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5-2 ミチナ (中国名「蜜支那」)-2

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「慰安婦」問題 調査報告・1999

雲南・ビルマ最前線におけ慰安婦たち一死者は語る



5-2 ミチナ (中国名「蜜支那」)-2



 全体を通じて、3ヶ月にわたる戦闘と、2年に及ぶ最前線勤務によって、すっかりすさんだ心理状態にキムが陥っており、朝鮮人に対する日本軍兵士や軍医達の差別が、更にそれに拍車を掛けていたことが判明するであろう。また、看護婦であるという証言を裏付ける細かい給与、作業内容に関する証言があることも確認されるだろう。

 細かい点としては、以下のような事実が分かる。第1に、日本人の看護婦達は、先に避難させられたのに、キムだけは最後まで残れと命令されたことである。しかし、実はキムはこの命令によって生き残ることが出来た。日本人看護婦を含んだであろう「婦女子60名」中、一部は5月末に脱出し、その残りは7月末に脱出したが、その際に使われたいかだのほとんどは敵に発見され、乗組員は捕虜になるか射殺された39)。またイラワジ川の下流のバーモ北方には滝と急流があり、そもそもいかだでの航行は不可能であり、バーモまで無事に到着したのは、水上少将の副官1人だけであった。しかも途中現地人の船を運良く奪うことに成功したからこそ可能となったに過ぎない。

 第2に、キムがヨネダから尋問された時、なぜ慰安婦であるというような誤解を与えてしまうほど、はっきり応えなかったのかがわかる。それは、上司の軍医から捕まったら「敵はおまえを強姦して殺すだけだ」と脅かされていて、最初捕虜となったとき、ひどくおびえていたためであった。

 第3には、写真に写っている日本兵が実はTushida中尉なのではないかということが推測される。中尉から、ミチナの将兵が脱出したかという質問を受け、それに対して答えていることから見ると、ミチナでこの会話が行われたことは明らかだ。キムが翌日にはレドに送られていることを見ると、この中尉とは写真に写っている日本兵である公算が高い。

 第4に、日本の戦争突入理由、ドイツに頼らざるを得ない戦争の帰趨、朝鮮の独立運動への展望、国際政治観などを、はっきりと答えているところをみると、教育をほとんど受けていない子供っぽい慰安婦という感じはしない。基礎的な教育を受けていればこそ、こうした関心と自分なりの世界観を有し、モノを考えていたといえよう。実態は慰安婦であるが、恐れて自分は看護婦であると身分を偽った、というような説明が成り立たないことが、この証言から分かるであろう。

 では、次にキムに遅れて1週間して捕虜となった朝鮮人慰安婦20名について、何故20名なのか、それ以外の慰安婦達はどこへ行ってしまったのかを中心に論じよう。

 現在まで公表されてきた写真では、右端の方が暗くなってみえにくくなっていたが、写真Hは、ネガからプリントしたものであるため、極めて鮮明である。右端の一番手前に座っている女性をご覧頂きたい。かなり年配で日本人の風貌をしており、更に腹に帯のようなものを巻きつけていることが分かる。恐らく、これが「キタムラトミコ」という38歳の日本女性で、慰安婦を統括してきた女衒「キタムラエイブン」の妻であると考えられる40)。また写真に映し出されている女性を数え上げてみると、丁度20名である。キタムラトミコを入れて21人となるはずであるが、1名を除いてほぼ全員が写っている。この中のどの女性を見ても、写真Gに写っているキムという名の髪の長い女性はいないことが確認される。服装を見ても、脱出用に身支度はしたであろうが、基本的には日常の服装のままであり、その服装にはキムの着ていたような、膝上のワンピースはない。

 何故、20名なのかという点であるが、尋問記録によると、そもそもミチナにいた慰安婦は63名で、3ヶ所の慰安所に分かれて生活していた。「キョウエイ」(これはかつて「丸山ハウス」と呼ばれた)に22名の朝鮮人女性、「キンスイ」に20名の朝鮮人女性、「モモヤ」に21名の中国人女性がいた41)。捕虜となった20名は、「キョウエイ」にいた慰安婦達で、その主人キタムラが1942年7月に朝鮮で、陸軍司令部の「示唆」を内々に受けつつも、表面上は「申請」という形にして、慰安婦を集める許可を得て、ビルマへと連れてきたものである42)。元々いた22名が、20名となったのは、全体の慰安婦63名中の、移動途中に死亡した4名と射殺された2名、合計6名の中に、キョウエイの慰安婦2名が含まれていたためと考えられる。8月7日の戦闘でバラバラとなった後、「モモヤ」にいた中国人慰安婦21名も1人減って、20名となったが、彼女たちは自分達で自発的に中国軍に投降した。

