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1、慰安所の設置

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1 軍慰安所の設置



■ 恤兵金ノ処分二関スル件〔閣譲決定](昭7・7・19)(未作成)

  満州事変が昭和6年(1931年)にはじまったが、満州の日本軍は最初は軍が専用し、軍が管理する「慰安所」といったものをもっていなかったようだ。国立公文書館所蔵の閣議決定の資料の中に昭和7年7月18日の陸海軍大臣提案の「恤兵金ノ処分二関スル件」がある。そこには、民間から出征兵士によせられた355万4408円の使い道が報告され、「慰安施設ノ為現金ニテ直送シタルモノ」というような表現がある(4巻、147-148頁)。しかし、「慰安」という言葉自体がこのときはのちの時期のような意味をもっていなかった。


■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・11~20)(未作成)

■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・4・21~30)(未作成)

■ 衛生業務旬報[混成第14旅団司令部](昭8・5・1~10)(未作成)

  個別部隊の資料では、混成第14旅団司令部の『衛生業務旬報』昭和8年(1933年)4月中旬分をみると、旅団司令部のあった平泉には、
内鮮人娼妓三八名入リ来リ開業スルニ付キ(同、170頁)
とあって、「慰安所」なるものはない。吉見義明氏は資料の中にある「防疫及衛生施設」(同、178頁)という言葉に注目して、これが「慰安所」だとしているが*1、これは旬報のたんなる見出しにすぎない。軍はこれらの娼妓に対して軍医に性病の検査をさせている。その実施要領は「混成第十四旅団芸娼妓酌婦健康診断実施要領」と題されている(同、187頁)。検査のべ人員が38人のところ、日本人が3人、朝鮮人が35人で、圧倒的に朝鮮人が多いことがわかる(同、170頁)


■ 北支那並満州国視察報告[工兵第4大隊中隊長](昭9・3)(未作成)

  昭和9年(1934年)に工兵第4大隊中隊長の塩見久吉大尉が北支と満州を視察して報告を提出している。その中に次のような一節がある。
慰安法ヲ講スルコトハ駐満部隊ニ於テ最モ緊要ナリ折角守備ニ討伐ニ重大使命ヲ果シテ帰営セルモ之ニ対スル物質的慰安ナク待ツモノハ廃屋ノ如キ古兵営ノミニテハ軍心弛ミ易ク荒ミ易カラスヤ(同、239頁)
この表現はここにはいまだ軍慰安所のようなものは存在していなかったことをうかがわせる。

■ 昭和十一年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締[在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭10)(未作成)

■ 昭和十三年中ニ於ケル在留邦人ノ特種婦女ノ状況及其ノ取締並ニ租界当局ノ私娼取締状況 [在上海総領事館讐祭署沿革誌二依ル】(昭13)(未作成)

  しかし、すでに確認されているように、昭和7年(1932年)第1次上海事変によって戦火が拡大された上海には、すでに軍慰安所ができていた。この地に派遺された日本海軍陸戦隊が「海軍慰安所」を設置したのが軍慰安所の最初のものであった。『在上海総領事館警察署沿革誌』に見える昭和13年の「在留邦人特種婦女」の状況、取り締まりにかんする記述によれば、以下の通りである。
昭和七年上海事変勃発ト共二我ガ軍隊ノ当地駐屯増員二依リ此等兵士ノ慰安機関ノー助トシテ海軍慰安所(事実上ノ貸席)ヲ設置シ現在二至リタル(1巻、449頁)

  昭和7年末になると海軍慰安所は17になっていた。これが昭和9年には14に減ったが(同、433頁)、昭和11年(1936年)末になると、「海軍慰安所タル料理店」は3軒とされている。「料理店」とは「酌婦」を置いて客に買春させる施設のことであるが、その総数は10軒、うち7軒が海軍下士官専用、のこり3軒が居留邦人を相手にするものであったというから、海軍慰安所が3軒、海軍下士官用のものがさらに4軒、その他の居留邦人相手のものが3軒ということになる。このとき「酌婦」の数は131名、うち内地人は102名、朝鮮人が29名であった(同、436頁)。ここでは日本人が多い。一般に兵士を相手とする店には陸戦隊員及び領事館警察官吏が立ち会って、毎週2回性病検査をした。海軍慰安所については、
海軍側トモ協調取締ヲ厳ニシ且新規開業ヲ許サザルコトトセリ(同、437頁)
とある。

