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原告準備書面(5)要旨2006年11月10日

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原告準備書面(5)要旨2006年11月10日





原告準備書面(5)の要旨

1 (《梅澤命令説》)


本日、原告から提出しました準備書面(5)の前半では、座間味島での集団自決に関する《梅澤命令説》という虚構を、この期に及んでもまだ押し通そうとする被告らの弁解や原告主張への反論に対する再反論を、徹底的に行っています。提出書面は50頁を超えるものですが、時間の関係上、そこから重要な部分を2点ご紹介します。

ひとつは、
「《集団自決隊長命令神話》が通説になったのは援護法適用のための方便だいうが、それでは、昭和27年施行の援護法施行以前の、昭和25年に初版が発行された『鉄の暴風』に、その神話が述べられている理由が説明つかないではないか」
という、被告らの反論への再反論です。

座間味島では、確かに援護法以前から、《隊長命令神話》が風説としてありました。それはなぜでしょうか。

住民の手記や宮村盛永氏の『自叙伝』などの資料をみますと、多くが「忠魂碑前での玉砕」に向けた集合命令を受けたことを証言しています。しかし、そこには命令の主体が書かれていません。ただ、多くの村民は、「忠魂碑前に集合し玉砕する」という命令を、軍命令と受け取り、それが後に風説のもととなったと考えられるのです。宮城晴美さんは『母の遺したもの』においてこう解説します。

「『命令は下った。忠魂碑前に集まれ』と恵達から指示を受けた住民のほとんどが、梅澤戦隊長からの命令と思った。というのも、これまで軍からの命令は防衛隊長である盛秀を通して、恵達が伝令を務めていたからある。」

宮城初枝さんが
「真実の歴史を残す為には此れから私のやるべきことが残っております。」
として原告梅澤さんに宛てた手紙の中で、
「忠魂碑前の集合は、住民にとっては軍命令と思いこんでいたのは事実でございます。」
と述べ、住民の誤解と村の方針のために虚偽に加担したことを梅澤さんに謝罪し、こう結びます。
「お許し下さいませ。すべてが戦争のでき事ですもの」
と。

真実、玉砕命令を下したのは梅澤部隊長でも軍でもありませんでした。

それを明らかにしたのが、まさに宮城初枝さんの勇気ある証言でした。その証言をもとにして娘の晴美さんが書いた『母の遺したもの』には、自決のための弾薬をもらいに行ったところ梅澤部隊長に「お帰り下さい」とはっきりと断られた助役の宮里盛秀氏らが、次にどういう決断をしたかが、こう語られています。
「その帰り道、盛秀は突然、防衛隊の部下でもある恵達に向かって『各壕を回ってみんなに忠魂碑前に集合するように……』と言った。あとに続く言葉は初枝には聞き取れなかったが『玉砕』の伝令を命じた様子だった。そして盛秀は初枝にも、役場の壕から重要書類を持ち出して忠魂碑前に運ぶよう命じた。

盛秀一人の判断というより、おそらく、収入役、学校長らとともに、事前に相談していたものと思われるが、真相はだれにもわからない。」

宮里盛秀助役が、その単独の判断か、宮平正次郎収入役及び玉城盛助国民学校長らとの協議の上での決断かは不明ですが、自らの判断を「軍の命令」ととれるかのような形で、村内に指示したというのが実態だったのです。

この点とも深く関連するのですが、2つ目の重要な原告からの再反論は、宮里盛秀助役の父親であった宮村盛永氏の『自叙伝』についての評価です。

被告らは、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令があったことを示す記述があると主張します。

しかし、きちんと読みさえすれば誰にでもわかるように、この『自叙伝』には、梅澤部隊長による自決命令はどこにも書かれていません。

逆に、宮村盛永(当時の姓は宮里)が、一族とともに玉砕する覚悟を固めていく過程が、次のとおりなまなましく記載されているのです。

「明くれば二四日午前九時からグラマン機は益々猛威を振い日中は外に出る事は不可能であった。敵の上陸寸前である事に恐怖を感じながら、此の調子だと今明日中に家族全滅するのも時間の問題であると考へたので、せめて部落に居る盛秀夫婦、直、春子らと共に部落の近辺で玉砕するのがましではないかと、家族に相談したら皆賛成であった。」

