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6 まとめ《浅野論文》

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る



6 まとめ



 以上、日本軍が最後まで抵抗を続け玉砕した、拉孟・騰越・ミチナの順に、各地の慰安婦達がいかに戦闘に巻き込まれ、死亡し、捕虜となっていったのかを、戦局に即しながら、資料的な制約はあるものの努めてダイナミックな変化の文脈の中で論じた。

 そもそも、本論で言及した慰安婦達の全ては、1942年の6月から7月という同じ時期に朝鮮から、軍の示唆を受け女性を集めた女衒によってビルマに連れられてきたものである。ラングーン到着後に、慰安婦達は将校のくじ引きによって、配属される部隊が決められたという54)。くじ一つでいかに千差万別の境遇の中に置かれることとなったのかは、本論のみならず、ミチナの慰安婦達と同じ船に同乗し、海沿いの国境線守備担当の第55師団に配属された、文玉珠の優れた語りの記録と共に対照させることでよりはっきりするであろう。

 本論を通じて、静態的な制度や統計分析の手法では見ることができない、慰安婦制度そのものの特異な性格が、最前線に巻き込まれた地域での戦況の中で、ほんのわずかながらでも浮きぼりにできたのではないかと考える。そもそも、公娼制度とは、前借金の返済を売春によって返済するという契約を、業者との間で対等に自らの意志で交わした女性として娼妓を位置付け、前借金はあっても業者による身体に対する強制性を伴わない売春斡旋は婦女売買とは認めないとする見解から政府が公認したものであり、その延長線上に慰安婦制度が形成されたことは確かであろう。しかし、それは単なる拡大ではない55)。それを論じようと、「強制」性の有無をめぐって、今まで様々な論争が展開されてきたわけである。しかし、いかなる過程を経て慰安婦にされたのかという出発点における強制性ばかりではなく、慰安婦達が戦場において、いかなる境遇に置かれ、その境遇は身体に対する拘束・強制性の基準から見て、どのように位置付けられるのかという視点で、前線や後方の各部隊における平時の処遇や戦時への移行も大いに研究されるべきである。その際には、現地の最末端の守備隊レベル、師団司令部レベル、方面軍レベルを分け、いかなる命令が発せられていたのか、それはいかに実行、もしくは無視されたのかを検討する必要があろう。こうした点を分析するために必要な歴史的材料は限られているが、慰安婦の生と死の瞬間を語る写真が撮影されており、それに巡り合うことができたことは不幸中の幸いともいえるのかもしれない。

 私としては更に一歩を進めて、個人の自由意志とは、総動員体制下国民徴用を必然化した統制型国家への変質とは、そして日本帝国憲法下の国民とは、植民地とは、というようなテーマの追求と併行して、より構造的な分析によって、慰安婦の方々を歴史の中に位置付けていきたいと考える。いずれにせよ、慰安婦に対する動態的かつ構造的な分析を通じて、近代から現代へと転換する東アジアの国際関係史が、より豊富な社会的広がりをもち、国際的な相互理解を促進するものへと生まれ変わってくれることを期待して止まない。


注《浅野論文》



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