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5.居留民職業別人口統計の検討

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5.居留民職業別人口統計の検討


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■ 昭和一七年九月副官会同席上意見、質疑及回答[支那派遣軍総司令部](昭17・10・3)(未作成)

■ 昭和一七年九月副官会同席上意見、質疑及回答(追加)[支那派遣軍総司令部](昭17・9)(未作成)

■ 昭和十三年在南京総領事館蕪湖分館警察事務状況[同讐察署長報告摘録](昭13)(未作成)

  外務省が所蔵する居留民職業別人口統計と領事館警察史の中の在留邦人職業調べは、上海からはじまって華中に慰安所がひろがっていくさまをうかがうのによい資料である*1。朝鮮総督府警務局の『華中、華南、北中米居住の朝鮮人概況』(昭和15年)も重要な資料であるが、これは楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編(▼=匚の中に惟)』(遼寧民族出版社、1987年)に収録されている。上海については、昭和13年の慰安所が約24、女性数は約450人であったという数字をすでに出した。昭和17年9月のデータによると、「特種慰安所」16、酌婦数140人だとある<i>(3巻、12,20頁)</i>。なお昭和12年には朝鮮人の陸軍慰安所経営者は1名、女給が76名であった。他には外国人妾20名、密売淫20名の記述しかない<i>(1巻、462頁)</i>。

  ところで、朝鮮総督府警務局の『朝鮮人概況』によると、昭和11年末の上海の朝鮮人数は1797人であったが、13年から急増し、昭和15年には7855人に増えている。この年朝鮮人慰安所経営者は12人、朝鮮人酌婦は527人、同娼妓は17人、同芸妓は39人である*2。これだけの慰安婦は昭和17年にはどこへ行ってしまったのだろう。軍隊について南方へ移動したのだというのが唯一考えうる答えである。

■ 昭和十三年在杭州領事館警察事務状況[同讐察署長報告摘録](昭13)(未作成)

■ 杭州在留邦人営業種別並二投資額一覧表送付ノ件[在杭州領事代理](昭14.2.24)(未作成)

  上海のすぐ南の湾の奥にある杭州については、昭和13年領事館警察事務状況によれば、杭州に「軍隊慰安所」が4つあった(1巻、476頁)。さらに昭和14年2月24日付けの杭州領事代理の報告で慰安所経営者が3人あがっている。関門楼、長生楼、鶴屋の3軒である<i>(1巻、625-627頁)</i>。

  次の蘇州には昭和14年末に朝鮮人慰安婦13人がいた*3。ついで揚子江をさかのぼると、まず出てくる鎮江、揚州、丹陽については、昭和13年の慰安所数を総領事館警察事務状況が教えている、『資料集成』にはもれていて吉見資料集に人っている鎮江分署の資料で、鎮江には慰安所が8、揚州、丹陽にはそれぞれ1あった*4。揚州の慰安所は昭相13年12月末に開設されたが、軍直営で、治安維持会を通じて集めた中国人60人、内地からの30人、朝鮮半島からの20人、総勢110人の慰安婦がいたという*5。これは相当に巨大な慰安所である。

■ 衛生業務要報[第15師団軍医部](昭18・1、18・2)(未作成)

  つぎは南京であるが、ここについては、上記のデータがない。軍の第15師団軍医部の衛生業務要報の昭和18年2月の分に、南京の慰安婦「平均一日現在人員」が437人、蕪湖のそれが97人、金壇のそれが11人、鎮江のそれが39人、巣県のそれが34人、漂水のそれが10人とある。検診のべ人員を民族別に分けた数字も一緒にあるが、以下のとおりである<i>(3巻、220-221頁)</i>。

内地人 朝鮮人 中国人
南京 948人(60.9) 51人(3.3) 557人(35.8)
蕪湖 114(32.9) 93(26.9) 139(40.2)
金壇 0 19(46.3) 22(53.7)
鎮江 12(7.7) 0 143(92.3)
巣県 0 11(10.8) 91(89.2)
漂水 O 0 30(100.0)
1074(48.2) 174(7.8) 982(44.0)

  南京の437人という数から考えると、南京の軒数は20軒一23軒ぐらいであろう。南京の慰安婦は日本人、中国人がほぼ半々であるのに、蕪湖では中国人が多く、日本人は第2位におち、朝鮮人が4分の1まで増えてきている。さらにその傾向はより小さな町である金壇では中国人と朝鮮人が半々で、鎮江、巣県、漂水ではほぼ全員が中国人となっている。

■ 在留邦人人口統許職業別報告ノ件【在蕪湖副領事](昭14.4.4) ~(昭14.9.3)(未作成)

