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講演「沖縄戦と集団自決裁判について」

2009.11.27.
大田平和総合研究所・大田昌秀


沖縄戦を知らない人がおこした裁判


 大江・岩波沖縄戦裁判に関して思うことは、この裁判を起した人たちは沖縄戦のことをご存じないのではないか。「新しい歴史教科書をつくる会」の人たちは沖縄戦というものを知っているのかなと思います。沖縄戦についてよく知っていればこんな裁判を起せるはずはないのです。

 私はこの裁判が起されたということで証拠探しにアメリカに行ってきました。いろいろ探してみました。結果的には渡嘉敷の赤松隊の「命令」のことについては見つかりませんでしたが慶留間島の出来事に関する資料を見つけることができました。慶留間島では53名が「自決」したのですが、「日本軍将校が“説得”(「命令」)した」ということが記されています。order(命令)という用語ではなく、パースエイド(persuade)という用語で記録されています。パースエイドとは、家族を殺せといわれてそれをためらっている人、拒否している人に対して、米軍がきたら女性は大変な目に遭う、男性は戦車にひき殺されるなどといって怖がらせる方法で「説得」する(「自決」に追い込んでいく)ということなのです。曽野綾子の『ある神話の背景』の中に、「これまで命令書は見つかっていない」という記述がありますが、断定的に命令書はないということは書いてはいないのです。

 大江さんは裁判の陳述書で、「集団自決は太平洋戦争下の日本国―日本軍―現地32軍を貫く縦の構造の力によって島民に強制されたという結論に至った。この縦の構造の先端にある指揮官たちの行動によって・・・直接の責任のあった渡嘉敷の守備隊長・・・」ということを述べています。この「縦の構造」という言葉が沖縄戦において重要な意味を持つわけであります。

玉砕前提の無謀な戦争


 一言で言えば、沖縄戦は最初から玉砕を前提として闘わされた戦争であった。戦争を指揮する大本営にはひとたび沖縄に米軍が上陸したら玉砕するしかない、日本軍としては沖縄住民を助ける方法がないという認識が最初からあった。八原という作戦参謀の『沖縄決戦』という本の中に「1944年から45年にかけて、大本営から数名の陸軍中野学校の将校が沖縄守備軍司令部を訪れ、彼らがいうには、我々は皆さんと一緒に戦争するために来たのではない、皆さんが玉砕した後、米軍の統治下に置かれるであろうから、そのことの情報を収集して大本営に報告するためにやってきたと明言した」ということが書かれている。沖縄戦は最初から玉砕するしかないという無謀な戦争だったのです。

 ではなぜそのような無謀な戦争をしたのかといえば、米軍が上陸したとき、日本本土の防衛体制はまだ60%しかできていなかった。そのために、できるだけ長く米軍を沖縄に釘付けしその間に本土防衛体制を完成させようという計画であった。沖縄は本土を守るための防波堤にされ、かつ捨石にされたということなんです。

「軍官民共生共死」の「共死」のみ


 20年4月26日、ラジオ放送で、鈴木貫太郎首相が沖縄県民に次のように呼びかけている。「沖縄にある全軍官民諸君、…一億国民共に一致団結し、もってこの大戦を戦い抜き、米英の野望を粉砕し、…不肖私自らも一億全国民の先頭にたって戦争一本の旗印のもとに総突撃を敢行し、…我共本土にある者も、時来たらば、一人残らず特攻隊員となり敵に体当たりをなし、いかなることがあろうとも絶対にひるむことなく最後まで戦い抜いて終極の勝利を硬く信じ…」つまり、この放送は、当時の首相が一億総特攻隊員になり戦うという、一億総玉砕の呼びかけであり、「玉砕方針」が政府の根本政策であったということを示している。このような過程で沖縄戦が戦わされたのである。この政府方針を受けて牛島司令官の沖縄守備軍への着任演説(訓示)があった。彼は、軍官民共生共死の一体化の実現をはかり、また防諜に厳に注意すべしということを強調した。しかし、「軍官民共生共死」を強調はしていたが実際にはそうではなかった。例えば、長参謀長は、米軍がいよいよ上陸しようというとき、県民はどうすればよいかという質問に対して、「県民は、ただ軍の指導を理屈なしに素直に受けいれて、全県民が兵隊になることだ。県民が軍の作戦に協力し食糧を確保することが重要である。敵が上陸したら、食糧輸送が困難になり、県民の餓死が起こる。住民が軍に食糧を求めても軍はこれに応じるわけにはいかん。軍は戦争のために重大な任務についているのだから軍の食糧は住民にはやれない」と語っている。つまり、「共生」の「共に生きる」はなくて、「共死」のみがあったのである。慶良間列島の「集団自決」においても食糧問題が絡んでいたのである。ある米軍記者はこのような沖縄戦を「醜さの極致」であったと記しているが、正にそうであったといえる。