 残されたのは、計算上せいぜい17名となった「キンスイ」の慰安婦達であるが、彼女たちはバーモへと敗走するミチナ守備隊の後を追った。この一行は、記録には、「およそ20名」と記載され、8月19日に、後に捕虜となった日本兵によっても、その姿が目撃されている。「キョウエイ」の慰安婦達が8月10日に捕虜となった後も、「キンスイ」の慰安婦たちは、必死にミチナ守備隊の後を追っていったのである43)。この中の少なくとも2人は、バーモ近郊まで守備隊と行動を共にしている。第6中隊の森崎善喜の証言には以下のようにある44)。

 暗くなりかけた激しい雨の日だった。「兵隊さん、しっかりしろよ、バーモはもうすぐだよ」と朝鮮人の慰安婦から声をかけられた。彼女らも裸で竹の杖をついて痛々しい。脱出以来、筍で生きてきたのだ。当時数十名いた慰安婦も今はたった2名になっていた。1人は中年でもう1人は若かった。彼女の話によれば、丸山連隊長は、激戦の最中に慰安婦を自分の壕に呼び寄せていたと聞かされ、兵隊を牛馬のごとく叱咤する高級将校が何たることだと思った。ある日私が水を汲みに行く途中であった。カチン族の空き家の横で、顔一面髭の小肥りの男が、他の男を青竹で打ちのめしているのに出逢った。髭の男は丸山連隊長で、投打されているのはミッチナー駐在の一憲兵であった。理由は、連隊長愛妾の慰安婦を見捨ててきたことに激怒しての行為であった。私は真相を知り唖然とし、そして怒りを覚えたのである。

 以上の回想には、森崎がかつて目撃した所の、青竹で憲兵を打ち据える丸山連隊長の姿が、丸山連隊長の不謹慎な行為に関する慰安婦の証言によってはっきりと意味を成し、その意味を悟ったことで、激しく怒りを感じた瞬間の記憶が綴られている。丸山が「愛妾」としていたのは、河(ハ)(日本名、河原スミコ)という21歳の女性であったが、河自身はアメリカ側の尋問に対して、この丸山の不謹慎な行動は単なる噂として否定している45)。いずれにしても、慰安婦達の「贅沢ともいえる」「暮らしぶり」は、実は「キョウエイ」という丸山が特に目を懸けていた慰安婦のいる所だけであったのではないかという疑いが生まれる。他の慰安所の慰安婦は、かなり厳しい格差のある状況にあったため、嫉妬さえ生まれていて、それが「キンスイ」の慰安婦をしてこうした証言を森崎に語らせたのではないかとも考えられる。この最後の証言通り丸山が爆撃下に慰安婦を壕に呼んでいたとすれば、もしくは呼ばないまでも、特別に可愛がっていた慰安婦のいる慰安所に特別な待遇を与えていたという私の解釈が正しいとすれば、軍規の弛緩は、騰越のみならず、ミチナにおいても極まっていたというべきである。

 次に、生活環境が本当に贅沢なものであったのかどうか、ビルマ族のミチナ地区行政副長官の証言46)から検討しよう。

 ウキンナウン(U KIN NAUNG)は、日本軍占領下におけるミチナ地区の行政副長官で、タウレオ(TAW LEO)はその秘書官であった。彼らに対する尋問は、OWIの心理戦争班のスタッフであるビルフレッド・クリットル隊員によって、アレックス・ヨリチを伴い、1944年6月7日から9日にかけて行われた。ヨリチは、後に「キョウエイ」の20名の慰安婦の尋問記録を作成する人物である。現地の行政副長官の証言が行われた6月上旬は、圧倒的な連合軍の優勢が確定し、ミチナの戦いが本格化する時期であるので、戦いに際して心理戦のための情報を得る目的であったのであろう。

