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虐殺は嘘15に対して

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虐殺は嘘15 誰も知らなかった虐殺1 2006/ 7/16 2:27 [ No.11037 / 12177 ]
投稿者 :
deliciousicecoffee



1. 当時の南京の人口は20万しかいない

2.難民帰還で人口はむしろ急増した

3.大量虐殺された死体やそのための設備跡がない

4. 日本軍には軍事目的がなく、作戦記録もない

5.東京裁判の証言者以外に累々たる死体を見た者がいない

東京裁判で証言台に立った紅卍会許伝音副会長、ベイツ教授らは、いたるところに死体が転がっていたと証言しているが、入城した将兵、百数十名の新聞記者やカメラマンは、誰一人この光景を見ていない。15人の国際委員会の委員、5人の外国人記者はじめ、第三国人は誰一人として見ていない。ベイツ教授自身、占領3日後の時点では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が訪れたのは何よりです」と新聞記者に挨拶していた。(『東京日日新聞』昭和12年12月26日号)【注1】


6.マギー牧師が見た殺人は1人のみ

東京裁判で証言台に立ったアメリカのジョン・マギー牧師は、膨大な殺人、強盗、強姦、暴行、累々たる死体などを見たかのような証言をした。しかし、ブルックス弁護士が「殺人行為の現行犯をあなた自身はどのくらいご覧になりましたか」と反対尋問すると、答えは「1件のみです」。その1件すら歩哨に誰何(すいか)されて逃亡した者を射殺したケースだった【注2】。この場合は合法的な殺人であり、虐殺には当たらない。あとはみな伝聞あるいは想像ないし創作だった。


7.写真、映像の記録が何もない

日本軍が南京に入城してから治安が回復し、市民が安堵した表情で食糧を受け取っている写真は多数ある。これに反し、虐殺を示すと検証された写真は1枚もない。これまでに、南京での虐殺写真だとして報道されたものは、どれも偽写真や合成写真であることが明らかにされてきた。

虐殺そのものを収めた記録フィルムも全くない。専門家によって唯一実写と認められているフィルムは、マギー牧師によるもの。その中にも虐殺を思わせるシーンは全くなく、多くは戦傷者の治療風景である。

平成8年4月に開館された長崎原爆記念館ではフィルムが映写されたが、これは米国製の映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(フランク・キャプラ監督)の一部だとわかった。この映画は米国で戦意発揚のために作られた反日宣伝映画。実写ではなく、やらせであることが明らかになっている。


8. 箝口令は引かれていないのに誰も伝えていない

南京入城には、百人以上の日本人の記者やカメラマンが同行した。当時はまだ報道管制が行われていない。しかし、戦後、日本人は東京裁判で報道されるまで誰も「大虐殺」を知らなかった。見ていれば、報道しただろう。また、陥落の直後の南京には、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人が行っていた。しかし、戦後言論の自由が完全に保証されてからも、誰一人、「大虐殺」を書き記したり、発表した者がいない。


10. むしろ国際委員会からは感謝状が出た

南京落城近しというときに、英米仏独は国際委員会を作って、非戦闘員である市民を収容する安全区を作った。日本は安全区に対して中立を守るのであればこちらも中立を守ると約束し、砲撃しなかった。これに対し、ラーベ委員長は日本軍に対して、「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っている。


11. 食料を送って受領書と感謝状を受けた

難民区に20万もの人がひしめいて、食糧が不足したため、日本軍は、食料、被服等を給与して民心の安定を図った。特に、昭和13年正月には大量の食糧を送り、紅卍会支部長より受領書、感謝状が贈られている。日本から食糧をもらっている当時の写真はいっぱいある。それに対して、虐殺の写真は1枚もない。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion06b.htm