  昭和12年(1937年)に日中戦争がはじまると、上海には大量の日本軍部隊が上陸した。「慰安所」業者たちは一時戦火をのがれて、日本国内に避難したが、その年11月頃には元に戻ってきた。昭和13年12月末日で海軍慰安所は7軒、貸席全体は11軒、「酌婦」総数は191名、うち日本人171名、朝鱒人20名であった。軒数の比例で海軍慰安所にいた慰安婦数を推測すると、148人となる。この他に「陸軍慰安所」があり、そこには「臨時酌婦約300名がいたとある(同、450頁)。「陸軍慰安所」1軒あたりの慰安婦数を上海の貸席の平均17.4人としてみれば、陸軍慰安所の数は17軒程度ということになり、海軍慰安所とあわせると、24軒ということになる。このときの上海の「慰安婦」総数は海軍、陸軍あわせて、約450人と推測される。


■ 支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策[陸軍省副官](昭15・9・19)(未作成)

  このように上海に軍慰安所をっくったのは上海派遺軍参謀副長岡村寧次、同高級参謀岡部直三郎だとされている。既存の研究によれば、岡村らの動機は占領地で頻発した中国人女性に対する日本軍人によるレイプ事件によって、中国人の反日感情がさらに強まることを恐れて、防止策をとらねばならないとしたところにあった*2。そのことについては、陸軍省副官川原直一が昭和15年(1940年)9月19日に関係軍部隊に送った文書「支那事変ノ経験ヨリ観タル軍紀振作対策」にも、次のようにある。
事変勃発以来ノ実情二徴スルニ赫々タル武勲ノ反面ニ掠奪、強姦、放火、俘虜惨殺等皇軍タルノ本質ニ反スル幾多ノ犯行ヲ生シ為ニ聖戦ニ対スル内外ノ嫌悪反感ヲ招来シ聖戦目的ノ達成ヲ困難ナラシメアルハ遺憾トスル所ナリ

支那事変勃発ヨリ昭和十四年末ニ至ル間ニ軍法会議二於テ処刑セラレシ者ハ掠奪、同強姦致死傷四二○、強姦、同致死傷三一二、賭博四九四ニ達シアリ

兵営(宿舎)ニ於ケル起居ノ設備ヲ適切ニシ慰安ノ諸施設ニ留意スルヲ必要トス特ニ性的慰安所ヨリ受クル兵ノ精神的影響ハ最モ率直深刻ニシテ之カ指導監督ノ適否ハ志気ノ振興、軍紀ノ維持、犯罪及性病ノ予防等ニ影響スル所大ナルヲ思ハサルヘカラス」(2巻、49,50,53頁)
これはすでに注目されている有名な資料だが、日中戦争開始の1937年7月から1939年末までの1年5ヶ月の間に強姦致死の罪によって軍法会議で裁かれ有罪判決を受けた日本軍将兵の数が732人であるとの記述が重要である。


■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属犯罪表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成)

■ 昭和一七年四月陸軍々人軍属非行表[中支那派遣憲兵隊司令部](昭17)(未作成)

■ 軍人ノ変死ニ関スル件報告[第3飛行師団司令部](昭和17)(未作成)

  『資料集成』には、軍人の犯罪非行にかんする資料として、中支那派遺軍憲兵隊司令部が作成した「陸軍々人軍属非行表」の昭和16年11月、12月、昭和17年2月、4月分、「陸軍々人軍属犯罪表」昭和16年12月、昭和17年1月、2月、4月分が含まれているが、慰安所、慰安婦にかかわる非行、犯罪の記述だけを切り取った資料であり、強姦事件に関する記述はとられていない。個別事件の報告の中に、昭和17年7月18日酔って深夜慰安所に行ったところ閉門していたので、帰途中国人の家に押し入り、15歳の少女を強姦した上等兵(第3飛行師団所属)が同家からの訴えで逮捕され、7月27日軍法会議にかけられ、懲役3年、一等兵への降等に処せられたことが見える(2巻、200-201頁)。慰安所行きと中国人女性への強姦とを同じレベルでとらえている兵がいることが分かるケースである。


■ 戦場生活ニ於ケル特異現象ト其対策[早尾乕雄](昭14・6)(未作成)

