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東京日日新聞・佐藤振壽カメラマン

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否定論の根拠に「『南京事件』日本人48人の証言」から、佐藤振壽氏の『証言』が引用されています。

虐殺は嘘3 真人間の証言1

2006/ 7/ 4 0:36 [ No.10497 / 12087 ]
投稿者 :
deliciousicecoffee

東京日日新聞 佐藤振寿カメラマンの証言

―― 南京城内の様子はどうでした?

「十三日はまだ戦闘があって、中国兵があちこちにいて危険でしたが、城内はおだやかでした。(略)」

―― 十四日はどうでした?

「(略)
 もうこの日は難民区の近くの通りでラーメン屋が開いており、日本兵が十銭を払って食べていました。
それと十四日頃は中国人の略奪が続いて、中山路を机を運んでいる中国人や、店の戸をこじあけ手を差し込んで盗んでいる中国人もいました。
この日も一部ではまだ中国兵との戦いは続いてました。(略)」

―― 十六日はどうでした?
「(略)
 十六日は中山路で難民区から便衣隊を摘出しているのを見て、写真を撮ってます。
中山通りいっぱいになりましてね、頭が坊主のものとか、ひたいに帽子の跡があって日に焼けているものとか、はっきり兵士と分かる者を摘出してました。
髪の長い中国人は市民とみなされてました。」

―― 虐殺があったといわれてますが・・・・。

「見てません。虐殺があったといわれてますが、十六、七日頃になると、小さい通りだけでなく、大通りにも店が出てました。
また、多くの中国人が日の丸の腕章をつけて日本兵のところに集まってましたから、とても残虐行為があったとは信じられません。」

―― 南京事件を聞いたのはいつですか。

「戦後です。アメリカ軍が来てからですから、昭和二十一年か二十二年頃だったと思いますが、NHKに『真相箱』という番組があって、ここで南京虐殺があったと聞いたのがはじめてだったと思います。
たまたま聞いてましてね。テーマ音楽にチャイコフスキーの交響曲が流れた後、機関銃の音キャーと叫ぶ市民の声があって、ナレーターが、南京で虐殺がありました、というのですよ。これを聞いてびっくりしましてね。嘘つけ、とまわりの人にいった記憶があります。

 十年ほど前にも朝日新聞が『中国の旅』という連載で、南京では虐殺があったといって中国人の話を掲載しましたが、その頃、日本には南京を見た人が何人もいる訳です。
何故日本人に聞かないで、あの様な都合よく嘘を載せるのかと思いました。当時南京にいた人は誰もあの話を信じてないでしょう。(略)」
  • これは阿羅健一(こと畠中秀夫)氏の常で、いつインタビューしたものか日時不詳です。「文庫化にあたって」では、昭和59年から61年年にかけて連絡をとった、といってます。

deliciousicecoffee氏の引用には(略)が多すぎるので、もう少しまともな引用を捜して見ましたが、これでも、結構詳しい引用のようでした。

以下にゆうさんが引用した、佐藤振壽氏が書いた文章を紹介します。全く上とは印象が違うものです。http://www.geocities.jp/yu77799/satou.html

佐藤振壽氏『従軍とは歩くこと』


 そんな時、連絡員の一人が励志社の先の方で、何かやっていると知らせて来た。何事かよくわからなかったが、カメラ持参で真相を見極めようと出かけた。

 行った先は大きな門構えで、両側に歩哨小屋があったので、とりあえず、その全景を撮った。

 中へ入ってみると兵営のような建物の前の庭に、敗残兵だろうか百人くらいが後ろ手に縛られて坐らされている。彼らの前には五メートル平方、深さ三メートルくらいの穴が、二つ掘られていた。

 右の穴の日本兵は中国軍の小銃を使っていた。中国兵を穴の縁にひざまずかせて、後頭部に銃口を当てて引き金を引く。発射と同時にまるで軽業でもやっているように、一回転して穴の底へ死体となって落ちていった。

 左の穴は上半身を裸にし、着剣した銃を構えた日本兵が「ツギッ!」と声をかけて、座っている敗残兵を引き立てて歩かせ、穴に近づくと「エイッ!」という気合いのかかった大声を発し、やにわに背中を突き刺した。中国兵はその勢いで穴の中へ落下する。

 たまたま穴の方へ歩かされていた一人の中国兵が、いきなり向きを変えて全力疾走で逃走を試みた。気づいた日本兵は、素早く小銃を構えて射殺したが、筆者から一メートルも離れていない後方からの射撃だったので銃弾が耳もとをかすめ、危険このうえもない一瞬だった。

 銃殺や刺殺を実行していた兵隊の顔はひきつり、常人の顔とは思えなかった。緊張の極に達していて、狂気の世界にいるようだつた。戦場で敵を殺すのは、殺さなければ自分が殺されるという強制された条件下にあるが、無抵抗で武器を持たない人聞を殺すには、自己の精神を狂気すれすれにまで高めないと、殺せないのだろう。