【注1】 正確には、昭和12年12月16日号

【注2】 マギーは日記に「その殺人が現実に起きたとき、われわれはそれを見ていなかった」と書いている


反論・指摘


1. 当時の南京の人口は20万しかいない

ウソ

この数字には根拠はない。

陥落直前の混乱の中では、大まかな調査さえも誰もしていない。

国際委員会が城内の避難民の数について、そのように推定していたと言うだけで、調査の上の数字ではない。

このほかに、5万前後~10万の中国守備軍の将兵、さらに城外の住民がいるので、全体の人口は誰も正確に把握していなかった。


2.難民帰還で人口はむしろ急増した

ウソ

陥落前の城内人口は不明、陥落後は25万程度であり、人口が増えたという確証はない。

しかも、2月下旬まで日本軍が城内への出入りを制限していたので、大規模な人口移動は考えにくい。

3月以降は治安が安定したので、平時の100万から25万程度に激減していた城内人口が次第に回復した。

しかし、第二次大戦中には南京戦以前の人口にまで戻ることはなかった。

http://t-t-japan.com/bbs/article/t/tohoho/2/kbdqrf/kbdqrf.html

3.大量虐殺された死体やそのための設備跡がない
ウソ、

万単位の死体は確かに存在したのであり、埋葬記録も各団体、個人によるものが残っている。




問題は原因が戦闘と捕虜・敗残兵の殺害、市民への暴行、いずれによるものか確定出来ない点と、全体の数が確定出来ない点にある。

死体は、大きな土の塚を作ってまとめて埋葬した。日本軍が処理したものでは大量に揚子江に流したものもある。

これらには当事者、目撃者の日本人、中国人の証言があり、写真も残されている。

専用の死体処理施設はなかったと思われるが、歴史上実在したとされる「大虐殺」のうち、専用の死体処理設備が確認されたものがいくつあるかを考えれば、設備の不存在が虐殺否定の根拠にはならないことは誰でも理解出来る。




4. 日本軍には軍事目的がなく、作戦記録もない

ウソ

南京攻略の目的があり、命令書もあり、戦闘記録には捕虜殺害も明記されている。

日本軍は虐殺を目的に作戦したわけではないのだから、命令書には「虐殺をせよ」とは書かれていない。

虐殺は日本軍の無計画さと組織性のなさから起きたのだ。




5.東京裁判の証言者以外に累々たる死体を見た者がいない

ウソ

詩人の西條八十は陥落直後の市内で、中国兵の死体の山や、街路の夥しい死体を見た、と、当時の雑誌に書いた。

また、第六師団長の谷中将は、当時の報告に、揚子江の岸が「河岸一面死体を以て覆われた」と、書いている。

外国人記者、在留外国人も死体を目撃した記録はある。

激戦地なので、当然死体はある。その死体がどういう理由で発生したかは別の話であって、虐殺がなかったと言いたいあまり、死体そのものがなかったというウソを言ってはいけない。

なお、ベイツの発言については、実際にどう言ったのかは不明である。

新聞記者というものは伝えたい記事に合わせて、インタビュー内容をつまみ食いして掲載するものだ、今の時代でさえそうなのだ。





東京裁判で証言台に立った紅卍会許伝音副会長、ベイツ教授らは、いたるところに死体が転がっていたと証言しているが、入城した将兵、百数十名の新聞記者やカメラマンは、誰一人この光景を見ていない。15人の国際委員会の委員、5人の外国人記者はじめ、第三国人は誰一人として見ていない。ベイツ教授自身、占領3日後の時点では「秩序ある日本軍の入城で南京に平和が訪れたのは何よりです」と新聞記者に挨拶していた。(『東京日日新聞』昭和12年12月26日号)【注1】


6.マギー牧師が見た殺人は1人のみ

殺人の現場に居合わせた、という意味では、これは本当、

しかし、事件が起きたことを知っている人間が、その事件の瞬間を目撃したとは限らない。

実際には大量殺害は主に城外に連行して行われたのであるから、城内から出られない外国人達には殺害の瞬間を目撃する機会は少なかったというだけのことだ。

また、それぞれに難民保護、治療、日本当局との交渉など多忙を極めており、街路をパトロールしていたわけでもない。

今日東京には42,000人の警察官がおり、住民300人あたりに一人の配置となっているが、事件が起きる瞬間を警察官が目撃していることはまれである。

日々けが人の治療に当たる外科医が交通事故の瞬間を目撃することは、さらにまれである。

安全区委員の数は22人であり、住民数の1/10,000であるので、単発の事件が多発したとしても、実際にその場に居合わせる可能性は低い。

直接その瞬間を見たことが少ないから、その人が知っている事実がウソだということにはならないのだ。



東京裁判で証言台に立ったアメリカのジョン・マギー牧師は、膨大な殺人、強盗、強姦、暴行、累々たる死体などを見たかのような証言をした。しかし、ブルックス弁護士が「殺人行為の現行犯をあなた自身はどのくらいご覧になりましたか」と反対尋問すると、答えは「1件のみです」。その1件すら歩哨に誰何(すいか)されて逃亡した者を射殺したケースだった【注2】。この場合は合法的な殺人であり、虐殺には当たらない。あとはみな伝聞あるいは想像ないし創作だった。


7.写真、映像の記録が何もない

ウソ

写真記録は少ないが、日本側の報道関係者や従軍者の写したものも何枚もある。

また、在留外国人の写した写真や映画も残っている。

出所不明の写真、あきらかに時代や地域の違う写真が「南京事件」の写真として用いられることがあるが、これは「南京事件」に限らず見られる現象である。

「これまでに、南京での虐殺写真だとして報道されたものは、どれも偽写真や合成写真であることが明らかにされてきた。」というのは誤りであって、全てがニセ写真や合成写真と明らかにされたという事実はない。