「丁度午後九時頃、直が一人でやって来て『お父さん敵は既に屋嘉比島に上陸した。明日は愈々座間味に上陸するから村の近い処で軍と共に家族全員玉砕しようではないか。』と持ちかけたので皆同意して早速部落まで夜の道を急いだ。」

この文章から明らかなように、まず一族で「玉砕」するのがましではないかと言い出したのは盛永氏であり、相談した家族は皆賛成し、玉砕の覚悟を固めて部落へと急いだのでした。「玉砕」が、軍の命令によるものではなく、むしろ住民の自然な発意がもととなっていたことがはっきり表れています。

さきほど述べました宮里盛秀氏らが発した《忠魂碑前集合玉砕命令》は、激しい戦闘のなかで追い込まれ、死を覚悟した住民の自然な発意や感情を背景にしてなされたものだったのです。

2 (《赤松命令説》)

準備書面(5)の後半部分は、渡嘉敷島での集団自決に関する《赤松命令説》の神話をいまだに主張する被告らに対する反論です。

(1)まず、はじめに。
前回の法廷で紹介した照屋昇雄さんの《人間の良心》に基づく勇気ある証言によって渡嘉敷島の神話もまた、援護法適用のための方便として村の公式見解になっていったことが明らかになりました。赤松隊長が自決命令を出したという《赤松命令説》は、すでに曽野綾子氏の『ある神話の背景』によって根拠のない神話であったことが明らかになっていますが、最後に、なぜかかる神話が、援護法適用以前に『鉄の暴風』に記述されたのかという疑問が残ります。

渡嘉敷島では、敵に包囲されて逃げ場を失い、渡嘉敷村の幹部が協議するうちに自然と玉砕するしかないという話となり、古波藏村長が音頭をとって、防衛隊が配った手榴弾などによる集団自決がなされました。そのことは『鉄の暴風』以外の多数の資料によっても確認されています。

ところが、集団自決で死なずに生き残った者もいました。生き残った者は集団自決さえしなければと死者への哀惜の念が一挙に吹き出したのです。

曽野綾子氏が『ある神話の背景』で語るところでありますが、
「本当の渡嘉敷の悲劇は、戦争が終って、出征していた兵士や島を出ていた人たちが帰って来た時に始まった。」

「生存者の中には、その立場上、事件について説明責任を免れぬ人たちもある。」
典型的な人物は古波蔵元村長でした。集団自決の音頭をとっていながら生き残った村長として、これらの責めを受けたことは当然予想されます。古波藏村長はその責め苦を少しでも軽くするために、存在しない隊長命令を主張せざるをえなかったことが推測されるのです。

琉球政府で援護業務を担当して渡嘉敷島の村民の聴き取り調査をした照屋昇雄氏は、
「古波藏村長は、住民を集めて全部死ねと言って演説もしているが」、
自己の責任を否定し、軍に責任をかぶせることに奔走した結果、村民から信用がなくなった事情を明らかにしています。

さて、今回新たに提出した重要な証拠のなかに、沖縄出身の作家上原正稔氏が記述した『沖縄戦ショウダウン』があります。上原氏は、琉球新報に「沖縄戦ショウダウン」を連載中、当時の集団自決の生き残りである金城武徳氏らを調査した結果、渡嘉敷村民の自決について、
「国のために死ぬのだ。だれも疑問はなかった。村長が立ち上がり音頭をとり、『天皇陛下万歳』と皆、両手を上げて斉唱した」
ことを確認しています。

(2)続いて、
被告らが依拠する富山証言の信用性を弾劾しています。被告らは富山証言をもとに米軍が上陸する直前の昭和20年3月20日、手榴弾を村民に配ったといいます。富山証言は第3次家永訴訟において、沖縄国際大学の安仁屋政昭氏が公に持ち出したものでありますが、日本軍の第32軍も渡嘉敷島の第3戦隊である赤松部隊も米軍が慶良間諸島を最初に攻撃することはないと考えていました。だから地上戦も予定していませんでした。安仁屋氏もそのことを明確に認めています。3月25日8時海上に敵機動部隊船影を確認するまで米軍の渡嘉敷島への上陸を全く予想していなかった赤松部隊が3月20日に米軍の上陸した場合の戦闘に備えて村の少年や役場職員に手榴弾を配布することはありえません。富山証言はデッチアゲそのものです。

