15年戦争資料 @wiki

IV-03<若藤楼の女性たちの地下司令部での仕事>

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
IV. 伊波苗子証言(2) 2012.3.1 書き起こし


伊波苗子さんインタビュー

IV-03<若藤楼の女性たちの地下司令部での仕事>


伊波さんのインタビュー中、あとから編集で中抜きした箇所を、<編集カット>と表記しました。
「平成24年2月25日(土)沖縄県内」

(大高)はい、32軍司令部*19aに従軍看護婦として勤務された伊波苗子さん*19b に取材させていただきます。まず、あのー、第3梯団*20に辻の、辻遊郭の若藤楼という… 

(伊波苗子)辻は大きいんですよ。
<編集カット>
若藤はね、特別にね、軍からも、あの、こちはね 将校会議所*21 ちゅうところ、辻町(つじちょう)いっぱいからね、いっとうめ とられた、ほかのことは相手にしない*22、辻町はね、球本部*23から、坂口副官*24 高級副官*25、みんなそろって、牛島閣下殿*26も、参謀長閣下殿*27もぜーんぶでね、辻ではあるけど、遊郭とは慰安のするところじゃない。将校会議所であって、だから10月空襲に消えたから*28、あの妓(こ)たちは看護の試験受けに行ったけれど、看護はねちょっとでメス、落ちた。

(大高)若藤楼の女性たちが、看護婦落ちたんですね

(伊波)徳田ハツ、徳田トミ*29も、あのメスの使い方が、ちょっと落ちてね、通らなかったけど、
<編集カット>
炊事場の手伝いしたり、また、あの衣服の手伝いしたり、いろんな手伝いした。また忙しい時にはね、またあの当番と一緒に、また仕事したりして、特別に軍から呼ばれたワケ*30。そんで、3月23日には、本部に入らなくちゃいけない、と*31a。もうこっちは、どこもいっぱいだからね、本部にきていいと*31b、坂口副官がいいと。本部に入った以上はね、女性じゃない兵と同じ男性であるから、入ったらね同じ寝室にいる人ともね、話も声も出すなと。朝もね、ズン道(隧道)にね、通りがかった人とも話もするなと、そういう風にね。また軍に入って、壕の中に入った時にはね、もうみんな一緒でも、話もしない、あの人たちは、炊事場の手伝い、将校の食事する将校の炊事場の、道具の、お皿とかお椀とか、拭いたり手伝いした。それで、あの発電所の、あのお湯があるでしょ*32。そこでね将校から、タオルとか、あのお絞りタオルとかみんなたくさん来るんですよ。拭きもんとか、これをね、発電所のお湯があるから、そこで洗ったりしてね、二人も一生懸命だった。
<編集カット>
壕の中では、大変几帳面でね、清潔でね、あっちには一中の隊も手伝いをした。じょうかくせん*33を手伝いした。みな、いまのところ道路*34aのそばに並んでね、こうして並んで、一升瓶にお米を入れてネ、こう搗いて、した*34b。また、作業*34cにも出た、一生懸命で。慰安婦はいない。

(大高)なぜ慰安婦って書いているんでしょうかね*35

(伊波)だからこれはネ、わからん人たちがいて*36

VTR終わり フェードアウト(10:52)


  • *19a首里の32軍司令部壕
    総延長約1,000メートル、深さ15ないし35メートル。「本土決戦」準備のために時を稼ぐ「持久戦」戦略の要である。まず概要は、NHK制作の動画が分かりやすい。第32軍司令部壕(那覇市)【放送日 H21.4.1】http://www.nhk.or.jp/okinawa/okinawasen70/senseki/detail39.html 

    軍人ではないが長勇参謀長の特務員として地下司令部に詰めていた大迫亘氏は、「昭和20(1945)年3月には、首里城の地下を走る延々2里(約8km)あまりの軍司令部の豪が完成された。この豪は昔尚琉球王が島津軍に対抗するために築造されたと思われる間道で、その間道を利用し、修復増強して強固な軍司令部ができあがった」という(『薩摩のボッケモン』p117)。2里は誇張。
    上の図には第6坑道口が明示されていない。