誤用や、合成を疑う指摘はあるが、妥当な指摘もあれば、単に杜撰な検証の結果に過ぎない場合もある。

また、市民が日本軍を歓迎している写真があるからと言って、心から歓迎していたとは限らない。

私の祖母は終戦時に大連にいたが、進駐してくるソ連軍を、皆ではらわたの煮えくりかえる思いをしながら、笑顔で赤旗を振って迎えたのだそうだ。

一般市民というのはそういうものなのだ。


日本軍が南京に入城してから治安が回復し、市民が安堵した表情で食糧を受け取っている写真は多数ある。これに反し、虐殺を示すと検証された写真は1枚もない。これまでに、南京での虐殺写真だとして報道されたものは、どれも偽写真や合成写真であることが明らかにされてきた。
虐殺そのものを収めた記録フィルムも全くない。専門家によって唯一実写と認められているフィルムは、マギー牧師によるもの。その中にも虐殺を思わせるシーンは全くなく、多くは戦傷者の治療風景である。

平成8年4月に開館された長崎原爆記念館ではフィルムが映写されたが、これは米国製の映画『ザ・バトル・オブ・チャイナ』(フランク・キャプラ監督)の一部だとわかった。この映画は米国で戦意発揚のために作られた反日宣伝映画。実写ではなく、やらせであることが明らかになっている。


8. 箝口令は引かれていないのに誰も伝えていない

ウソ

たしかに南京事件そのものへの箝口令があったわけではない。

しかし、昭和12年には新聞の報道内容を規制する通達が多数出されており、日本の大新聞は軍に批判的な記事、残虐行為の記事は書けなかった。


小説家やミニコミ紙の記事には、残虐行為について記載したものがあり、取り締まりの対象となったケースがある。

また、メモ、日記などに日本軍の残虐行為の事実、あるいはその報告があったことを伝えているものが数々存在する。


もちろん、戦後になって、自らの見聞した「虐殺」について証言したジャーナリストも何人もいる。






南京入城には、百人以上の日本人の記者やカメラマンが同行した。当時はまだ報道管制が行われていない。しかし、戦後、日本人は東京裁判で報道されるまで誰も「大虐殺」を知らなかった。見ていれば、報道しただろう。また、陥落の直後の南京には、大宅壮一、西条八十、草野心平、石川達三、林芙美子らのジャーナリストや作家・文人が行っていた。しかし、戦後言論の自由が完全に保証されてからも、誰一人、「大虐殺」を書き記したり、発表した者がいない。


10. むしろ国際委員会からは感謝状が出た

ウソ
日本軍の入城当日に書かれ、入城直後に手渡された文書には確かに「感謝」の言葉が記されている。

しかし、その次の日からは安全区委員会から発行されるのは抗議文の山であった。

「感謝状」が出た事実はない。


南京落城近しというときに、英米仏独は国際委員会を作って、非戦闘員である市民を収容する安全区を作った。日本は安全区に対して中立を守るのであればこちらも中立を守ると約束し、砲撃しなかった。これに対し、ラーベ委員長は日本軍に対して、「私どもは貴下の砲兵隊が安全地区を攻撃されなかったという美挙に対して、また同地区における中国民間人の援護に対する将来の計画につき、貴下と連絡を取り得るようになりましたことに対して感謝の意を表するものであります」との書簡を送っている。


11. 食料を送って受領書と感謝状を受けた
正確に言えば、宝塔橋地区の紅卍会支部長が、砲艦比良の艦長に対して、食料援助に対する「受取証」を渡し、そこに「艦長さんの計らいに感謝します」と書き添えたということだ。

ものを貰って感謝するのは当然の礼儀であり、これは一つの美談ではある。

しかし、20万と見られていた南京難民全体と、日本軍との間のできごとのように書くのはちょっと頂けないし、独立した「感謝状」が出たわけでもない。

「ありがとうございます」とか「感謝します」とか書かれた請求書やビジネスレターなら私もしじゅう受け取っているが、これを別に「感謝状を貰った」とは言わないのだ。




難民区に20万もの人がひしめいて、食糧が不足したため、日本軍は、食料、被服等を給与して民心の安定を図った。特に、昭和13年正月には大量の食糧を送り、紅卍会支部長より受領書、感謝状が贈られている。日本から食糧をもらっている当時の写真はいっぱいある。それに対して、虐殺の写真は1枚もない。
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion06b.htm

【注1】 正確には、昭和12年12月16日号

【注2】 マギーは日記に「その殺人が現実に起きたとき、われわれはそれを見ていなかった」と書いている

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