日本軍の沖縄観は差別と偏見


 昭和9年、沖縄連隊司令部司令官石井寅雄が沖縄防備対策のために杉山に送った機密電報には要旨次のことが記されている。(1)沖縄全域に戒厳令を敷き、民間の権力をすべて軍隊に委ねる (2)沖縄は多くの島々からできているので一つの島を敵にとられても本島を防衛できなくなる。よって海軍力ですべての島を守ること (3)沖縄は琉球国であったことから県民の中には天皇の存在さえ知らない者も多い。したがって天皇への忠誠心がない。だから有事のときには監視しておかないとどちらへ向かっていくか分からない (4)有事体制になると、食糧難で全員が餓死する可能性がある。

 この機密電報の結果はどうなったか、戒厳令は、公布こそされなかったが実質的には公布されたと同じ状態になった。すべての権限が軍隊に握られてしまったのである。大本営が玉砕を前提にした沖縄戦であったから、その趣旨は当然にも現地の守備隊長たちにも伝わるわけです。(3)に関係するが、昭和20年の1月のこと、名護市、大政翼賛会北部支部で市町村長、県会議員、学校長、農協の会長、医者などを集めて「国士隊」という33名からなる秘密部隊が組織された。この「国士隊」は密かに住民の言動を調査し、首里の守備軍情報部へ密告し、軍に処刑させていたという事実もある。

 首里城の地下30メートルの深さに4キロにわたって守備軍はあったが、そこには1500人から3000人の兵隊が入っていて私もそこにいた。そこでは毎日毎日命令が出される。軍会報20年4月9日号には、日本語以外の言葉で話しすることを禁ずる、沖縄語で話しをする者は間諜として処分すると書かれていた。スパイとは法的、国際的に定義があるのだが、ここでは沖縄語を使うだけでスパイとみなされ処分された。このように日本軍は最初から沖縄県民に対して不信感を持ってみていたのである。

 『消えた沖縄県』という本では、昭和19年10月10日の那覇空襲のとき県知事が遠く離れた普天間の自然豪に隠れてしまったという記述がある。県庁の職員は被災の跡始末の仕事に追われていたが、決済などで必要な時、遠く離れたその壕まで通っていたという。その知事は政府と折衝があるといって東京に行ってそのまま帰ってこなかった。そして戦後香川県の知事になった。県庁の職員もまた課長以上は殆どが他府県(本土)出身であり、部長などは政府と折衝があるなどといって次々に本土へ逃げ帰っていく。県庁の業務がなくなり『消えた沖縄県』という本ができたのである。司令官までが米軍上陸前に逃げ帰ったという事例さえある。


 日ごろ国のために命を捧げるなどと大言壮語している人たちが、いざ戦争が始まると逃げてしまうというようなことが起こるわけです。現実に戦争というのはそういう状態で始まったわけなんです。ですから行政的役割はなくなって、ますます住民は軍隊の指示通りに動いていたわけなんです。

牛島司令官自らが「訓令」


 さて、沖縄の学徒隊、例えば勤皇隊、ひめゆり学徒隊などとしてどれだけが動員されたか、どれだけ死んだかという記録があります。戦争当時沖縄県には12の男子中等学校と10の女学校があったがすべての学校から動員されて戦場に送られていった。私などは学校から半そで半ズボン姿で三八式の銃と2個の手榴弾を持たされて送り出されたわけです。普通は法律に基づいて動員されるわけであるが、沖縄でのこのように戦場への動員には法律的な根拠はないわけです。(学徒動員で工場への動員の場合は法律が存在した)。昭和20年6月22日になって、男性の場合15歳から45歳、女性の場合17歳から40歳までを戦場に送ることができるという「義勇兵役法」が初めてできた。そのことは『沖縄戦と法律』という本に詳しく書かれている。

