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浮かび上がる靖国の思想

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世界 SEKAI 2007.7
特集:「沖縄戦」とは何だったのか

浮かび上がる「靖国」の思想

教科書修正の背後にあるもの
高橋哲哉
聞き手=編集部
たかはし・てつや
1956年生まれ。東京大学大学院総合分化研究科教授。哲学専攻。
著書に『戦後責任論』『靖国問題』など


  • 三月三〇日、来年度から便用される高校の歴史教科書の検定結果が文部科学省から公表されました。その中で大きな注目を集め、特に沖縄に大きな怒りと衝撃を与えたのは、沖縄戦における「集団自決」に日本軍が関与していたという記述が消されたことでした。

  • たとえぱある申請図書の記述は、当初は「日本軍によって壕を追い出され、あるいは集団自決に追い込まれた住民もあった」となっていたのに対して、「沖縄戦の実態について誤解する恐れのある表現である」という検定意見がつき、その結果、「日本軍に壕を追い出されたり、自決した住民もいた」という記述に変えられました。つまり「集団自決」には日本軍は関与していなかったという形になったのです。

  • なぜ修正させたか、記者が問いただしたところ、文部科学省が出してきたのは「沖縄戦における集団自決に関する主な著作物等」という資料でした。1には一九五〇年から二〇〇二年までの二〇点の著作が挙げられ、2には、「沖縄集団自決冤罪訴訟」として、岩波書店と大江健三郎氏が二〇〇五年に、座間味島の元守備隊長らに訴えられた裁判が入っていたのです。

  • この「冤罪訴訟」というのは原告側だけが使っている呼び方で(もともと原告が罰せられたわけでもなく、「冤罪」という言葉自体間違っていますが)、係争中の裁判の一方の主張にのみ基づいて教科書の記述を修正させるのはおかしいと、直ちに岩波書店と大江健三郎氏は連名で抗議の声明を出しました。これは国会でも問題になり、伊吹文科大臣も、「不適切な表現だった」と謝っています。

  • 沖縄県では、仲井眞県知事が、「削除・修正は遺憾」(四月二〇日)と述べ、豊見城市議会や那覇市議会、糸満市議会や南風原町議会などが修正撤回の意見書を挙げていますし、当の座間味村議会、渡嘉敷村議会も検定意見撤回の意見書を可決する見通しです。「冤罪訴訟」などという言葉がこんな形で出てくること自体、考えられないほど杜撰だし、文部行政に異常なことが起きているのではないかと思います。

  • この裁判を起こした人たちの背後には、「新しい教科書をつくる会」とか、「靖国応援団」とか、「自由主義史観研究会」とかがいて、その人たちの目標は、「従軍慰安婦」と同様、沖縄の「集団自決」に対する軍の強制の記述を、あらゆる文献から消していくことです。教科書の修正は、裁判での決着以前に目的の一部を達成したことになるのかもしれません。

  • この問題の本質は一体何なのか。高橋さんのお考えをお聞きしたいと風います。

今回の検定がもつ意味


高橋  歴史教科書の検定については、これまでも問題が起きてきました。沖縄戦についても、決して今回が初めてではない。私の知る限りでは、一九八二年に申請本にあった住民虐穀の記述が検定で全面削除されたことがありました。そのときには、沖縄総ぐるみの厳しい批判が発せられ、抗議運動が高まり、記述が復活する形になりました。沖縄戦の実態を子供たちに知らせたくないという流れはそのころからあったと思います。そして当時も、背後には自民党などによる偏向教科書キャンペーンがありました。

  「集団自決」が問題になったのは、八○年代の半ばから九〇年代にかけて家永裁判の第三次訴訟においてです。このときに問題になった検定では、文部省はむしろ「集団自決」に触れるこどを求めた。住民被害の中でも最も大きかったのが「集団自決」だから、沖縄戦の実態を知らせるにはこれを入れるべきだというわけです。

  今回の検定は、一見それと矛盾するように見えますが、実は一貫しているど見るべきでしょう。というのは、家永訴訟で問題になった文部省推薦の「集団自決」というのは、防衛庁戦史叢書にいう「崇高な自己犠牲の精神」の発露として、自ら死を選んだどいう意味だからです。「自決」という言葉には明らかにそういう意味があるので、それを教科書に入れたかったわけです。