(3)さらに、
『鉄の暴風』の著者太田良博氏による『ある神話の背景』批判に対する反批判を行いました。

太田氏は、著書『戦争への反省』に収録した沖縄タイムス上での論戦において『ある神話の背景』に対して縷々反論を試みています。例えば、新聞社が直接体験者でない者の伝聞証拠を採用するはずがないという建前論を述べています。しかし、これに対し、曽野氏は「新聞社の集める『直接体験者の証言』なるものの中には、どれほど不正確なものがあるか分からないとし、例えば「直接体験者の売り込みだという触れ込みの中国大陸で日本軍が毒ガスを使った証拠写真として朝日新聞が掲載した、直ちに間違いを認め撤回した例を指摘し、太田氏を「新聞は間違えないものだ、と素人のたわごとのようなことをいうべきではない。」と批判しています。太田氏は「自決命令の真相を知っている思われる2 人の人物、知念少尉と安里喜順がいるが、真相を語っているとは思われない。」としていますが、『鉄の暴風』では「地下壕内の将校会議で非戦闘員を自決させ、軍人は食糧を確保して、上陸軍と一戦を交えねばならぬ。事態はこの島に住む全ての人間に死を要求している』という赤松隊長の発言に副官知念少尉は悲憤のあまり、慟哭し、軍籍にある身を痛嘆した」と記載しています。知念氏が真相を語るはずがない、だから取材していないとしながら、知念氏の内面の葛藤まで踏み込んだ描写を知念氏自身から確認しないまま記載したことこそ、『鉄の暴風』の赤松命令説が捏造によるものであることを如実に物語っているといえます。太田氏の強弁と詭弁を交えた弁解が、自己撞着で捻転した挙げ句に破綻を来していることは明らかです。

(4)太田氏は
沖縄タイムス上での論戦において、
「あの玉砕は軍が強制したにおいがある。アメリカ兵が目撃した集団自決の資料の発見者で翻訳者である上原正稔は、近く渡米して目撃者を探すそうである」
と記載しています。その上原正稔氏こそ、先に紹介した『沖縄戦ショウダウン』の著者でした。

上原氏は、『鉄の暴風』等によって沖縄のマスコミがつくりあげた虚偽の神話に対する怒りを隠さない金城武則氏、大城良平氏、安里喜順氏、そして知念朝睦氏といった集団自決当事者たちの証言に出会い、ようやく真実に気がつきました。そして、
「われわれが真相を知ることが『人間の尊厳』を取り戻す、すなわち『おとな』になることだと信じる」
と断ったうえで、
「筆者も長い間『赤松は赤鬼だ』との先入観を拭いさることができなかったが、現地調査をして初めて人間の真実を知ることができた。」
と告白しているのです。 さらに、
「国の援護法が『住民の自決者』に適用されるためには『軍の自決命令』が不可欠であり、自分の身の証(あかし)を立てることは渡嘉敷村民に迷惑をかけることになることを赤松さんは知っていた。だからこそ一切の釈明をせず、赤松嘉次さんは世を去った」
「一人の人間をスケープゴート(いけにえ)にして『集団自決』の責任をその人間に負わせて来た沖縄の人々の責任は限りなく重い」
と結論しています。

『沖縄戦ショウダウン』の記事が沖縄の有力紙琉球新報に掲載されている意味は重大です。そのことは、沖縄の言論人にも事実を調査し、真実を見極めようという誠実な人がいること、そしてそうした沖縄でも赤松隊長命令説の虚偽が自明なものとして知られていたことを意味しているからです。

いま、上原氏の「沖縄の人々の責任は限りなく重い」という言葉に込められた沖縄の良心の叫びを、噛みしめる時が来ているのです。

以上


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