    上図(高級参謀八原博通『沖縄決戦』収載)には第6坑道口が書かれている。第1、第2、第3の位置が前図とは逆。『沖縄決戦』には、第6坑道には浴室があったせいか、第6坑道の記述が多い(VI-A 海鳴り資料 1)。
    • 「洞窟内には、また別種の女性の一群がいた。参謀室から遠く離れた第六坑道には、はるばる内地から渡来し、長堂の偕行社に勤務していた芸者十数名と、辻町の料亭若藤の遊女十数名が収容されていた。一日一回ぐらい第六坑道を通るのは、気分転換によろしいとあけすけに冗談をいう者もある。しかし彼女らの態度は、今や猥らなものではなく、また浮いた調子でもない。炊事の手伝いもすれば、野戦築城隊と一緒に泥まみれになって土運びもする。軍司令部の洞窟に入れてもらい、大切な軍の糧秣を頂戴しているのだから、全力を尽くして軍隊のお手伝いをするというのが、いじらしい彼女らの端的な気持なのだ」
  • 米軍G2作成32軍司令部壕の実測図INTELLIGENCE MONOGURAPHでは、第5坑道にWOMENS QUARTERS 12 JAPANESE, 19 OKINAWANとあり、第32軍司令部壕内に日本人女性12人と沖縄人女性19人の宿所があったことが記されている。
  • 写真週報1945.7.11 374・375合併号
    どこの地下陣地かは不明だが、畳敷きの部屋で作戦会議という設定か。

    32軍司令部壕内の軍司令官、参謀長、高級参謀ほかの個室には畳が入れられ、壕内は電気もつけられるようになっていた。(外間守善『私の沖縄戦記』、VI-B 53)

  • *19b 伊波苗子(いは なえこ)さんプロフィール
    2012年インタビュー時94歳、逆算すると沖縄戦当時は27才。

    7歳で辻遊廓に入り、妓楼「太平楽」のジュリ(尾類)=芸娼妓になる。戦時体制に入る中、「太平楽」は「若藤楼」とともに32軍司令部御用達の「将校会議所」になったという。チミジュリ(詰尾類)だった伊波さんは、辻の警防団2分団の会長を務めていた(II-*34a)。1944年8月、32軍司令官赴任のときから牛島中将に仕える。同年10月10日の那覇大空襲で、辻の遊廓は全焼したが、司令部の肝いりでできた「玉倶楽部」に勤め、米軍上陸直前の一斉艦砲射撃が始まった1945年3月23日、若藤楼の女性たちとともに、「選ばれて」「呼ばれて」首里司令部地下壕に入る。伊波さんは看護婦の資格を取っていた。

    伊波さんの「太平楽」のアンマー(抱親)が北部国頭に疎開していたので、伊波さんは若藤楼の一員として行動していたのだろう。

    5月戦況が厳しくなって首里司令部から南部に移動し、6月第32軍終焉の地である摩文仁の司令部壕に合流した。摩文仁ではおよそ2週間を将兵たちと共にし、牛島司令官と長参謀長の自決を見届けた。その目撃談は、2010年のチャンネル桜ロケ番組で語られたが、これまで様々に伝えられている2将軍の自決シーンとは、全く異なるものだった。