  ところで日本陸軍の陸軍刑法には強姦致死罪は規定されていたが、強姦自体を罰する規定はなかったため、強姦罪は一般刑法上の犯罪として処罰されていた。普通刑法では法定刑の範囲が狭く、訴追は被害者の告訴を必要としたので、戦時の強姦をとりしまるには適当でなく、殺人をともなわない強姦は見逃されることも多かった、、陸軍刑法に強姦罪の規定が設けられ、これを非親告罪としたのはようやく昭和17年(1942年)の改正によってである*3。したがって日中戦争開始後、軍法会議にかけられた732人は日本兵の中国での強姦件数の中では、氷山の一角であった。上海事変に従軍した早尾乕雄軍医大尉が昭和14年(1939年)にまとめた文書「戦場ニ於ケル特殊現象ト其対策」もすでに有名な資料だが、そこにも次のようにある.
検挙サレタ者コソ不幸ナンデ蔭ニハドレ程アルカ解ラヌト思フ。憲兵ノ活躍ノナカツタ頃デ而モ支那兵ニヨリ荒サレズ殆ンド抵抗モナク日本兵ノ通過ニマカセタ市町村アタリハ支那人モ逃ゲズニ多ク居ツタカラ相当二被害ガアツタトイフ。加之部隊長ハ兵ノ元気ヲツクルニ却ツテ必要トシ見テ知ラヌ振リニ過シタノサヘアツタ位デアル(同、66-67頁)

  早尾軍医大尉は、強姦の防止のために慰安所が設けられたが、それでも強姦事件はとまらなかったと述べている。
出征者ニ対シテ性欲ヲ長ク抑制セシメルコトハ自然二支那婦人ニ対シテ暴行スルコトヽナロウト兵站ハ気ヲキカセ中支ニモ早速ニ慰安所ヲ開設シタ。其ノ主要ナル目的ハ性ノ満足ニヨリ将兵ノ気分ヲ和ゲ皇軍ノ威厳ヲ傷ケル強姦ヲ防グノニアツタ。慰安所ノ急設ハ確カニ其ノ目的ノ一部ハ達セラレタ。然シアノ多数ノ将兵ニ対シテ慰安所ノ女ノ数ハ問題ニナラヌ。…地方的ニハ強姦ノ数ハ相当ニアリ亦前線ニモ是ヲ多ク見ル

日本ノ軍人ハ何故ニ此ノ様ニ性欲ノ上ニ理性ガ保テナイカト私ハ大陸上陸ト共ニ直チニ痛嘆シ戦場生活一ヶ年ヲ通ジテ終始痛感シタ。然シ軍当局ハ敢テ是ヲ不思議トセズ更ニ此ノ方面ニ対スル訓戒ハ耳ニシタ事ガナイ(同、66,72頁)


■ 軍人軍隊ノ対住民行為ニ関スル注意ノ件[北支那方面軍参謀長](昭13.6.27)(未作成)

  この事態を前にして、軍の上層部は事態を憂慮し、軍紀を厳正に保つことを命ずるとともに、強姦事件をふせぐために軍慰安所の設置を推進したのである。岡村の部下として上海の慰安所設置に働いた岡部直三郎が北支那方面軍参謀長として1938年(昭和13年)6月27日に出した名高い通牒がある。あらためてその一部分を引用する。文中「性的慰安ノ設備」とは軍慰安所のことである。
諸情報ニヨルニ、…強烈ナル反日意識ヲ激成セシメシ原因ハ各所二於ケル日本軍人ノ強姦事件カ全般ニ伝播シ実ニ予想外ノ深刻ナル反日感情ヲ醸成セルニ在リト謂フ

部下統率ノ責ニアル者ハ国軍国家ノ為メ泣テ馬謖を斬リ他人ヲシテ戒心セシメ再ヒ斯ル行為ノ発生ヲ絶滅スルヲ要ス

軍人個人ノ行為ヲ厳重取締ルト共ニ、一面成ルヘク速ニ性的慰安ノ設備ヲ整へ、設備ノ無キタメ不本意乍ラ禁ヲ侵ス者無カラシムルヲ緊要トス

  この通牒が各部隊に送られ、受けとめられたさまは、歩兵第9旅団陣中日誌やなどに書き写されている*4ところからうかがえる(同、23-26,32-36頁)。後者では、
本次事変ハ大日本国民ニ課セラレタル天ノ試錬ニシテ軍ハ既ニ幾多光輝アル戦績ヲ収メ得タリト難敵ノ死命ヲ制シ能ク聖戦ノ目的ヲ達成シ得ルト否トハ寧ロ懸リテ今後作戦ニ存ス
という第2軍司令官稔彦王の訓示の次に書きこまれている。