  今回も、「日本軍によって強いられたもの」という性格を消したわけで、「集団自決」そのものを消したわけではない。日本軍による強制性は消したいが「集団自決」はむしろ入れたい。一貫しているのは、控えめに言えば、日本軍の責任を消したい、国の戦争責任を消したいどいうことであり、もっと強く言えば、住民が国に殉じる死、自ら選んだ「崇高な自己犠牲の精神」による死であることを教えたいというこどです。「集団自決」を「殉国美談」として子供たちに教えていくことまで考えているのではないか。少なくとも背後の政治的な動きには、そういう意図があるだろうと私は思っています。

  裁判について言えば、これが「自由主義史観研究会」などの歴史修正主義運動とつながっていることは明白ですね。九〇年代に「慰安婦」問題を最大の焦点として、教科書の戦後史の記述を「自虐史観」と非難し、歴史の書き換えを主張してきた人たちが、「沖縄戦プロジェクト」を組んで裁判を提起した。それをこともあろうに文科省が検定の根拠として利用したということです。

  「慰安婦」問題に関して教科書の記述を後退させることに成功し、かつ自分たちの教科書を検定に合格させることにも成功したグループがここに厳然と絡んでいる。これは八二年のときにも、家永訴訟のときにもなかったことで、今日のネオナショナリズムの一つの特徴です。一部の研究者や文化人が旗振り役となり、教員や市民が加わった「下からの」運動が、特定のメディアと結びついて大々的なキャンペーンを展開して、世論に影響を与えてきた。政府文科省の権力的検定に対する学者文化人市民の抵抗という図式はもはや成り立ちません。

  もう一つは、実際の政治の流れです。これは最終的に憲法九条の改定を目指して進んでいます。安倍首相は自分の「任期中」に改憲をめざすと宣言し、いまや今年七月の参議院選挙で争点にして、一昨年に自民党が公表した「新憲法草案」に従って改憲を訴えるとまで言っている。教育基本法は「改正」され、今国会で国民投票法も成立した。改憲に向かう流れが一挙にスピードァップしてきているわけです。今回の検定はこの流れと結びつけて考えなければ、その重大な意味を見逃すことになってしまうでしょう。

  • 安倍首相自身が、「新しい教科書をつくる会」と同じような歴史観を持っています。

高橋  安倍政権は小泉政権とも違う。歴史観に関するかぎり日本の極右勢力が政権をジャックしてしまったのが実態ですね。安倍首相は首相である以上、従来の政府見解との整合性を図らなければいけないし、持論をそのまま出したのでは、日中、日韓、それどころか日米関係までうまくいかなくなることはわかっているでしょうから、そこまでは踏み切れない。しかし、全面展開できないだけで、小出しにはしていますし、その代わりに周りでいろいろな人たちが動いている。

  「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」――いまは「若手」が取れて「議員の会」になっていますが、この関係の議員が首相の周りを固めていて、NHKの番組改鼠事件に絡んだような人たちが政権をとっている。このことの深刻さは、いくら強調してもし過ぎることはないだろうと思います。彼らとしては、権力をとっているうちにやれるだけのことはやってしまおうと考えても決して不思議はない。それは歴史観というソフトの面だけではなくて、憲法九条改定に至る軍事化の道、ハードの面を含めてそう考えているはずです。

九条改定・日本の軍事化を支えるための国民意識の養成


高橋  安倍政権が公然と打ち出している憲法九条改定への流れと、沖縄戦の歴史記述の問題が不可分に結びついていると考えるゆえんをお語ししたいと思います。

  憲法九条の改定は日本の保守勢力、自民党にとっては結党以来の宿願であって、いまに始まったことではないけれども、とりわけ冷戦終結後、一九九〇年代後半以降、日米安保の再定義が進められる中で現実味を帯びてきました。現在は米軍のグローバルな戦略に基づく再編にともない、在日米軍の再編と自衛隊をどうするかが問題になっていて、憲法九条の改定が最終的な法的総仕上げになる。それは自衛隊が自衛軍という名の新しい日本軍になって、自衛のためとか、国際平和を維持するためとかを理由にして武力行使をしていく、いわゆる戦争ができる国になっていくということです。

  憲法九条の改定を待たずに、すでに実質的にはかなりのことが行なわれてしまっている。度重なる自衛隊法改正、有事法制の整備、防衛庁の省昇格、そして集団的自衛権の行使についても、今回、政府解釈変更のための懇談会を安倍首相に近いメンバーだけでつくってしまった。

