15年戦争資料 @wiki

5 ムンティランからマゲランへ

最終更新:

pipopipo555jp

- view
メンバー限定 登録/ログイン

日本占領下インドネシアにおける慰安婦―オランダ公文書館調査報告―

山本まゆみ、ウィリアム・ブラッドリー・ホートン






5 ムンティランからマゲランへ


 複数のヨーロッパ人抑留所リーダーの記録から、1943年12月あるいは1944年1月に日本人抑留所所長、マゲラン州長、憲兵数人、在住民間日本人数人がムンティラン婦女子抑留所を訪れ、リーダーは、その際不本意ながら協力して若い女性のリストを作ったという50)。抑留所リーダーたちは、日本人が指名した若い女性の名前を書き、あとで名簿にしタイプするように依頼された。1月の上旬に、名簿に名前が載っている女性たちが事務所に呼び出され、働く意志があるかどうか聞かれた。後日、1944年1月25日に日本人は名簿を使い名前の載っている女性を抑留所内の教会へ集合させ、医者に心臓、足、目等の身体検査をさせた。外で抑留所リーダーや母親たちが待っている中、15人の若い女性が選ばれた。この15人は、荷造り用に30分の時間を与えられ、無理矢理抑留所から51)、マゲランにある将校たちの宿舎へ連れて行かれた。その後、ヨーロッパ人の抑留所運営委員は、以前スラバヤで日本人と関係があった「道徳観念に乏しい」女性達のリストを作り、若い女性の身代わりにさせた。身代わりにさせられた女性たちは、それ以降他の女性たちから「志願者」と呼ばれるようになった52)。1月28日になると、この「道徳観念に乏しい」女性たちが集められ、前回選ばれた若い女性達と共に、日本人の抑留所管理官が待機している地元の警察署へ連れて行かれ、再度選考が行われた。2人の「志願者」と2人の「選ばれた」女性が抑留所へ帰され、結局約13人の女性たちがマゲランへ送られることになった。身体検査、強姦、慰安婦として働くように強要された53)。戦犯裁判では、この件でも検察側が個々人を訴追しようとしたが、結局、十分な条件が整わず無罪に終わっている54)。

 追記すれば、これはマゲランの最初の慰安所ではなく、1942年には元ホテル数軒が慰安所になり、支配人や周旋屋としてチェコ人やスイス人も働いていたという事である55)。


目安箱バナー