 この証言によると、そもそもミチナは、ビルマの典型的な普通の街ではない。主要な民族は、シャン族系のビルマ人、インド人、中国人であるが、付近の村はシャン族とカチン族によって占められていて、純粋なビルマ人が多数を占めたことはそれまで一度もないという。日本軍がミチナを占領した際には、「人食い鬼が来る」といってほとんどの人が逃げ出したが、暫くすると人々は帰ってくるようになった。しかし、女性に対する暴行や強姦はなかった。両者共に、日本軍の占領期間を通じて、1件もそのような事件があったと聞いたことはないと証言している。確かにかなりの略奪は行われたが、それもすぐに取り締まられるようになり、ビルマ独立軍兵士の行った略奪も同様に取り締まりの対象になったという。またイギリス系インド人難民は、収容施設に入れられたものの、よい待遇を受けたという。彼らには肉料理も盛り込んだ配給制度が敷かれた。そうした状況の中、日本軍の将官は、イギリス系インド人の女性達に非常に魅了されるようになり、彼女たちのために社交クラブを作ったという。しかし、出席は義務とはされず、実際そこに出席した女性に乱暴しようというような傾向もなかったので、将官と女性との間には、数多くの交流が結果として生まれたとも述べられている。そんな風にして、占領第1年目は協力的な雰囲気の下に過ぎ去り、イギリスの軍や民間人から徴発した物資により衣服や食糧の供給もあり、空襲もなかった47)。日本軍の将兵が村の子供たちと一緒に遊んだりするなど、子供たちに向けられた将兵の愛情は特に印象深かったとも語っている。兵士の平均年齢は25歳であり、故郷の弟、妹達を思い出していたことであろう。

 慰安婦達が、かなり贅沢とも思える暮らしをしたと語っているのは、恐らくこうした占領1年目の1942年、朝鮮から到着直後のことではなかったであろうか。運動会がおこなわれたのも、こうしたシャン系ビルマ族の子供たちのためだったとさえいえるかもしれない。

 しかし、こうしたのどかな風景は、戦争が長期化するにつれて大きく変わっていった。経済状態についてみると、初期にはヨーロッパ人から徴発したシャツや下着類が安いレートで売られていたり、食糧もたくさんあったが、戦争が長期化するにつれ日用品は底をついた。新しい製品は、日本から供給されるといっていたにもかかわらず、ミチナには全くやってこなかった。物価は上昇に転じ、1943年10月には、うなぎ上りであった。ごく少量の物資がラングーンに着いたというが、ミチナでは配給切符を持っていても何も買えなかったという。また日本軍は軍票を大量に発行したことも、インフレに拍車を掛けた。賢明なものは、金や宝石を秘匿するようになったという。

 また、1943年の米穀の収穫量は、通常の5分の1に激減した。その主な原因は、作付け時に労働力を徴発されたこと、耕作用の水牛が疫病の流行で死亡したり荷物運搬用に徴発されてしまったためである。インパール作戦では、水牛を連れて荷物を運ばせ山を登り、逐次食料にしていくという、「バーベキュー作戦」が牟田口司令官によって計画され、しかしながら、水牛が山を登れないため無残な失敗に終わったことは有名である。こうした水牛徴発の影響はビルマの農村に穀物高の激減となって降りかかっていたのである。十分な食糧の供給はありえない状況であった。また、南部の方では、かなり収穫の挙がったところもあったが、ミチナまで運ぶための鉄道が不通となっていたため、ミチナにおけるこの年の穀物備蓄は、連合軍の爆撃もあって1944年春には既に底をついていたという。また、芋の作付けに関しても、通常はシャン族の部落から持ち込まれる種芋が、1944年は来なかったため、前年の芋を種芋に使わざるをえず、そのためにごく少量の収穫しか挙げ得ていないという。日本の若い兵士達のほとんども、その頃は戦争に疲れているように見え、口に出して故郷に帰りたいと語るものまで出てきたという。

 連合軍による爆撃は、1943年の11月から開始されており、これが経済的混乱に更に拍車を掛け、兵士達のモラルの低下にもつながっていた。最初のうち、ビルマ人が防空壕に逃げ込むのを馬鹿にしていた日本の兵士も、爆撃が激化するにつれて一緒に駆け込むようになった。また、ビルマ人の精神的拠り所である、釈迦の骨を収めたパゴタにも日本軍の対空砲が設置されるようになった。

 こうした状況では、慰安婦達が初期と同じ贅沢な暮らしを続けることが出来たとは考えにくい。もしも仮に、一部の慰安婦が贅沢な暮らしを依然続けられたとしたら、それこそが問題であったといわざるを得ない。丸山大佐の影がちらつく。物資の全体量が欠乏し、配給制が敷かれている所では、軍票自体があまり意味を持たないはずだからである。