 「集団自決」問題に関連して言えば、梅沢さんは大江さんと岩波書店を名誉毀損として訴えているが、「自決命令」を出したのは助役で兵事主任であった宮里盛秀であって、それは遺族救済の為、役場当局が取った手段であるとしている。その証拠として宮里盛秀の弟・幸延が梅沢さんに渡したという「文書」を挙げているが、その「文書」は梅沢自身が書いて幸延に酒を飲まして酔っ払わせて判子を突かせたものであるということが証言されている。「つくる会」の人たちはこの「文書」を楯にとって、命令したのは梅沢ではなく兵事主任が命令したのだと主張している。兵事主任には命令する権限などないわけです。

 戦争中、私は「楠木正成」にちなんだ「千早隊」に所属していた。22名の隊員から構成されていたが、大本営が発表したニュースや戦況を壕の中に潜んでいる兵隊や民間人に知らせるという任務を負わされていた。20年6月18日、私たちは摩文仁の守備軍がある地下壕の中にいましたが、牛島司令官や長参謀長たち首脳陣が軍服で正装して集まり最後の酒盛りを交わしていました。その翌日の19日になって参謀たちは金モールのついた服を脱いで沖縄の女性の黒い着物に着替えてその豪から出て行くのを私は見送ったのです。そのときに日ごろ威風堂々とした参謀たちが沖縄の女性の着物を着て、しかも着物が小さいので白い腕が突き出ている、その様を見たとき私は戦争に負けたなと思いました。そのときは解散命令が出されていたのです。私たちも自由行動ができると思っていたのですが、戦後になっていろいろな資料を集めていたら、偶然にこういう「資料」(実物提示)が出てきたのです。この資料「訓令」には、陸軍大尉益永宛として「貴官ハ千早隊ヲ指揮シ軍ノ組織的戦闘終了後ニ於ケル沖縄本島ノ遊撃戦ニ任ズベシ」と書いてある。司令官牛島さんが直接こんな命令を出しているんですね。解散命令が出たのにこれからもまだ戦えという命令です。当時はそんな命令があったことは知らないのですが、このように「つくる会」の人のように「命令はない」といっていても実はいろいろな命令があるのですね。ただ渡嘉敷や座間味に限っては、沖縄守備軍が摩文仁に行くとき、軍の機密文書は焼き払えという命令が出ている。それですべての文書を焼き払ったという記録があります。だから、座間味や渡嘉敷でも命令の資料がないとはいえないわけです。しかし、それらは焼き払われた可能性が高いわけです。そういった問題もあって戦争の中ではいろいろなことが起きるわけです。普通だったら適正な法手続きを経て戦場に召集するのですが、沖縄戦ではそういう法手続きなどない中でさまざまな任務が命令される(お前は砲弾を担げ、おまえは食糧をもってこい、など)、ですから戦場では理屈や公式どおりにはいかないわけです。

 「つくる会」の人たちは戦争と法のことには触れていないのです。そういう点からしてもこの裁判は非常におかしいというほかないのです。

なぜあの犠牲が「名誉の死」か


 「つくる会」の人たちは、この裁判で、教科書から日本軍が沖縄の人を殺害したということを何としても消し去りたい、そして、住民は自ら進んで国のために死ぬことによって国の利益を図ったという殉国の美談として取り上げている。日本軍が住民を殺害することなどありえないとか日本軍が民間人に対して直接命令を下すことなど絶対にありえないなどとも書いてある。とくに曽野さんは生き残った人の話しを聞くと、「死んでいった人たちは死をもって自らの名誉を守った、と考えない人はいない」と語っているが、我々戦争体験者としてはあんな死をどうして名誉と考えられるのか、その辺が根本的に違うのです。

