15年戦争資料 @wiki

黄色い仮面のオイディプスーアイヌと日英博覧会

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
北大文学研究科紀要115(2005)

黄色い仮面のオイディプスーアイヌと日英博覧会一

宮武公夫


序章


20世紀初頭に開催された,セントルイスとロンドンの博覧会に,それぞれ10名近くのアイヌの夫婦,若者,幼い子供達が海を渡って参加し展示された。それらの人々は数ヶ月の間,北海道からはるぱる運ぱれたチセの中で生活し,儀礼を行い,工芸品を作って観客に販売した。それらの博覧会は,ほとんどの西洋人や,和人である日本人が,初めてアイヌの人々と出逢ったと同時に,アイヌの人々人友にとっても見知らぬ人々との最初の日常的な接触を経験する機会だった。〔注1〕それは,アイヌ,日本,そして西洋という三つの異質な要素が不恩議な姿で混淆した過渡的な空間だった。



そのような「ヒトの展示」が行われた博覧会が開催された明治末期は,日清,日露の戦争に勝利して,国際社会の一員として認知されるようになった日本が,その「優秀性」や「独自性」を自己確認し,世界の中での「日本」という強い自己認識を持ちつつある時代だった。その一方で,先住民社会の解体が進み,多くのアイヌの人々は伝統的な共同体から強制的に追放され,日本社会に包摂されていった。1869年に北海道と改称された蝦夷地では,伝統的な習俗の多くが禁止され日本語教育が進められる一方で,1899年には旧土人保護法が公布され,日本への同化と排除が混在する政策が進められていた。(小熊1999;50-69)また1895年の「台湾割譲」以来,いち早く植民地統治の行われていた台湾でも,同化政策の難航と予想外の抗日闘争に苦慮していた。さらに,目英博覧会が開催された1910年は「日韓併合」の年であり,その前年には伊藤博文が独立運動家の安重根にハルピンで暗殺されるなど,韓国・朝鮮においても民族意識が高まりつつあった。



このように,博覧会が開催された20世紀初頭は,先住民社会が急速に日本社会に包摂され,それまでの生活環境を奪われ,伝統的な文化が破壊されたのと同時に,日本社会は植民地主義を強化し,ファシズムヘと突き進んでいった。その時代は,日本が西洋との関係を通して近代社会のなかで自己成型すると同時に,アイヌが入れ子構造のように日本と西欧を通した自己成型を模索する過程でもあった。そして,日本が国民国家として純化されるにつれて,アイヌと日本の関係はそれまでの柔軟さを失い,非対称的なものへと固定化されてゆく。しかも,アイヌにとっての時代は,同化と差別という矛盾を内部に孕みながらも,それを解消する制度的あるいは理論的手段を備えることが許されない,二重拘束の固定化でもあった。このように,20世紀初頭から1910年の日英博覧会までの記録を通して見ることの出来るアイヌは,その後の日本社会を支配した「単一民族国家」神話が成立してゆく過程で,歴史(先住民としての歴史)が否定される一方で,出自(独自のアイデンティティ)を明らかにすることを禁止され,「日本人」を演じて生きなけれぱならなかった。それは20世紀末まで続く,アイデンティティを否定されながら,「日本人」を演じ続けなけれぱならなかった,一つの悲劇の始まりだったといえるだろう。本稿では,このような結節点的な時期に開催された博覧会におけるけるアイヌの展示を通して,日本社会のアイヌヘのまなざしの変容と,アイヌの人々のしたたかな対応を明らかにしてゆきたい。



第1章 日英博覧会と「日本余興」



1902年に結ぱれた日英同盟の下,友好関係にあった日本と英国が新時代を告げるぺく開かれた日英博覧会は,3年あまりの準備期間を経て,1910年の5月14日から1O月29日までの約6ヶ月間,ロンドンのホワイト・シティーで大規模に開催された。そして日本はこの博覧会に,それまでの博覧会参加費用としては最高額の208万円を注ぎ込んだ。(Hotta-Lister1999;222)このように入念に準備された日英博覧会だったが,開催直前の5月6日に英国王エドワード七世が急逝するという予想外の出来事により,英国中が喪に服するため開会式が中止になったほか,新聞や雑誌には服喪中に祝祭気分を控えるため,博覧会を大きく伝える紹介記事はほとんど掲載されなかった。そのような悪条件下で開催されたにもかかわらず,もっとも盛況だった9月24日の日本祭当日には,1日で46万人以上の観客が訪れたほか,開催期間の合計では835万人もの観客が訪れ,英国における博覧会としては大きな成功を収めた。(Mutsu2001:179)



