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「従軍慰安婦」にされた人々

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四、「従軍慰安婦」にされた人々

一九九五年一〇月二五日発行 アジア女性基金パンフレットより


 「従軍慰安婦」とは、かつての戦争の時代に、日本軍の慰安所で将兵に性的な奉仕を強いられた女性たちのことです。
 慰安所の開設が、日本軍当局の要請によってはじめておこなわれたのは、中国での戦争の過程でのことです。一九三一年(昭和六年)満州事変がはじまると、翌年には戦火は上海に拡大されます。この第一次上海事変によって派遺された日本の陸海軍が、最初の慰安所を上海に開設させました。慰安所の数は、一九三七年(昭和十二年)の日中戦争開始以後、戦線の拡大とともに大きく増加します。

 当時の軍の当局は、占領地で頻発した日本軍人による中国人女性レイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることをおそれて、防止策をとることを考えました。また、将兵が性病にかかり、兵カが低下することをも防止しようと考えました。中国人の女性との接触から軍の機密がもれることもおそれられました。

 岡部直三郎北支那方面軍参謀長は一九三八年(昭和十三年)六月に出した通牒で、次のように述ぺています。
「諸情報ニヨルニ、………強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ………日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ………深刻ナル反日感憎ヲ醸成セルニ在リト謂フ」

「軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整へ、設備ノナキタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス」
 このような判断に立って、当時の軍は慰安所の設置を要請したのです。

 慰安所の多くは民間の業者によって経営されましたが、軍が直接経営したケースもありました。民間業者が経営する場合でも、日本軍は慰安所の設置や管理、女性の募集について関与し、「統制」をおこないました。日本国内からの女性の募集について、一九三八年三月四日に出された中央の陸軍省副官の通牒には次のようにあります。
「支那事変地ニオケル慰安所設置ノ為内地ニ於テ之カ従業婦等ヲ募集スルニ当リ、故ニ軍部諒解等ノ名義ヲ利用シ、為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ、且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ、或ハ………募集ノ方法、誘拐ニ類シ、警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル等、注意ヲ要スルモノ少カラサルニ就テハ、将来是等ノ募集等ニ当リテハ、派遺軍ニ於テ統制シ、之ニ任スル人物ノ選定ヲ周到適切ニシ、其実施ニ当リテ関係地方ノ憲兵及警察当局トノ連携ヲ密ニシ、以テ軍ノ威信保持上、並ニ社会問題上、遺漏ナキ様配盧相成度依命通牒ス」。

 最初は日本の国内から集められた女性が多かったのですが、やがて当時日本が植民地として支配していた朝鮮半島から集められた女性がふえまレた。その人たちの多くは、一六、七歳の少女もふくまれる若い女性たちで、性的奉仕をさせられるということを知らされずに、集められた人でした。

 一九四一年(昭和十六年)一二月八日日本は米英オランダに宣戦を布告し(太平洋戦争)、職線は東南アジアに広がりました。それとともに慰安所も中国から東南アジア全域に拡大しました。そのほとんどの地域に朝鮮半島、さらには中国、台湾からも、多くの女性が送られました。旧日本は彼女たちに特別に軍属に準じた扱いをおこない、渡航申請に許可をあたえ、日本政府は身分証明書の発給をおこなうなどしました。それと同時にフィリピン、インドネシアなど占領地の女性やオランダ人女性が慰安所に集められました。この場合軍人が強制的手段もふくめ直接関与したケースも認められます。

 慰安所では、女性たちは多数の将兵に性的な奉仕をさせられ、人間としての尊厳を踏みにじられました。さらに戦況の悪化とともに、生活はますます悲惨の度をくわえました。戦地では常時、軍とともに行動させられ、まったく自由のない生活でした。
 日本軍が東南アジアで敗走しはじめると、慰安所の女性たちは現地に置き去りにされるか、敗走する軍と運命をともにすることになりました。

 一体どれほどの数の女性たちが日本軍の慰安所に集められたのか、今日でも事実調査は十分にはできていません。一九三九年(昭和一四年)広東周辺に駐屯していた第ニ三軍司令部の報告では、警備隊長と憲兵隊監督のもとにつくられた慰安所にいる
「従業婦女ノ数ハ慨ネ千名内外ニシテ軍ノ統制セルモノ約八五〇名、各部隊郷土ヨリ呼ビタルモノ約一五〇名ト推定ス」
とあります。第ニ三軍だけで一千人だというのですから、日本軍全体では相当多数の女性がこの制度の犠牲者となったことはまちがいないでしょう。現在研究者の間では、五万人とか、二〇万人とかの推計がだされています。

 一九四五年(昭和二十年)八月一五日戦争が終わりました。だが、平和がきても、生き残った被害者たちにはやすらぎは訪れませんでした。ある人々は自分の境遇を恥じて、帰国することをあきらめ、異郷に漂い、そこで生涯を終えました。帰国した人々も傷ついた身体と残酷な過去の記億をかかえ、苦しい生活を送りました。多くの人が結婚もできず、自分の子供を生むことも考えられませんでした。家族ができても、自分の過去をかくさねぱならず、心の中の苦しみを他人に訴えることができないということが、この人々の身体と精神をもっとも痛めつけたことでした。
 軍の慰安所ですごした数年の経験の苦しみにおとらない苦しみの中に、この人々は戦後の半世紀を生きてきたのです。

 現在韓国では、政府に届け出た犠牲者は一六二名とのことです。フィリピン、インドネシア、台湾、オランダ、朝鮮民主主義人民共和国、中国などの国や地域からも名乗りでている方々がいます。しかし、いずれにしても多くの人がこの世を去ったか、名乗りでることをのぞんでおられないのです。このことも忘れてはならないでしょう。


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