  こうして軍事力行使の解禁に向けて基盤と決意を固めてきているときに為政者が考えることは、実際にそれを国策として選択したときに、日本社会がどこまでそれに耐えられるか、とくに国民の意識がどこまでそれに耐えられるか。ひいては、どこまでそれを進んで支持し、協力してくれるかということです。そのためにはまず戦後六〇年、いわゆる平和憲法のもとで「平和」に慣らされてきた国民の意識――この「平和」が沖縄には存在しなかったことを忘れてはなりません――を変えなければいけない、ということになる。

  かつての大日本帝国の戦争は、靖国神社と忠君愛国の教育が二つの柱となってつくり上げた「国民精神」に支えられていました。靖国どいう宗教(これは宗教ではないど言われた宗教ですが)と、教育勅語による忠君愛国の教育です。この二つは完全にリンクしていて、国の危機には命を捨てても天皇と国家のために尽くせどいう教育勅語の教えを文字通りに実行すると、靖国の英霊になる。国民教育の教えに最も忠実に生きて死んだ国民最高の模範が靖国の英霊であるから、だれもがいざとなったら彼らを見倣って天皇と国家のために命を捧げる、こういう形で日本軍の戦争が支えられたと思うのです。

  このシステムが敗戦で一たん解体された。憲法と教育基本法――安倍首相のいう「戦後レジーム」が、軍と靖国と愛国心教育の復活をぎりぎりのところで阻んできていました。ところがこのシステムがいま、新たな装いのもとで再び立ち上がろうとしている。

復活する「戦争する国」日本の装置


  憲法九条の改定は、「自衛軍」という名の日本軍の復活です。今度はかつてのような「皇軍」とは行かず、米軍とますます一体化が進む中での、実質的にはアメリカ大統領の指揮下に入る「日米同盟」下での日本軍の復活ですね。そして、それを自衛軍の兵士と国民の意識のレベルで支える装置として、新たに靖国を「使いたい」という政治的意志が見えてきている。小泉首相の六回に及ぶ参拝はある意味で「実績」をつくったわけです。自民党の新憲法草案には九条の改定案とセットのように、憲法二〇条の改定案が入っている。靖国をまた「使いたい」からこそ、参拝しても違憲と言わせないための改憲案が出てくる。さらに去年の八・一五参拝の前後から、靖国国営化論が再浮上してきたわけです。中川秀直議員(当時、自民党政調会長、現幹事長)や古賀誠議員(日本遺族会会長)など有力な議員が、靖国神社を非宗教法人化しようと発言し、麻生太郎外相が最も詳しい国営化案を公表しました。麻生案は、天皇参拝の復活を目標として、靖国を「本来の在り方」に戻す必要があるというものです。私はこの国営化論が靖国問題の最も危険なシナリオだど思っています。

  一方、教育基本法「改正」はすでに現実化し、「愛国心」が教育の目標として掲げられました。新憲法草案の中では、前文に「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」という文言が入っている。これは改正教基法の文言よりもはるかに踏み込んだ規定になっています。ここから「自己犠性」という表現まではほんの一歩にすぎない。新しい日本軍が軍事力を行使するときには当然、戦死者が出ることが想定されている。そうなったときに、戦死者の死を、自ら国を支え守る愛国心、あるいは国民の責務の発露として顕彰し、讃えていく。そうしなければ、「戦争する国」は成り立たないと考えているはずなのです。  これを「戦前回帰」だと言えば、そんなことはないだろう、まさか昔のような軍国主義や総力戦体制が現代社会で復活するはずはない、と多くの人は思うでしょう。私自身、かつてのような軍国主義や総力戦体制の復活を想像することは難しい。これはあくまで、九〇年代後半から出てきた「日米同盟」のグローバル化、日米安保の再定義の延長上で、米軍と日本の「自衛軍」が一体化して行なう新たな「戦争」に向けた動きなのです。

  かつての日本の戦争の記憶の中で、そういう国民意識をつくっていくために最も都合の悪いものは沖縄戦です。日本軍が沖縄の自国民に銃を向け、住民を死に追いやった。軍は国民を全く守らなかったどころか犠牲にした。この記憶ほど、新たに軍を立ち上げ、それを支える国民意識をつくっていきたい為政者にとって邪魔になるものはない。可能な限り、この記憶を消し去り、都合のよい別の物語にとって代えておきたい。たとえば「集団自決」。それは日本軍によって強いられたものであるどころか、住民が自ら国のために、まさに「自らの帰属する国を支え守る」という覚悟で選んだ殉国の死であり、「美しい」死である。これは「冤罪訴訟」の原告準備書面の中で、曽野綾子さんの『ある神話の背景』から、ある軍人の言葉として引用されている言葉ですね。

