15年戦争資料 @wiki

rabe12月22日

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pipopipo555jp

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十二月二十二日


憲兵本部からだといって日本人が二人訪ねてきた。日本側でも難民委員会をつくることになった由。従って難民はすべて登録しなければならない。「悪人ども」(つまり中国人元兵士)は特別収容所に入れることになったといっている。登録を手伝ってくれないかといわれ、ひきうけた。

そのあいだも、軍の放火はやまない。火事が上海商業儲蓄銀行のそばの家、つまりメインストリートの西側にまで拡がったら、とはらはらしどおしだ。あのあたりはもう安全区に入っている。そうなったらわが家も危ない。仲間と安全区の中を片づけていたら、市民の死体がたくさん沼に浮かんでいるのをみつけた(たった一つの沼だけで三十体あった)。ほとんどは手をしばられている。中には首のまわりに石をぶら下げられている人もいた。

わが家の難民はいまだに増えるいっぽうだ。私の小さな書斎だけでも六人が寝ている。オフィスと庭も見わたすかぎり難民で埋まっており、燃えさかる炎に照らされてだれもが血のように赤く染まっている。今数えただけでも、七ヵ所で火災がおこっている。


私は日本軍に申し入れた。発電所の作業員を集めるのを手伝おう。下関には発電所の労働者が五十四人ほど収容されているはずだから、まず最初にそこへ行くように。

ところが、なんとそのうちの四十三人が処刑されていたのだ!それは三、四日前のことで、しばられて、河岸へ連れていかれ、機銃掃射されたという。政府の企業で働いていたからというのが処刑理由だ。これを知らせてきたのは、おなじく処刑されるはずだったひとりの作業員だ。そばの二人が撃たれ、その下じきになったまま河に落ちて、助かったということだった。

今日の午後、酔っぱらった日本兵に中国人が銃剣で首を突かれた。それを知って助けにいったクレーガーとハッツの二人も襲われた。ハッツは椅子を使って身を守った。だが、クレーガーのほうは日本兵にしばられそうになった。やけどした左手を包帯でつっていなければ、そうはならなかっただろうが。フィッチと私が車でかけつける途中、むこうから二人がもどってくるのに出くわした。フィッチと私は二人をのせてただちに現場にむかった。するとその兵隊は、偶然通りかかった日本の将校から平手打ちを食っていた。そばには日本大使館の田中氏もいた。

その日本兵はどうやらクレーガーたちに不利になるような報告をしたらしい。しかし、将校はかまわずなぐり続け、ついにそいつは目に涙をためた。この事件は我々にとって悪い結果にはならなかった。だが、いつもそうなるとはかぎらない。


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