 私たちが動員されたとき命令書などはなくて、守備軍司令部から少佐がやってきて全校の職員を集めて「今日からお前たちは軍に動員された」と口頭で言うわけです。このような場合、「命令」は出されてはいないというのでしょうか。現実に口頭の命令で125名が動員されたのです。14歳未満の子どもたち約300名が「自決」したとか、また友軍から殺害された人が何名であったというようなことが具体的に戦場で起こったこととして記録に残されているのです。

 私は自分の体験に照らしてみて、今回の教科書問題で「命令」はなかったという言い方に強い疑問を持っております。以前に沖縄戦の本を書いた当時、53市町村がありましたが、そこには「市町村史」がそれぞれあり、さらに村には「字(あざ)」というのがあって、そこの人たちが「字史」というのを書いています。字史に住民の戦争記録を書いていますがその記述では想像以上の悲惨なことが書いてあるのです。そこには「命令」を聞いたという証言がいくつもあります。その人たちは嘘を書く必要などまったくないわけですよね。


イラク戦争と沖縄


 国会で有事法の件で自衛隊がどういうことをするかということが議論されたが、戦場では法律を守って戦うのなどということなどありえない、と発言した大物自衛官がいたけども、実際、超法規的にしか戦争はできないわけなんです。そういった意味で、国民の生命財産を守るために有事法制が必要だといわれてきたが、自衛隊法のどこにも国民の生命財産を守るとは書いてないわけなんです。国家の独立と安全・平和を守るとは書いてありますが、それで外交防衛委員会で質問すると、国家と国民は同じだという。軍事問題になると理屈や公式どおりにはいかないということがあります。

 2005年から06年にイラク戦争に沖縄の基地から米軍の6000名ぐらいが派遣されていますが、ほぼ1年間沖縄の基地を留守にしてイラクで戦闘に従事していたのです。米軍が日本の基地から戦争に出かけるときは事前協議の対象になっているのですが、しかし事前協議はなされないまま、沖縄からイラク戦争に出かけていっている。外交防衛委員会でこのことを指摘するとイラクにある米軍基地に移動したに過ぎないから事前協議の対象にはならないと答えるのです。すべてがそういうようにはぐらかされてしまう、こんなことは戦争状態になるとさらにひどくなるわけです。有事法制は国民の生命財産を守るために必要だといいますが、戦前にどれだけの有事法制があったか。330ぐらいありましたが国民の生命財産を守られてはきませんでした。

米軍の知られざる側面


 曽野さんや小林よしのり達が書いたものをみると、この「集団自決」を引き起こしたことで一番悪いのは米軍が無差別に砲爆撃をしたことだと書いている。ところが実際問題として米軍は沖縄に上陸する前に、沖縄には住民がどれくらいいて、どれくらい軍隊に動員され、どれくらいの非戦闘員が残り、ということを調べ上げて、サンフランシスコから10万人分の食糧と5万人分の女性のブラウスとか衣服、医薬品などを持って上陸しているわけです。鉄砲や機関銃は持ってはいたけど、ひたすらに住民を救出するための軍政要員が5000人位いたのです。必ずどの戦闘部隊にも住民を救出るための要員が10人位ずついたのです。この人たちがいなかったら沖縄戦の被害者数は何倍にも増えていたと思われます。

 日本軍では方言を話すだけで処分するということがあったが、米軍はどうしたか。沖縄には方言しか分からない人がいるということを知っていて、ハワイとかにいる沖縄系の2世たちの中から方言の話せる人たちを集めてチームを作らせたのです。この人たちを沖縄に連れてきて、方言を使って洞窟に隠れている人たちに呼びかけて多くの住民を救ったということがあります。無差別爆撃というが、米軍は全く逆のこともしたんですね。

 戦争が終って1年間は通貨がなく食べ物も働く場所もないとき、米軍は住民を基地の中で働かせて給料を払ったり、米軍の余っていた食料品、医薬品、テントなどを提供してくれて多くの人が助けられたのです。このようなことがあって沖縄県民の米軍に対する気持ちは1953年ごろまでは友好的で感謝する人もいたのです。ところが米軍に対する見方が変わったのは沖縄の産業の7割であった農家の土地を銃剣とブルドーザーで奪って基地にしていった時期からです。そこから米軍は支配者に変わっていったのです。土地が亡くなった人は南米のボリビアに集団で移住させられて大変苦労されたのです。