 しかしながら、「キョウエイ」の慰安婦達20人が、贅沢な暮らしをしていたと米軍に対して証言しているのは、どういう訳であろうか。理由としては、丸山大佐の保護によって特定の慰安婦が特別待遇を与えられていた、もしくはキタムラ夫妻から懇願されて彼らに有利な証言をした48)とも考えられるが、私は彼女達自身が自己に対する何らかのプライドを維持し自分を支えていく上で、かつて到着した直後に少し体験できたかもしれない楽な暮らしの記憶が必要とされていたという説を取りたい49)。彼女たちは、恐らく朝鮮においてさえ、今まで一度も、いわゆる贅沢な暮らしをしたことがなかったのではなかろうか。朝鮮においても惨めで貧困に追いたてられるような暮らしを長く続けてきたからこそ、到着直後に、わずかばかり享受し得た楽な暮らしぶりによって、初めて自己に対するプライドのようなものが、周囲よりも「贅沢」な暮らしができる自分として、生まれたのではないかと考える。そうした記憶が、性的な奉仕を続けさせられる毎日の生活の中で、自分を支える唯一の心理的支えとなっていったのではなかろうか。実際、ミチナにおいては、軍票による代金の支払いは行われており、キタムラトミコが写真でも見られるように腹に巻いていた帯の中には、その軍票がしまい込まれていた。それは、戦争が激化した状況においてはほとんど使えないものであったろうが、いつか再び贅沢な暮らしを可能とさせてくれるものとして大切にされていたのであろう。

 その帯にしまわれた軍票について、チャンは以下のように描写している50)。チャンと最初に面会したとき、慰安婦全員がヒステリックになって尋ねたのは、今後の行き先であった。インドの収容所に送られ、朝鮮にやがては帰れることが分かると、次の質問は軍票が使えるかどうかに移った。キタムラトミコが帯を解き、全員から預かった軍票を前に並べてみせたのに対し、チャンの部下のヒラバヤシ・グラントはチャンの内意を受け、巧みな日本語で、そのお金はもう使えないことを、心から誠意を込めて紳士的に説明した。それに対して、キタムラは全くその話を信じようともせず、不信感を持って見つめ返し、言葉もなく床上の軍票の山を指差しつつ、首を前後に振ってみせるだけであった。それを見た、ヒラバヤシは、恐らくあまりに気の毒に思ったのであろう。中国人やアメリカ人のコレクター用に、軍票の束を少し、タバコやキャンディーや食料と交換してあげることを申し出た。しかし、この申し出は、キタムラにとっては、日本軍同様のお定まりのピンはねがアメリカ式になったものとして受け取られ、それをしてあげれば残りのお金の保持を保証してもらえるものだと信じて交換に応じた。こうしたやり取りを、周りの朝鮮人の慰安婦は固唾を飲んで見守っていた。彼女たちは、後でキタムラからアメリカ式の「ピンはね」についての説明と、ピンはねされはしたが、残りのお金はもう大丈夫だとの説明を受け、あるものは安堵して笑い、あるものは泣き出してしまったという。こうしたやり取りを見ながら、チャンはこの無価値な軍票を稼ぐためどれほどの苦労をこの女の子達が堪え忍んできたのかに思いを馳せ、胸が締め付けられるようであったという51)。

 これ以後は余談となるが、ともかく、そうしたやり取りによって、日本語情報を担当する日本系や中国系のアメリカ人と、朝鮮人慰安婦達との交流は深まり、慰安婦達がいよいよインドのレドへと出発する最後のお別れの場面では、日系アメリカ人はギターを持ち出して、懐かしいアメリカや日本やハワイの歌を歌い、慰安婦達は、若者への恋心をテーマとする朝鮮の愛の歌、アリランを歌ってそれに応えたという。アリランは、本来は愛の歌ではなく、景福宮造営のための木材を運ぶ農民達が峠を越えるときの辛さを歌ったものだが、このような場面では、お別れにふさわしい愛の歌として解釈されていた。そのようなある程度社会化された男女間の親密な感情の交歓こそ、当時の彼女たちに最も必要とされていたものではなかったろうか52)。

 チャンが最初に慰安婦と対面したとき、慰安婦達の反応は様々で、ある者は反抗的、ある者は恐れと不安の態度をとったというから53)、贅沢な暮らしという評価も、個々の慰安婦ごと、まちまちだったにちがいない。個人の内面は、いくら他人が推量を巡らそうと、もとより推し量れるものではない。これは、ミチナの経済的状態に対する、ビルマ人の証言と、彼女たちの尋問記録を対比させることで、私自身の心に浮かび上がってきた、一つの理解に過ぎない。


注《浅野論文》



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