これもdeli氏の投稿。阿羅健一(畠中秀夫)著書からの引用
虐殺は嘘4 真人間の証言2
2006/ 7/ 4 23:58 [ No.10554 / 12087 ]
投稿者 :
deliciousicecoffee
大阪毎日新聞 五島広作記者の証言
――第六師団は北支で感謝状をもらってないから、中支で残虐行為をやったと言う人もいますが・・・・。
「はじめて聞いた話です。第六師団でそんなことはありませんでした。先ほどの話同様、谷中将が処刑されてからの作り話でしょう。戦後、中国の言い分に合わせた話がよく作られています」
―― 南京陥落後の第六師団の行動はどうでした?
「十三日、十四日は城内掃蕩で、残虐行為などありません」
(中略)
―― 五島さんはいつまで南京にいましたか。
「翌年の一月十日頃までいました。
この間、南京のあちこちに行きましたが、虐殺といわれることは見ていません。
また、強姦もあったといわれますが、すでに慰安所ができてましたから、戦後いわれていることは嘘です。(後略)」
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とにかく、包囲殲滅=皆殺しが「作戦」だったわけですから、如何に残虐なことでもそれは立派な戦闘行為で「残虐行為ではない」、というのが現地指揮官と報道任務者の意識だったのです。
また、「すでに慰安所ができてましたから」「強姦はなかった」というのは、強姦を減らそうと慰安所建設を稟議していた参謀達の会話を反映していたにすぎません。
「『南京事件』日本人48人の証言」p61によれば、五島広作氏はいつも師団司令部にいる記者様だったようです。
南京城内の、表には人っ子一人いない市街の民家の中で、小隊、分隊ごとの掃蕩作戦によって何が行なわれていたか、五島氏は知ろうともしなかったのです。
日中戦争当時は、従軍記者は高級軍属のような待遇だったのでしょうか。「軍馬一体」という言葉がありますが、この場合は「軍紙一体」ともいえましょうか。
――五島さんは第六師団のどの辺で従軍取材していましたか。
「いつも師団司令部にいました。北支に行く時から一緒だったので、谷師団長にかわいがられまして、作戦会議もみておけ、と谷中将の命令で藤原武参謀が呼びにくることもあり
ました」 |
軍の威光に忠実に従えば高級軍属待遇ですが、五島記者にも、絶対的な軍命令の報道規制という焼きはキッチリと入れられています。
『南京事件の真相』(熊本第六師団戦記)より
未検閲記事は銃殺だぞ
藤原武情報主任少佐参謀が出発直前に、熊本駅長室に従軍記者代表として、大毎記者五島を命令受領に呼び出す。
「五島、わが六師団はいよいよ出発征途にのぼるが、オレが情報主任参謀としていっさいの報道関係の責任者だ。従軍記者諸君に伝えろ。よいか、軍に不利な報道は原則としていっさい書いてはいかん。現地では許可された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は即時内地送還だぞ。記事検閲を原則とし、とくに軍機の秘密事項を書き送った奴は戦時陸軍刑法で銃殺だ」
というわけで絶対的な軍命令の報道規制で、報道の自由どころか自由な従軍記事報道は許されない。
「銃殺」の厳命で三すくみにふるえあがるようにして、司令部とともに、二等車に乗って乗船地門司へ行く。
(P191~P192)
ゆうさんのサイトよりhttp://www.geocities.jp/yu77799/houdoukisei.html
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なお五島広作氏は、田中明、田中正明、東中野修道各氏よりもずっと前に南京事件否定の論陣をはった、否定派の先駆けと言われています。「『南京事件』日本人48人の証言」p59~阿羅健一氏の説明によれば、
南京攻略戦に従事した記者の中で、戦後、南京事件について最も積極的に証言したのは五島広作氏であろう。その代表は、昭和三十九年に発行された「南京作戦の真相―熊本六師団戦記」である。この本は、第六師団が昭和十二年八月に動員され、北支で戦った後、十一月には杭州湾に上陸し、南京まで攻めのぼった半年の記録を、当時第六師団の参謀長であった下野一雀大佐が講述したものである。下野参謀長の講述のほか、谷師団長が南京獄中で書いた申弁書、五島氏の従軍記などが収められており、五島氏が編集・出版した。
第六師団の谷寿夫師団長は、戦後、南京で虐殺事件の責任者として処刑された。下野参謀長は谷師団長の女房役であり、五島記者は従軍中、谷師団長にかわいがられ、ずっとそばにいた人である・谷師団長を最も知る二人が、谷中将と第六師団の名誉のためにこの本を出版したのである。
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そもそも五島広作記者は大阪毎日新聞熊本支局の記者で、熊本在の第六師団の奮戦記を書くために従軍したそうです。五島氏は阿羅が会ったときが79歳(阿羅がいつあったか不明?という立派な『証言集』のなかで)だったそうだ。
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