■ 状況報告[独立攻城重砲兵第2大隊長](昭13・1・20)(未作成)

  したがって、軍慰安所なるものは、日本軍の歴史の特定の段階で生まれたものであり、一般の業者が自らの営業として軍の駐屯地へ来て開いた「料理店」、「貸席」とは異なり、軍が必要とし、軍の判断で設置した施設であることは間違いない。上海の西の常州方面に向かう独立攻城重砲兵第2大隊本部の昭和12年12月の陣中日誌によると、
慰安設備ハ兵站ノ経営スルモノ及軍直部隊ノ経営スルモノノニヶ所アリテ定日ニ幹部引率ノ許ニ概ネー隊約一時間ノ配当ナリ(同、228頁)
とある。兵站部と軍直部隊、すなわち大隊本部がそれぞれ慰安所を経営していることがわかる。


■ 慰安所ノ状況【波集団司令部](昭14.4)(未作成)

  のちに広東の波集団*5司令部の「戦時旬報」昭和14年4月中旬分には次のようにある。
  1. 慰安所ハ所管警備隊長及憲兵隊監督ノ下ニ警備地区内将校以下ノ為開業セシメアリ
  2. 近来各種慰安設備(食堂、カフェー、料理屋、其他)ノ増加ト共ニ軍慰安所ハ逐次衰微ノ徴アリ
  3. 現在従業婦女ノ数ハ概ネ千名内外ニシテ軍ニ於テ統制セルモノ約八五○名、各部隊郷土ヨリ呼ヒタルモノ約一五○名ト推定ス(同、39-40頁)

  これによると、軍慰安所は、警備隊、憲兵隊の監督のもとに、すなわち波集団司令部の統制のもとに警備地区内において業者に開業させたものであるが、憲兵のいないところで各部隊が郷土から業者と女性を呼んで開業させている慰安所もあるようである。


■ 第二軍状況概要[第2軍司令部(中支武漢地区)](昭13・12・10)(未作成)

  中支武漢地区を制圧した第2軍の昭和13年12月10日付け「第二軍状況概要」によれば、漢口及び漢陽の警備について述べた箇所で、
外出ハ警備第一主義ニ基キ当分ノ間引率外出、慰安所出人ノ為ノ外出以外之ヲ認メス慰安所ハ十一月二十五日ヨリ之ヲ開設シ切符制度ニヨリ混雑ヲ防止シ以テ皇軍ノ面目ヲ維持スルコトニ努メツツアリテ概ネ所期ノ目的ヲ達シアルモノト信ス(同、302頁)
とある。

  軍が直轄経営するといっても、実際の経営主体は民間業者であった。軍が業者に依託して、女性を調達してもらい、軍の監督のもと開設させるという形が普遍的であった。このような軍直営の慰安所の他に、軍が民間業者の施設を慰安所に指定し、軍専用慰安所とする場合もあった。


  1. 原注(1)吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書、1995年、19頁。
  2. 原注(2)同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302貫。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。
  3. 原注(3)陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。
  4. 歩兵第9旅団陣中日誌と歩兵第41連隊陣中日誌に転記されている
  5. 原注(4)政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『従軍慰安婦資料集』大月書店、1992年、214頁。
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注釈

*1 原注(1)吉見義明『<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>』岩波新書、1995年、19頁。

*2 原注(2)同上、16-17頁。吉見義明・林博史編『共同研究日本軍慰安婦』大月書店、1995年、16頁。典拠は、稲葉正夫編『岡村寧次大将資料』上巻(戦場回想篇)、原書房、I970年、302貫。『岡部直三郎大将の日記』芙蓉書房、1982年、23頁。

*3 原注(3)陸軍省軍務局長「大東亜戦争間軍法会議処刑掠奪強姦等犯罪事例ニ関スル件」、別冊「日本軍ノ軍紀粛正ニ就テ」、昭和20年10月3日、永井均篇『戦争犯罪調査資料』東出版株式会社、1995年、210-212頁。

*4 歩兵第9旅団陣中日誌と歩兵第41連隊陣中日誌に転記されている

*5 原注(4)政府発表では南支23軍となっているが、吉見氏の考証で南支21軍とされている。吉見義明編『<a class="keyword" href="g:ianhu:keyword:従軍慰安婦">従軍慰安婦</a>資料集』大月書店、1992年、214頁。