15年戦争資料 @wiki

rabe12月11日

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pipopipo555jp

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十二月十一日


八時

水道と電気が止まった。だが銃声は止まらない。ときおり、いくらか静まる。次の攻撃にそなえているのだ。どうやらこれがうちの「ペーター」のお気に召したらしい。さっきから声を限りに合奏している。からす(ラーベ)よりカナリアのほうが神経が太いようだ!

爆音をものともせず、道には人があふれている。この私より「安全区(セーフティ・ゾーン)」を信頼しているのだ。ここはとっくに「セーフ」でもなんでもないのだが。いまだに武装した兵士たちが居すわっているのだから。いくら追い出そうとしてもむだだった。これでは、安全区は非武装だと日本軍に知らせたくともできないじゃないか。

九時

ついに安全区に榴弾が落ちた。福昌飯店(ヘンペル・ホテル)の前と後だ。十二人の死者とおよそ十二人の負傷者。このホテルを管理しているシュペアリングが、ガラスの破片で軽いけが。ホテルの前にとまっていた車が二台炎上。されにもう一発、榴弾(こんどは中学校)。死者十三人。軍隊が出て行かないという苦情があとをたたない。鼓楼病院の前に-----ということは安全区側だ-----砦が築かれることになった。だがこれを命じられた中国軍の将校は、通りの向こう側で作業するのを断ってきた。事態を丸く収めようと、私はマギー牧師と一緒にその将校に会いに行くことにした。山西路広場(バイエルン広場)を通りかかったとき、広場の真ん中で兵士たちが穴を掘って隠れているのをみつけた。角の家は軒並み兵士たちにこじ開けられている。目の前で次々とガラスや扉が壊されている。なぜそんなことをするのだろう? だれに聞いても、わからない、という!

けが人がひっきりなしに中山路に運ばれて行く。砂袋、引き倒した木、有刺鉄線の柵でバリケードを作っているが、こんなもの、戦車がくればひとたまりもないだろう。鼓楼病院の前で例の将校に砦を築くように頼んだが、相手はおだやかな物腰ながら断固拒否した。病院から龍に電話で報告すると、さっそく唐将軍に問い合わせるとの返事。

十八時

記者会見。出席者は、報道陣のほかは委員会のメンバーのみ。ほかの人はジャーディン社の船かアメリカの砲艦パナイ号で発ったのだ。

スマイスがいうには、目下名ばかりわれわれの配下にある警察が、「こそ泥」を捕まえ、その処分について聞いてきたという。この件でちょっとばかり座がにぎわう。おそれ多くも裁判官までつとめることになろうとは・・・・・。私もそこまでは考えていなかった。われわれはまず、死刑を宣告し、恩赦により、と二十四時間の拘置にし、留置場の不足によりやむをえず、とふたたび自由の身にしてやった。

午後八時、韓を呼び、家族をつれて寧海路五号の委員会本部に引っ越すようにいった。あそこの防空壕のほうが安全だ。しかもわが家は、いま日本軍から猛攻撃されている五台山のすぐそばなのだ。私もいずれ引っ越そうかと考えている。夜は猛攻撃を受けるだろう。それなのに韓はまだ家をでていこうとはしない。



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