戦後のアメリカ軍と沖縄


 沖縄は戦後なぜ本土から切り離されたのか、27年間も米軍の統治下に置かれたのか。

 それは戦争に負けた結果だとよく書かれているが一般的にはそうであるかもしれない。しかし、それはおかしいと思う。日本が戦争に負けたということはなにも沖縄だけが負けたというのではなく日本全国が負けたのである。それなのになぜ沖縄だけが切り離されたのかという問題が残る。

 20年3月26日、米軍は慶良間諸島に上陸し、その翌日には「米国海軍軍政府布告第一号」を出したのですね。この布告は、南西諸島は今日から米軍の占領下に置かれるという宣言文である。占領というのは国際的に定義があって戦争で勝った側がそこに新たな主権を確立したときに占領が始まるということになっている。ところが、米軍は上陸した途端にまだ戦争が勝つか負けるか分からない段階で布告を出して米軍の占領下に置くとした。それはアメリカには初めから南西諸島を日本から切り離すという計画を持っていたからです。

 南西諸島というのは奄美大島を含む北緯30度以南を指す。そのことについてアチソンが議会で証言しているが理由は二つある。一つは、30度の線は大和民族と琉球民族の境目の線であるということ、言語や生態系も違うとされている。もう一つは、沖縄戦のとき30度以北は日本軍の本土防衛軍、それ以南は南西諸島防衛軍という部隊が配属されていた。つまり日本の軍隊の配置からしても日本は沖縄を本土とはみなしてはいなかったということを米軍も切り離しの根拠としているのである。


 アメリカは41年に太平洋戦争が始まった直後から、国務省とペンタゴンで沖縄を本土から切り離してアメリカの単独占領下に置くという計画を作り始めていた。アメリカには、沖縄が日本によってアジア侵略の踏み台にされていたという認識があり、沖縄を切り離して、再び侵略の踏み台にならないように国際機関に委ねて非軍事化するという政策をつくっていた。戦後の対日政策は日本の非武装化、非軍事化、再びアジアを侵略させないという民主化の計画を基本としていた。1943年コロンビア大学に沖縄研究調査プロジェクトができて徹底的に沖縄について調査をしている。沖縄県からペルーやハワイなどに移住した人の意識調査をし、本土の人たちに対してどんな意識をもっているか、政府に対してはどんな意識を持っているかなどを調査している。そこで調査したものを冊子にして沖縄戦の際、沖縄に上陸する米兵に持たせてもいた。

明治政府の沖縄観、廃藩置県、沖縄併合


 今年は薩摩侵略から400年、琉球処分から130年ということで沖縄ではいろんな行事が行われている。沖縄は他府県に比べて廃藩置県が8年遅れているのです。沖縄の廃藩置県と他県のそれとは違うわけです。スタンフォード大学のジョージ・カーは彼の著作「沖縄の歴史」で次のように記している。明治政府は同一民族、同一文化、同一言語をもつ近代的な国民国家づくりのために廃藩置県をやったが、沖縄の廃藩置県は同一民族として沖縄を迎え入れるためにではなく、日本の南の門を固めるため、日本の軍隊を常駐させるために沖縄の土地が欲しくてやったのである。「沖縄学の父」といわれる伊波普猷も同じようなことを言っている。また、ハワイ大学で「沖縄の宗教」を書いている人がいる。その中で沖縄の文化と本土の文化は根本的に違うということが指摘されている。日本の文化はウォーリアルカルチャー、侍の文化、武力を称える文化であり、沖縄の文化は「軍国主義の欠落した文化」、「優しさの文化」、「武に対する文」の文化、「女性文化」などと記している。一例を挙げると、大和では床の間に槍・鎧・兜・刀を飾っているが沖縄では三味線を飾っていると指摘している。