この博覧会では,他の博覧会と同様に,主要な展示館として産業宮,歴史宮,芸術宮などとよぱれる大きな建物が建てられ,当時の革新的な産業技術や,各地の工芸・美術品の展示が大規模に行われた。そのほか,日清,日露の戦争に勝利して,東洋における中心的地位を確立しつつあった日本は,海外の博覧会では初めて,34名からなる軍楽隊を参加させたほか,赤十字展示を行って国際社会の一員であることを誇示した。さらに,巡洋艦生駒の乗員など約800名が出席する大規模な記念晩餐会が開催され,東洋の軍事大国としての日本のすがたを英国民に強く印象づけた。また,東洋宮と呼ばれる展示区域には,日本の植民地支配下におかれて間もない台湾,満州,朝鮮などの展示館が作られていた。



これらの公式出展物のほかに,観客を楽しませるための余興区域には,伝統的な日本のすがたを紹介する日本村が造られた。そこでは,古来の日本の生活や文化を再現したほか,職人による工芸品の実演販売などが行われた。そして,このような余興区域の一角に,日本から3棟のチセが移築され,10名のアイヌの人々が半年余り生活していた。(Hotta-Lister1999)



このような余興について,明治45年(1912年)に農商務省から出版された旧英博覧会事務局事務報告』は,詳細な報告を載せている。そこでは,余輿の重要性が次のように述ぺられている。



「近時各国ニ於ケル博覧会経営方法ハ出品物ノ選択ニ深ク意ヲ用フルト同時ニ大ニ余輿ノ興行ニ力ヲ致スニ至レリ蓋シ観覧人ヲ誘致スル上ニ於テモ又余興場ニ課スル敷地料及特許料等カ博覧会ノ重要ナル一財源ヲナス上ニ就テモ余輿ヲ博覧会経営上ノー大要素トナスニ由ルモノナルヘシ是ヲ以テ日英博覧会当事者ニ於テモ亦大ニ余輿ノ為メニ意ヲ注キタリ」(農商務省1912;866)



また,博覧会前年の明治42年9月6日に,陸奥廣吉から日英博覧会事務官長和田彦次郎に宛てた「余興に関する件」という報告には,当初日本側が計画していた余興の企画案と具体的な展示計画が示されている。この報告で「余興の種類」として挙げられているのは,パノラマ,相撲,田園模型,各種の見世物芸,台湾生蕃村落の模景,活動写真,奈良大仏の模造などで,そこにはまだアイヌや台湾先住民の展示は含まれていない。また,『日英博覧会事務局 事務報告』は,余興には博覧会事務局が「直接従事」するのでなく,選択監督上の許否についての権利を保留するだけで,「本邦ノ品位ヲ損スルモノハー切之ヲ許容セサルコトニ方針ヲ定メ」,「英国当事者ノ希望ヲモ参酌シ」決定するが,その具体的な実行方法については当事者に任されているとしている。



ところで興味深いことに,この報告には,「明年の博覧会々場ニ開設セラルペキ諸種ノ本邦余輿ヲ一手ニ経営スル為メ英国有志者ヲシテ一ノシンジケートヲ組織セシムル事」と書かれ,少なくとも3名の「英国紳士」からなるシンジケートと,交渉および事務処理役の日本人が任命されたと書いている。(外交史料館資料『日英博覧會開設一件』)当時の日本には,海外での博覧会「余興」(attraction)の準備や運営だけでなく,経理面や運営面に精通した人材がまだ育っていなかった。そのため,「日本余興」の準備のために活動する,英国人からなる「シンジケート」が組織され,運営経費として英貨5万ボンドが日本側から出資されたのだ。その代表として任命されたのは,英国美術院会員のアルフレッド・パーソンズだったが,パーソンズが来日困難になったため,その代理として画家のジュリアン・ヒックスが任命され,明治42年11月27日には交渉委任の覚書が交わされ来日している。ヒックスの活動には,「日本官憲ヲシテ同人ノ権能ニ関シ安意セシメム」として,日本の行政組織が協力することになった。そして,ヒックスが「日本余興実演者」との直接の交渉や契約に当たり,実演者の帰国費用などを支払うために,5千ボンドが駐日英国大使に供託された。また,芸人,職人などの雇い入れや,事務処理や監督の任に当たる日本人として,1893年のシカゴ博覧会や,1904年のセントルイス博覧会など,当時では数少ない海外の博覧会での経験をもつ,輿行師の櫛引弓人が「余興統轄代表者」に採用された。(農商務省1912: 867-870){注2}



それでは,英国人のシンジケートを中心に企画された展示内容は,どのようなものだったのだろうか。準備段階の資料には,すでに展示内容として「アイヌ村落」や台湾屋外余興が含まれていた。



「アイヌ」村落 建物装置等一切シンジケート負担
     「アイヌ」十人監督者一人給料,手当,旅費支出ノ上雇入ルコト
     適当ノ人二委任シテ経営スルコト
台湾屋外余興 同右
(外交資料館資料『日英博覧會開設一件』明治42年11月)



