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II-06<パインの缶かん>

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【沖縄戦】「美しい死」と「不潔な死」
II. 伊波苗子証言(1)2011.11.28 書き起こし

II-06<パインの缶かん>


(伊波)はい、選ばれてるもんだからね*30、わたしはあの時分はね、背は小さいしい、もうとってもおとなしくしてね、良く働くちゅうてね、(牛島閣下殿から)娘みたいにね、良く思われましたよ。だから、「二分団のチビ子、二分団のチビ子」ちゅうてね*31、壕の中でもね、6月19日にもね、もうみんな出て、残りの人たちにね*32a、パインを開けてね、軍曹に「なにか残り物ないか、缶詰あるか」ちゅうたらね「パインだけあります」と、「じゃあ、それみんな持ってきて開けなさい」と、皆んなね、残りの方みんな集まっておいでって、そんで列並んでよ、

(奥)最後の晩餐ですね*32b

(伊波)はい。みんなにね、「パインをあげる、今日はお父さんがね、あげるから、口(くち)をアーンしなさい」って、そのパインを開けさせてね、こうしてね「アーンしなさい」と。最後には私でなってね、私はうつむいていたけど、どんなにして口アーンするかねと思って、ええ。「チビ子、早よーはよ」してね、私は座ってたけど立ってからね、(聴取不能)ゆうて、閣下殿のね目頭、真正面にアレしたら、閣下殿のね目頭曇って涙流して、「はいチビ子、はよ、口アーンしなさい」いうてね、まいよ、こうして私頂きましてね、もう涙とねパインと一緒に、いただきましたよ。そんで最後にはね、新しいパインをね、缶かんを、「これ持ってね奥のほうでね、みんな整理する*33みんなと一緒にね、手伝いしながら食べなさい」ちゅうて、渡されてね、奥のほうに行きましたよ。
 したら、残りの兵隊たちが、みんな刀とかね帳簿とかみんな整理してた。刀とかね、鉄砲とかいろんな道具はね、突っついて、あのドラム缶の御手洗いがあるんですよ。そのお手洗いにみんな突っ込んで、ホンでね、腐れてると取れないでしょ、みんな入れてやりましたよ、私はみんな手伝いして、もう翌日ね、20日になってますよ。(13 55)


  • *30 辻遊廓の女性たちの中から選ばれて首里司令部壕に入った、という意味か。
  • *31 辻遊廓警防団の第2分団の会長 →II-07 *34a
  • *32a 生き残った人たちに。あるいは、前日将校たちがゲリラ戦など使命をおびて摩文仁司令部壕から脱出したので、その残りの人にという意味か。
  • *32b いわゆる「最後の晩餐」におけるパイン缶の話は、司令官牛島満の伝記としてつとに知られているようである。小松茂朗『将軍 沖縄に死す』には6月21日(伊波証言では19日)夜の出来事として、「序章 別れの宴」に描かれている。(VI-Bその他55)
 その夜、彼は洞窟内の生存者全員を集めて、別れの宴を開いた。酒肴は清酒1本とパインアップルの缶詰がわずか。」それが洞窟内の全財産だが、ともあれ机上に並べられた。
 牛島司令官は、米軍が沖縄本島に上陸した4月1日以来、80日余にわたる善戦に謝意を述べ、
「みんな笑って別れよう」
と結んだ。みんな頭を下げてうなづいたが、笑いはしなかった。
 酒を飲まない牛島は、もっぱら部下のサービスに努めている。パインの缶を開け。まず爪楊枝に一切れずつさして、つぎつぎと部下の顔の前に運び、
「さあ口を開けて……。そう、そう……。いままでじつによく頑張ってくれたね。ありがとう。ほんとにありがとう……」
 さながら親父のような口吻である。みなパインを口に入れたまま、熱い涙を流すのであった。
    ただし、現場に居た筈のない小松氏のこの著書には、
    見てきたような情景の元になる目撃証言者については記載も注釈もない。
  • *33 書類や所持品の整理










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