 後で仲間にこの時のことを話すと、「カメラマンとしてどうして写真を撮らなかったか」と反問された「写真を撮っていたら、恐らくこっちも殺されていたよ」と答えることしかできなかった。

 写真を撮ったが、その門の上には「駐軍八十八師司令部」の文字が読みとれる。さらに営門の両側の哨舎のうち、右の哨舎には「伊佐部隊・棚橋部隊」、左の哨舎には歩哨の陰になっているが「棚OO、捕虜収容所、歯獲品集積所」という文字が読める。

 「駐軍八十八師司令部」の白いレリーフの文字は黒色に塗られていた。その下には横長に「青天白日」のデザインがレリーフになっている。八十八師といえば、中国軍の中でも蒋介石直轄の精鋭部隊として知られていた。

 ところで、八十八師の営門の哨舎に書かれている「伊佐部隊・棚橋部隊」とは、上海戦で勇戦し感状を受けた第九師団歩兵第七聯隊第三大隊の通称である。

(中略)


 八十八師の営門を入り営庭を過ぎてソ連製の飛行機があったのだから、あそこは城内の故宮飛行場ではなかったろうかと思っている。



第十六師団だけの入城式

 十二月十五日中山門占領から二日たった。南京城内には、まだ敗残兵がいるらしい。それでも難民区に沿った中山北路を行くと、難民区の中から牧師らしい服装をした中国人が出て来た。軍人とは違った服を着ていたせいか、筆者に英語で話しかけて来た。その言うところは、「ここは紅卍会の難民区だから、日本兵は立ち入らぬように・・・・」と言うのだった。

 難民区の周辺には、生活力のたくましい中国人たちが、もう露店を出している。白地に梅干しを書いたような日の丸の腕章を左腕につけて、筆者の撮影にも無関心だった。自分の畑で収穫したらしい野菜を売る者、中古の衣類を売る者、鮫子入りのスープを売る者など。

 通りかかった日本兵に「兵隊さん、鮫子を食べないか、食べたらお金を払ってね」と声をかける。この兵隊は気安く歩兵銃を肩に負い直して、中国人の女が差し出したドンブリを手にした。私は箸を持って水鮫子を食べだしたところを写真に撮った。

 このあたりでは、子供も日本兵を恐れる様子は見せなかった。




中国の女に泣きつかれる

 十二月十六日は晴天だった。社の車を使えたので、南京住民の姿をルポするために市内を走り回った。そして南京城外北東部にある玄武湖の風景写真を撮ったりした帰途、難民区近くを通りかかると、何やら人だかりがして騒々しい。そして大勢の中国の女が、私の乗った車に駆け寄って来た。車を止めると助手台の窓から身を車の中に乗り入れ、口々に何か懇願するような言葉を発しているが、中国語が判らないからその意味は理解できない。しかし、それらの言葉のトーンで何か助けを求めていることだけはわかった。

 彼女たちの群れを避けて、中山路へ出ると多数の中国人が列をなしている。難民区の中にまぎれこみ一般市民と閉じ服装していた敗残兵を連行しているという。憲兵に尋ねると、その数五、六千名だろうと答えたので、撮った写真の説明にその数を書いた。

(「南京戦史資料集2」P610)


阿羅健一氏は、聞き取りの相手にしきりと「当時、南京事件という言葉をきいたか」「虐殺を見たか」と聞いています。しかし、いくら聞いても答えはノーに決まっています。日本軍は「包囲殲滅戦」という皆殺しを行なったのであり、被害者側からみると虐殺にしか見えないものも、加害者側から見ると「戦闘行為」かその延長でしかないのです。

佐藤振壽氏経歴

経歴については、「従軍とは歩くこと」の最後に下記のように記されています。

『南京戦史資料集II』P641
佐藤振壽略歴
・大正二年二月二十日生 東京都出身
・昭和七年二月、東京日日新聞社(現毎日新聞社)入社 写真部勤務。
・昭和二十年九月より十三年二月まで、日中戦争上海・南京戦線に従軍取材。
・昭和十四年二月より十一月まで、南支方面部隊に従軍取材。
・昭和十六年十月、病気のため退社。
・昭和十七年一月、財団法人写真協会入社、カメラ雑誌「報道写真」編集部勤務。
・昭和二十五年九月、GHQ・CIEより民主化教育用視聴覚教材の制作などを検修のため、ガリオア資金により渡米。
・昭和二十九年五月、政府広報グラフ誌「写真広報」編集に携わる。
・昭和三十六年五月、時事通信社政府広報グラフ誌「フォト」編集部勤務。
・昭和四十年五月、時事画報独立、「フォト」編集長となる。
・昭和五十四年十一月、時事画報退社、在社中より写真評論、写真技術などを執筆、現在に至る。

http://t-t-japan.com/bbs2/c-board.cgi?cmd=ntr;tree=3319;id=sikousakugo#3330

2005年8月、「百人斬り」訴訟東京地裁判決における、佐藤振壽氏関連の証拠と証言。

http://www.geocities.jp/pipopipo555jp/han/part/p-045.htm

http://jijitu.gaou.net/sato_shogen.html




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