 廃藩置県のとき明治政府はいろいろな命令を沖縄に出したが、二つの命令だけは拒否した。一つは中国との関係を断ち切れという命令、もう一つは熊本の第6師団の分遣隊を常駐せしめるという命令であった。沖縄は、軍隊は置かさないといって拒否の姿勢で臨んだが結果的には明治政府は軍隊400人と警官1600人を引き連れてやってきて強制的に暴力をもって廃藩置県を強行したのであった。

 このような歴史的経緯をアメリカは研究していて、このような背景をもとにして、沖縄を再びアジア侵略の踏み台にさせないために沖縄を日本から切り離したということがようやく最近の研究で分かってきたのです。だから戦争に負けた結果切り離されたということではないのです。非軍事化して25年ごとに国連などの機関、国際組織が監視して軍事化されていないか監視するということまで話し合われていたのです。

 中国の李鴻章は明治12年に、日本政府がこのように暴力を持って沖縄を併合したら、必ず次は台湾を、朝鮮を、そして中国を侵略して取りに来るだろうと予言した。その通りになってしまったのですね。

沖縄米軍基地と安保は国益であるか


 マッカーサーが進駐したとき、連合軍は30万足らずで日本占領にやって来た。そのとき、日本にはまだ400万の正規の軍隊が残っていた。そこで日本軍が反乱を起したらどうするかということが議論になった。マッカーサーは沖縄に軍隊を置いておけばどんなことにも対応できると言って沖縄を逆の形で軍事化していったわけです。それが今日まで沖縄の基地という形で残っているわけです。


 今、一番嘆かわしく思うのは、日米安保は国益にかなう、日本の平和を守るためには不可欠であるという言い方があるが、安保条約には日本の沖縄に基地をおくとは書いてないのです。全土基地方式といって、もともと日本全国どこにでもおけるようになっていた。平和条約を結ぶとき当時の吉田首相は平和条約を結ぶ条件として、将来基地を返して欲しいけれども今はアメリカが基地として使いたがっているから米軍に基地として貸すということを条件の一つとして書き込むことを条約局長・西村熊雄に指示した。いつまで貸すかについてはバミューダ方式で貸すようにと指示した。バミューダ方式とは99ヵ年ということである。この吉田首相の指示が今でもまだ生きているのだろうかとさえ思うわけです。

 今、辺野古に基地を作ろうという計画があるが、アメリカの会計検査院ではさまざまな予算面の調査をし、議会に対して政策提言を行っている。それをみると、辺野古の計画は日米両国の政府の発表とは大分違う、普天間の副司令官の文書では、今の普天間を4分の1に縮小して基地を作ると書いてあるが、会計検査院が調査したアメリカ側の文書では全く違っていて、航空母艦35隻分の広さ、つまり関西空港並みの広さになる。予算も7千億ぐらいといわれていたものが、資料では1兆から1兆5千億かかると書いてある。また、新しくできる基地は普天間の代わりといわれているが、これも違う。普天間より軍事力を20%強化して作るとなっている。普天間では民間住宅が近いので爆弾を積めない。嘉手納にいってから積んでイラクに出撃している。今度作られようとしている基地は海上からも陸上からもすぐに爆弾を積み込めるようにすると書いてある。さらにMV22オスプレイというヘリコプターを配備するという計画でもある。新基地完成までには会計検査院の資料では少なくとも12ヵ年かかると書いてある。そればかりか、運用年数40年、耐用年数200年の基地と書いてある。ですからそんな基地を認めたら我々は子どもたち、孫たちにどんな望み残せるのかということになるのです。だから戦争を体験したオジイ、オバアは4年間も座り込みをして闘っているのです。

 もし日米安保が本当に日本の国益にかなうというのであるならば、本土の人も負担と責任を分担すべきだということを強調したいのです。これまで沖縄の痛みを他へ移すべきではないと言ってきたが、最近はあまりにも政府が沖縄の意見を聞いてくれないものだから、基地を本土に移せ、その痛みを分からせないと沖縄の基地の問題は理解してもらえないという空気が強まってきている。また沖縄は日本から離れて独立すべきだという空気も出てきて、独立党ができ、独立研究所ができ、独立の本がたくさん出版されるようになってきているのです。