■ 常州駐屯間内務規定[独立攻城重砲兵第2大隊](昭13・3・16)(未作成)

■ 独立攻城重砲兵第二大隊第二中隊陣中日誌(昭13・3・3、11、14,16)(未作成)

■ 九江在留邦人職業別人口統計表提出ノ件[在南京総領事](昭13.11.8)(未作成)以下

■ 南昌在留邦人職業別人口統計報告ノ件【在九江領事代理](昭14.8.9)(未作成)

■ 南昌居留民職業別人口統計表【在九江日本領事館警察署南昌分署](昭14.9.1)(未作成)

■ 本邦人職業別表送付ノ件〔在漢口総領事](昭13・12・3)(未作成)

  蕪湖の在留邦人の職業については職業別人口統計がある。そこに慰安所のデータがある<i>(1巻、607-624頁)</i>。

内地人(戸数) 同(女) 朝鮮人 (戸数) 同(女)
昭和14年4月 4 50 2 26
6月 4 48 2 22
7月 4 46 2 16
8月 4 31 2 30
9月 6 32 1 30

  男は経営者で、女は「慰安婦」と考えてよい。この統計には中国人は入ってこない。昭和14年8月になると、日本人と朝鮮人はほぼ同数となっている。軍医の検査結果の数字と少し合わない、

  南京の手前、鎮江の対岸の常州には昭和12年3月に駐屯大隊の慰安所使用規定があり、かなり大きなものが1つあったようである。日華会館付属建物及び下士官、兵棟に区分されていた。単価が「支那人」、「半島人」、内地人ごとに決められていたので、ここには3種の女性がいたことはたしかである<i>(2巻、256,244頁)</i>。

  長江をさらに遡っていくと、安慶がある。ここに昭和14年朝鮮人慰安所経営者2人が知られ、朝鮮人慰安婦109人がいたことが知られる*6。さらに行くと九江があり、そこから少し南下したところに南昌という市がある。九江の領事館が南昌をも管理していた。九江の在留邦人職業別統計は昭和13年11月1日現在、14年2月1日現在、3月1日現在、4月1日現在、5月1日現在、6月1日現在、8月1日現在、9月1日現在の分が発見されている<i>(1巻、569-600頁)</i>。ここに含まれる「慰安所」と「特殊婦人」の項を整理すると、以下の通りである。

慰安所経営者戸数

内地人 朝鮮人
昭和13年11月 15 9 24
昭和14年2月 8 7 15
3月 9 10 19
4月 9 6 15
5月 11 11 22
6月 10 11 21
8月 8 5 13
9月 7 5 12

「特種婦人」「特殊婦人」数

内地人 朝鮮人 台湾人
昭和i3年11月 107 143 0
昭和14年2月 54 67 0
3月 76 123 0
4月 93 95 0
5月 125 104 0
6月 125 99 0
8月 90 68 0
9月 98 50 0

  日本人と朝鮮人の別をみると、相当に変動があることが分かる。最初は朝鮮人の方が多かったが、初夏から秋に向けて、日本人の方が多くなっている*7

  南昌については昭和14年8月1日現在と9月1日現在の分が発見されている<i>(同、601-606頁)</i>。それは以下の通りであり*8、こちらは圧倒的に朝鮮人が多い*9

「特種慰安所」経営者戸数

内地人 朝鮮人
昭和14年8月 3 8 11
9月 3 8 11

「特種婦人」数

内地人 朝鮮人
昭和14年8月 8 94
9月 11 100

  さらに長江をのぼると漢口と武昌がある。漢口に総領事館がある。そこからは昭和13年11月30日現在の職業別表が発見されている<i>(同、561-564頁)</i>。それによると、「芸妓、酌婦、娼妓、其他」が漢口では150人、武昌では245人である。

■ 〔漢ロヘノ渡航者取締ニ関スル件〕[在漢口総領事](昭14・2・3)(未作成)

■ 漢口ヘノ渡航者取締ニ関スル件[外務省亜米利加局長](昭14・2・7)(未作成)

■ 漢口陸軍天野部隊慰安所婦女渡支ノ件[外務大臣](昭14・12・22)(未作成)

■ 漢口陸軍天野部隊慰安所婦女渡支ノ件-回答[漢口総領事](昭14・12・27)(未作成)

■ 森川部隊特種慰安業務ニ関スル規定[森川部隊長](昭14・11・14)(未作成)

■ 独立山砲兵第三連隊陣中日誌(昭14・6・7、30)(未作成)

■ 軍紀違犯者ノ件特別報告[第13師団長〕(昭17・1)(未作成)