  正確に引用すると、

  「私が不思議に思うのは、そうして国に殉じるという美しい心で死んだ人たちのことを、何故、戦後になって、あれは命令で強制されたものだ、というような言い方をして、その死の清らかさをおとしめてしまうのか。私にはそのことが理解できません」。

  • そうです。そして原告は、それに対して「けだし当然である」ど結んでいます。

高橋  この「殉国」のための「美しく清らかな」死という思想は、「靖国」の思想にほかなりません。沖縄戦民間人戦死者の靖国化、沖縄戦の記憶の靖国化が企てられているわけです。

「命どぅ宝」対「靖国思想」


  • 沖縄の人たちの戦後思想のコアは、「命どう宝」、命こそ宝だというものでした。沖縄戦では、殉国とか、美しい死とか、玉砕とかという言葉にかなりの人間たちが引きずられた。しかし、それは戦争の現実、日本軍の行動の現実の前では、全くの虚構であった。「命こそ宝」という言葉は、国の言う「美しい言葉」のレトリックにはもう引っかからないぞという宣言でもあったと思います。

高橋  沖縄県護国神社には、沖縄戦の住民戦死者が祀られていますね。靖国に祀られている人を祀っているからだど恩いますけれども、そのシステム自体に問題があったと思います。そもそも援護法の第一条には、「国家補償の精神に基づき」と書いてあるけれども、民間人には国家補償は行なわれてこなかった。補償の対象になったのは、軍と雇用関係があるか、協力関係にあった人々でした。つまり国家補償と言っても、軍に尽くした、国に貢献したという論理によっているわけですね。そういう形で取り込んでいって、さらに靖国に合祀する形でその死を顕彰する。本来、民間人への「国家補償」と言うなら、国家に貢献したということではなく、国家の起こした戦争で被害を受けたという意味でこそ補償すべきであったと思います。

  「集団自決」の問題に戻れぱ、裁判では隊長たちの命令がいつどのような形であったかが問題になっていますが、そのことと軍命があったかどうかという問題とは別ですし、明らかに住民は軍命があったと意識していた。兵事主任とか、助役とか行政の人たちはそれを前提として動いていた。またそれまでの皇民化教育もあり、沖縄戦に入ってからは、米軍の上陸前に第三二軍牛島司令官の方針として、「軍官民の共生共死一体化」ということが言われていました。「集団自決」は、まさに日本軍によって「軍官民の共生共死」意識が要求された中で起こったことです。

細部への疑義から全体の否定へ


  • 慶良間列島の集団自決について、隊長命令があったか、なかったかというのは、戦争全体の中では極めて具体的で細部の問題ですし、しかも六〇年前のことで関係者も多くが亡くなっている。大体日本軍から軍官民共生共死方針が出ていた以上、大きな意味での軍命があったのは明らかです。それを細部を捉えて疑義を呈し、全体の構造を否定してしまおうという論法は、ホロコースト否定論や従軍慰安婦否定論と非常によく似ていると思います。

高橋  細部から全体が崩れるということは、場合によってはたしかにあり得るわけです。細部の議論がしっかりしたものであれば、蟻の一穴じゃないけれども、そこから全体が崩れるということはあり得なくはない。

  しかし、今回の問題にしても、ホロコーストや「慰安婦」をめぐる否定論にしても、細部をつつくことによって、いかにも全体が怪しいかのように見せかけるという形になっている。たとえば「慰安婦」問題では、中国やインドネシアでは、はっきりと軍が直接に連行したケースが確認されていますし、問題の本質は、本人の意思に反して性的な奉仕を強制させられたということなのに、連行の証拠が発見されていないと主張することで、日本軍に責任がないかのような、あるいは軍が関与していなかったかのような印象をつくり出そうとしているわけです。

  また、文科省が今回の検定意見の理由の一つとして、裁判で原告側の元部隊長が隊長命令の存在を否定していることを持ち出していることは、一見中立的にも見えます。二つの説が対立して争っている、どちらとも断定できない、だから一方の印象を強めるような記述は書くべきではない、と。しかし、これは形式的な中立論です。それならホロコーストにしても、否定する人はいるし、裁判にもなっているわけで、係争中だから書けないというのであれば、ホロコーストも教科書には書けなくなってしまいます。学界の通説や多数の文献でサポートされている議論まで書くなというのは明らかに行き過ぎで、そういう意味で、文科省は残念ながら歴史修正主義の議論・手法に乗ってしまっているんじゃないかと思います。