これと同様の余興の内容を,『日英博覧会事務局 事務報告』にも見ることができる。



一 会場内二日本家屋数軒ヲ建築シ其ノ内二於テ日本物品ノ製作実演ヲ為スコト
ニ 「パノラマ」的ナル我田園ノ模型
三 アイヌ村落
四 台湾蕃人ノ生活状態
五 本邦演劇
六 独楽曲芸,手品,山雀芸,水芸等
七 活動写真
八 要馬術



これらの資料から,日英博覧会におけるアイヌや台湾先住民の「ヒトの展示」が,博覧会経営上重要な要素であり,興行による利益を目的として,英国人シンジケートによって企画され実現したことが理解できる。それは,植民地経営と結び付いて植民地統治の成果と正当性を示すための,台湾館や朝鮮館の植民地展示とは対照的に,観客を集めるために経営上重要な,見世物や余興の一部として明確に位置づけられていたといってよい。



第2章 アイヌの展示



ヒックスは,1909年12月14日に東京に到着し,16日には博覧会東京事務局に出向いて打ち合わせを行っている。ヒックスの立案による,アイヌと台湾先住民の渡航案は,次のようなものだった。(農商務省1912:868-870)
※農商務省 1912「日英博覧会事務局 事務報告」



「台湾生蕃及『アイヌ』ニ関シテハ事務局ハ照会斡旋ノ労ヲ執リ而テ余輿ノ各種類ヲ通シ芸人及職人ノ員数給料等ハヒックスト余輿当事者ト直接ノ交渉ニ因テ之ヲヶ決定シ東京事務局之ニ承認輿ヘタル末結局二月ニ入リテ彼我当事者閥ノ契約締結ヲ見旦興行ニ要スル器具及諸般材料ノ購入等ヲ了シ三月二日出帆ノ熱田丸ニテ左ノ芸人及職人ヲ渡英セシムルコトトナレリ(余興参加者の職業別および員数の表が挿入される)右ノ外台湾生蕃ニ就テハ総督府民政長官及ヒックス間二契約締結セラレ両社ノ生蕃二十四人警部一名巡査一名監督ノ下ニ二月十六日門司ヨリ乗船シテ渡英セリ」(農商務省1912;869-872)



『日英博覧会事務局 事務報告』の日本余興参加者の一覧表には,男187人,女48人の総勢235人が余興参加者として挙げられている。そのなかには,陶器,織物,金属細工など多くの工芸分野の職人とともに,奇術師,丸太乗り,独楽回しの見世物芸人,それに大碇鳳凰をはじめとする角力力士の一行35名などが含まれていた。それらに加えて,男6名,女4名の計10名のアイヌの人々のほか,「アイヌ監督」と呼ばれる男1名が含まれていた。これら日本からの余輿参加者のほか,「総督府民政長官及ヒックス間に契約締結セラレ」た台湾生蕃24人と,監督に当たる警部1名巡査1名が2月16日に門司から乗船して渡英した。



(中略)



では,このような余輿の展示とは,具体的にどのようなものだったのだろうか。朱塗りの楼門や21軒の日本家屋を構えた「フェアー、ジャパン」(美的日本)と呼ぱれた地区には,最大の余興施設が設けられた。そこでは職人の製作実演や工芸品の販売,喫茶店での日本女性による日本茶の提供,手品の公演などがおこなわれた。また,「ポエチック,ジャパン」(詩的日本)と呼ばれる地区では,大きな日本庭園や8軒の日本家屋を設けた村落風景が造られ,日本の原風景を体験することができた。さらに,「『アイヌ』村落(約900坪)及台湾部落(約1300坪)ニシテ 一ハ『アイヌ』部落ヨリ斉シ来リタル数個ノ茅家ヲ以テ部落ヲ構へ『アイヌ』人之ニ分居シテ其ノ生活ヲ営ムカ如ク設備シ 一ハ蕃社ニ模シテ生蕃ノ住家ヲ造リ蕃社ノ情況ニ擬シ生蕃此ノ処ニ生活シ時ニ相集リテ舞踏シタリ」というように,アイヌや台湾先住民の展示が行われていた。(農商務省1912;873) このほか,会場内で販売された【公式ガイドjでは,「余興(The Attraction)」として角力小屋や歌舞伎小屋などが紹介されているほか,「フェアー,ジャパン;日本の本質(Fair Japan;Japan in Essen㏄e)」として,宇治平等院を模した建物や台湾集落と並んで,アイヌのチセが紹介されている。(Japan-British Exhibition,Official Guide;1910:81-88)



(中略)



第3章 展示された人々(略)




第4章 ロンドンでのアイヌ(略)




第5章 アイヌの帰国(略)




第6章 日英博覧会の記憶(略)




終章(略)



目安箱バナー