    伊波さんは太平楽のアンマー(抱親)がノロ(巫女)でもあったことから、神事作法も身につけているという。
  • *20 第32軍(球軍)司令部の命令書を綴った「球軍日日命令 第107号」1945年5月10日に、「首里の司令部を脱せよ、第3梯団若藤楼」という記述がある。→前項*16
  • *21 長勇(ちょう いさむ)32軍参謀長は、いよいよ決戦だという3月23日、首里の地下司令部に「天の岩戸戦闘司令所」という看板を掲げ、のちに不謹慎だとも評された。「英雄色を好む」型の長勇ならば軍専用となった妓楼(高級将校専用慰安所)に、「将校会議所」という洒落たニックネームをつけたかも知れない。なお、司令部の高級将校が慰安する場所は、周到に秘密厳守できる場所でなければならない。だから、その選択や設置は最重要の軍事機密でもあった。大迫亘『薩摩のボッケモン』を読むと、辻遊廓工作にあたったのは、長参謀長の指示の下で動く葛野高級副官と坂口副官だったことがわかる。
  • *22 「一等目、取られた、ほかのことは相手にしない」は、辻一番の妓楼と認められ接収されて、32軍専用になったということ。高級将校たちは、ここで酒宴を兼ねた会議を開き、辻の遊女すなわちジュリ(尾類)たちに酌をさせた。一方、辻の女性たちから見れば、戦時下で沖縄財界人などの利用がなくなり、客は軍関係者ばかりになっていた。軍司令部御用達になることは、名誉でもあると同時に商売の上でも有難かったはずだ。
  • *23 部隊の符丁名
    球部隊:第32軍司令部およびその直轄部隊
    武部隊:第9師団、沖縄守備軍の中でも精鋭部隊だったが、1944年12月台湾へ移動する。第9師団がいなくなった第32軍の戦力は、ガタ落ちとなった。
    山部隊:第24師団
    石部隊:第62師団
  • *24  次級副官 坂口勝 大尉
  • *25  高級副官 葛野隆一 中佐
  • *26 32軍司令官 牛島満 中将
  • *27 長勇(ちょう いさむ)32軍参謀長、少将で沖縄に着任し中将に昇進。
    長はかつて、橋本欣五郎らと桜会を結成。1931年の三月事件・十月事件を計画。十月事件での長の役割は、首相官邸を襲撃し全閣僚を殺害するというもので、長は新内閣樹立の際は警視総監に就任する予定であったが保護検束されている。1937年の南京攻略戦では中支那方面軍情報主任参謀で中佐。捕らえた捕虜を「ヤッチマエ」と処刑するように命じ、それを知った松井石根司令官にたしなめられた。また南京戦のなかで、日本軍が初めて慰安所をつくるさい、日本人慰安婦や中国人慰安婦の調達など、準備工作にあたった。
  • *28 10.10空襲で辻遊郭は焼滅したが、若藤楼すなわち「将校会議所」は、32軍長勇参謀長の肝入りで、司令部が移転した首里の坂下に「玉倶楽部」という名で再建された。
  • *29 徳田ハツは当時29歳ぐらい。その根拠は『辻の華』筆者の上原栄子(1916生まれ)が「私と同級生であった初ちゃん」と書いているから。徳田トミはハツの「妹」。ただし徳田ハツ、徳田トミは共に幼いときアンマー(抱親)に買われた身だから、実の姉妹ではない。『薩摩のボッケモン』によれば、司令部御用達の「玉倶楽部」は、徳田ハツがマネジメントしていたという。
  • *30 なぜ、特別に軍から呼ばれたのか? それは、看護婦だからでもなく炊事が得意だからでもない。遊廓の女性だからである。長参謀長や副官たちには、付き合いの深い辻の女性たちの「命を守ってやろう」という配慮もあった。
  • *31a 米軍のすさまじい空爆・艦砲射撃が始まったのが3月23日。この日「全軍戦闘体制に入れ」という甲号戦備が下令された(24日あるいは25日という説もある)。
  • *31b 空爆や艦砲射撃を避ける地下壕は、どこも人でいっぱい。お墓(亀甲墓)に身を隠した人も多かった。
  • *32 自家発電設備
  • *33 城郭戦? 
  • *34 通路のこと→前掲*19aの見取り図参照
  • *34b 「一升瓶に玄米を入れて棒で突く瓶搗き精米の体験」(長岡京市平和フォーラム) 写真 →
  • *34c 地下壕築城作業の土運びなど
  • *35 「慰安婦」の定義が狭いのでは? 将校付き賄い婦で将校個人の愛人になるのも「慰安婦」。藤原彰『沖縄戦―国土が戦場になったとき』には「将校用慰安婦と皇民化教育」の項がある。また、「慰安婦」を将校個人の愛人にした例には、
    • ビルマ・ミッチナ守備隊長丸山大佐
      https://www22.atwiki.jp/doc_exam2007/pages/37.html&br()「戦友たちへ ミッチナではいまだ戦闘が続いていたというのに、丸山大佐は避難豪でほぼ毎日、慰安婦たちといちゃついていた。 その後、丸山大佐は傷病兵より先に慰安婦たちが渡河するよう段取りしたのだ。 これは嘘ではない。」
    • 座間味島の守備隊長 梅澤裕少佐
      http://mphoto.sblo.jp/article/5976589.html&br()梅澤少佐は、朝鮮人慰安婦を伴い壕を転々と逃げ回り4月10日、各隊に独自行動を命令。部隊の事実上の解散宣言をしてしまいました。本人は自決もせず生き延びました。米軍に捕まったとき朝鮮人慰安婦と一緒で、住民から石を投げられ、米軍に保護されながらトラックに乗せられ連行されました。・・・などがある。
  • *36 伊波さんは、金のために「性」を売る岡場所とは違うという辻遊廓の女性のプライドから、「慰安婦」という言葉を「不潔なもの」だと言い棄てている。極めてもっともなことだと思う。しかし、「慰安所」という言葉を堂々と使ったのは、他でもない皇輝を誇る大日本帝国の軍であって、元々、将兵を慰安することを「不潔なもの」する考えは、日本軍には微塵もなかった。「客をとり」「慰安を提供する」といってもその格はさまざま、女性たちの最エリートは、政官財の名士あるいは高級将校の愛人になった女性たちだった。32軍の司令官や参謀長は、女性たちにとっては、天皇の代理であり「大君(たいくん)」であった。









:
目安箱バナー