■ 特別報告中軍人変死ノ件報告[第13師団長〕(昭17・3)(未作成)

  昭和14年2月3日付けの漢口総領事の報告によると、同年1月付けで漢口には軍慰安所の設置許可を兵站憲兵隊と領事館からえたものが20軒であった。営業は「既ニ飽和状態ニ在リ」といわれている<i>(1巻、125-126頁)</i>。しかし、この年12月漢口に駐屯するにいたった香川県の天野部隊は軍慰安所開設のため婦女50名を求め、そのために婦女をあつめ、渡支許可を願い出た者があり、許可が与えられている<i>(同、131-133頁)</i>。武昌では昭和14年末ごろ朝鮮人慰安婦は256人、朝鮮人の慰安所経営者27人という報告がある*10ので、朝鮮人慰安婦が急増していることが分かる。

  武昌の近くの葛店と華容鎮には森川部隊の慰安所が昭和14年11月にそれぞれ第1、第2と第3、第4の4つの慰安所をもっていた<i>(2巻、335-336頁)</i>。さらに北の応山には昭和14年6月に特殊慰安所があったが、
慰安婦少ク只情欲ヲ満スニスギズ
とある<i>(2巻、318頁)</i>。さらにその先の岳陽(岳州)にも昭和14年朝鮮人慰安婦49人がいた*11。さらに揚子江上流の湖北省宜昌には、昭和17年1月現在、市内平和里に「軍特殊慰安所」たる「あやめ」本館があり<i>(2巻、143頁)</i>、また二馬路に「慰安所」たる「一力」支店があり、ここには朝鮮人慰安婦がいた<i>(同、147頁)</i>。

■ 金原節三業務日誌(未作成)

  以上のデータを総合すると、昭和13-14年ごろ、次のように慰安所があったことになる。上海約24、杭州4、鎮江8、常州1、揚州1、丹陽1、南京約20、蕪湖6、九江22、南昌11、漢口20、葛店2、華容鎮2、応山1、宜昌2、これに少なくとも蘇州1、安慶2を加えることができる。さらに武昌の数字を漢口の数宇と同じとして、約20を加えると、全部では148である。これは揚子江ぞいにある慰安所だけであって、それもすべてではない。中支全体ならこの数でとどまるものではないだろう。金原節三業務日誌によれば、昭和17年9月3日の陸軍省の課長会議で、恩賞課長が各地の「慰安施設」の数を上げた中で、中支は140という数字を挙げている*12

  1. :原注(11)同じような試みをした先行研究は、カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁がある。
  2. :原注(12)楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版社、1987年、15,20頁。
  3. :原注(13)同上、71頁。
  4. :原注(14)吉見編『従軍慰安婦資料集』191頁。
  5. :原注(15)設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。
  6. :原注(16)楊昭全等編、前掲書、65-66頁。
  7. :原注(17)楊昭全等編、前掲書、67頁には、朝鮮人慰安婦は89人とある。
  8. :原注(18)カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある。
  9. :原注(19)楊昭全等編、前掲書、69頁には、朝鮮人慰安婦は165人とある。
  10. :原注(20)同上、50頁。
  11. :原注(21)同上、70頁。
  12. :原注(22)本論集の波多野澄雄論文による。


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注釈

*1 原注(11)同じような試みをした先行研究は、カン・ジョンスク「日本軍慰安所の地域的分布とその特徴一日本軍官文書の分析を中心に」(ハングル)、韓国挺身隊問題対策協議会真相調査研究委員会編『日本軍「慰安婦」問題の真相』歴史批評社、1997年、141-223頁がある。

*2 原注(12)楊昭全等編『関内地区朝鮮人反日独立運動資料▼編』(▼=匚の中に惟)遼寧民族出版社、1987年、15,20頁。

*3 原注(13)同上、71頁。

*4 原注(14)吉見編『<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>資料集』191頁。

*5 原注(15)設置に関係した者の回想にもとづく秦郁彦の研究、『昭和史の謎を追う』下、文芸春秋、1993年、327頁。

*6 原注(16)楊昭全等編、前掲書、65-66頁。

*7 原注(17)楊昭全等編、前掲書、67頁には、朝鮮人慰安婦は89人とある。

*8 原注(18)カン・ジョンスク、前掲論文、169頁にはミスがある。

*9 原注(19)楊昭全等編、前掲書、69頁には、朝鮮人慰安婦は165人とある。

*10 原注(20)同上、50頁。

*11 原注(21)同上、70頁。

*12 原注(22)本論集の波多野澄雄論文による。