余、一九四四年九月二十日に來島したもので、その中には、十二隻の舟艇を有する百人近くの爆雷特幹隊がいて、隊長は梅沢少佐、守備隊長は東京出身の小沢少佐だった。海上特攻用の舟艇は、座間味島に十二隻、阿嘉島に七、八隻あったが、いずれも遂に出撃しなかった。その他に、島の青壮年百人ばかりが防衛隊として守備にあたっていた。米軍上陸の前日、軍は忠魂碑前の広場に住民をあつめ、玉砕を命じた。しかし、住民が広場に集まってきた、ちようどその時、附近に艦砲弾が落ちたので、みな退散してしまったが、村長初め役場吏員、学校教員の一部やその家族は、ほとんど各自の壕で手榴弾を抱いて自決した。その数五十二人である。

この自決のほか、砲弾の犠牲になったり、スパイの嫌疑をかけられて日本兵に殺されたりしたものを合せて、座間味島の犠牲者は約二百人である。日本軍は、米兵が上陸した頃、二、三ヶ所歩哨戦を演じたことはあったが、最後まで山中の陣地にこもり、遂に全員投降した。


二 運命の刳舟

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注釈

*1 ゆうすい:(景色などの)静かで奥深い・こと(さま)。

*2 八月

*3 八月

*4 八月