  裁判を起こすだけでも世論に対して、「そうか、争いがあるのか」とか、「どっちもどっちだ」とか、「どっちとも言えないね」とか、そう思わせる効果があるわけですね。そのことが現在の政治的な流れを支えるような効果を持っているとしたら、それを見逃すわけにはいかないでしょう。

「美しい国」の正体


高橋  安倍首相は『美しい国へ』の中で、「国家のためにすすんで身を投じた人たち」に対して「尊崇の念」をあらわすべきだ、たしかに自分の命は大切だけれども、「ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ」と言っています。「美しい国」とは、ただ自然や文化の問題だけではなくて、そういう「美しい」死、死ぬ覚悟のある国民によって支えられる国だと言いたいのでしょう。靖国参拝に関して、「国に殉じた人々に尊崇の念をあらわすことは指導者の責務だ」という発言にも同じものが流れています。九条を変えて、自衛隊を軍にしていくという政治の流れの中で、戦死を美化し、国に殉ずるという言い方を政治家が公然と語るようになっている。この国の首相はいま、国のために命をなげうつことを国民に向って要求しているのだということをはっきりと知る必要があります。

  福沢諭吉に「戦死者も大祭典を挙行すべし」という文章があります。日清戦争、台湾戦争が終わって、戦死者がたくさん出た。凱旋して帰ってきた兵士たちは爵位勲章を与えられたり、お金をもらったりしているけれども、戦死者とその遺族に対してはほとんど何もなされていない。これでは困る。なぜかというと、次の戦争があったときに、だれも命を捨てて戦う人がいなくなってしまう。次の戦争のときに国を支えるべき兵士の精神をつくり出すためには、むしろ戦死者と遺族に最高の栄誉を与え、戦場で死ぬことを幸福に思うようにしなければいけない。最高の栄誉を与える上で決定的なことは、帝都東京の中心で天皇が臨席して戦死者の顕彰を行うことである。福沢はそこでは「靖国」とは書いていないのですが、天皇が祭主となって戦死者を顕彰する祭典を行なえば、彼らは黄泉の国で天皇に感謝するだろうし、遺族も感涙にむせぶだろうし、また一般国民もいざとなったら自分も天皇と国家のために進んで死にたいと思うだろう、と。実際、この文章が出た一ヶ月後に日清戦争の臨時大祭が靖国神社で行なわれるのです。

  為政者が戦死を「国のための」死、「美しい」死として讃えるときには、政治的意図があるわけです。その意図を見破ることが大事だと思うんです。

  いま防衛大臣の職にある久間章生氏は、かつて朝日新聞の対談で有事法制の議論に絡んでこういう発言をしたことがあります。九〇人の国民を救うために一〇人が犠牲にならなければならないとしたら、そういう判断を下すことはあり得る、と。

  私はここに為政者の本音を見るように思うのです。日本が「戦争をする国」になっていくとすれば、彼らは必ず、国民の犠牲、まずは兵士の犠牲にどこまで国民の意識が耐えられるかを考えるはずです。百人中の一〇人、つまり一割というのは恐るべき数字です。日本の人口全体から考えれば一千万人を超えてしまうし、かつての戦争でもそんな犠牲は出ていない。しかも、一割で止まる保証は全くなく、どこまでいけば犠牲が止まるのか、わからないわけです。はっきりしていることは、そのときに為政者は自分たちを必ず生き残る側、安全な側に置き、国民に犠牲を求めているというこどです。

  沖縄戦は、全くそのようにして行われたわけです。本土防衛、国体護持のために少しでも時間を稼ぐ。そのための「捨石」として沖縄が犠牲にされたのです。現在、久間防衛大臣のもとで、普天間基地移設のための名護市辺野古沖の海域調査に、沖縄県民全体を威嚇するかのように、海上自衛隊が動員されているのは偶然ではないでしょう。

  沖縄戦の記憶の改竄を許さず、沖縄を犠牲にして強化されてきた「日米軍事同盟」とは異なる道を見出さなければならないと思うのです。

  • ありがとうございました。

【聞き手・編集部 岡本厚】


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