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第4 アジア大陸への侵略の兵端基地化および日本国内の食糧、労働力の供給地化

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【小目次】

第4 アジア大陸への侵略の兵站基地化および日本国内の食糧、労働力の供給地化


1 日本の朝鮮政策では、当初は、


  日本の朝鮮政策では、当初は、日本の食糧問題解決のために朝鮮における産米増殖計画などの重農政策がとられた。これが、1931年の満州事変を契機に日本の大陸侵略との関係をにらみ合わせた農工併進政策へと変わった。

2 1938年9月の第1回各道産業部長会議における南総督の訓辞は、


  1938年9月の第1回各道産業部長会議における南総督の訓辞は、戦争がはじまれば対馬海峡の航行の安全は保障されない、そこで朝鮮に食糧と工業と軍事基地をつくるとし、朝鮮総督府発行の書物(朝鮮総督府情報課編『新しき朝鮮』1944年刊)では、「満州事変がその決意を促した一の契機とすれば、支那事変こそは兵站基地朝鮮の性格と使命を明確に決定した歴史的一頁であった」と中国侵略との関係で植民地朝鮮が兵站基地として位置づけられていったことを明確にしている。

  このような朝鮮の兵站基地化政策は、中国侵略戦争、太平洋戦争への拡大とともに強化され、朝鮮人の労働力はすべて戦力として、すべての物的資源は軍需物資として収奪するという方向で、文字どおり日本の「兵站基地」として全面的に戦争に動員され犠牲にされていったのである。

3 近代の植民地は、先進国の工業化を支える役割を負わされており、


  近代の植民地は、先進国の工業化を支える役割を負わされており、植民地の経済構造は、工業原料や食糧の供給地として、あるいは工業の市場として再編されることが通常であった。

  そのため、植民地で工業を発展させることは少なく、農産物や地下資源などの限られた一次産品を生産するためのモノカルチャー経済を形成するのが普通であった。もちろん、日本が植民地とした台湾や朝鮮でも、米や砂糖などの一次産品が商品化され、その多くが日本に移出された。しかし、同時に1930年代以降、重化学工業を含む工業化政策が積極的に推進され、戦時下には植民地工業が本国の工業を補完する役割を果たすようになった。このことを捉えて、日本の植民地支配は特殊であり、欧米のような搾取を目的としたものでなく、同化政策に基づき、植民地であった台湾、朝鮮の近代化に役立ったという議論がされることがある。しかし、これは欧米と日本との植民化の歴史と資本主義発達の段階をわきまえない議論である。イギリスでは、18世紀後半に産業革命が起こり、それから1世紀おくれた19世紀末に帝国主義の時代を迎えた。つまり、欧米では、植民地化を迎えた段階ではすでに本国の工業は過剰状態にあり、あえて植民地に工業を興すメリットは少なかったのに対し、日本では資本主義化と帝国主義化が同時進行することになったため、新たに工場を建設するにあたって、原料・労働力・電力などの立地条件を考慮したうえで、本国と植民地が同等の選択肢となったからである(橋谷弘『植民地支配と戦争体制』(講座戦争と現代3 近代日本の戦争をどう見るか)174頁)。

4 戦時下の朝鮮は、日本からみると、食料(米)と労働力(人)との供出


  戦時下の朝鮮は、日本からみると、食料(米)と労働力(人)との供出の対象であった。朝鮮総督府が1939年から実施される国家総動員態勢の中で課されたのは米と労働力の日本への動員確保であった。日本の軍事力を支えるには食料 (米)の確保と軍需品の清算に必要な石炭、鉱物資源、土木工事がなくては成り立たなかった。中国民衆の抵抗によって、日本国内から送りだされた兵士の死亡率が高くなり、労働力不足が深刻になっていった。一方、朝鮮は米と労働力に余裕があるとされた。当時、朝鮮は8割が農業人口であり、米を生産する農業地帯が抱える人口から労働力を「供出」しなければならないという関係にあった。特に米の生産、労働人口の集中していたのは朝鮮南部の慶尚南北道、全羅南北道であった。米の生産では南部地域で水田の44%を占め、農家戸数の42%、農業生産額の39%以上に達していた(1938年現在)。そのた め、米の供出も労働力の供出も朝鮮南部が主力を担うこととなったのである。


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