15年戦争資料 @wiki

明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは・・

最終更新:

pipopipo555jp

- view
管理者のみ編集可
<2004年 1月>
兵は凶器なり15年戦争と新聞メディア
『兵は凶器なり』③   -15年戦争と新聞――
1926-1935

明治から昭和戦前期までの言論弾圧法の実態とは・・

前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)


新聞への足かせは、明治政府が誕生して間もなくできた。

1868(慶応四)年六月十八日、新政府は治安維持の必要上、許可なくして新聞の発行を禁止した。翌1869(明治二)年三月二十日に新聞紙印行条例を布告し、新聞紙の発行を許すと同時に厳重な取締まりを行った。これがわが国での新聞紙法のはじまりである。

1870(明治三)年には鉛活字の製造術が完成し、新政府が新聞紙の発達を保護助成したこともあって、各地で発行が相次ぎ、いわゆる御用新聞や、政府に批判的な新聞などがあちこちにできた。

 ところが、自由民権運動が活発になり、騒擾事件が起こるようになると新政府は態度を一変、1875(明治八)年六月新聞紙による名誉毀損の処罰を設け、編集人や筆者に厳刑を科することになり、言論の〝暗黒時代″が到来する。

 明治、大正と新聞、出版ジャーナリズムが成長するにつれ、新聞紙法との間で熾烈な戦いがくり返されてきた。

 日露戦争後には各新聞社、通信社の連合のもとに、全国の記者が初めて団結し、新聞紙法上の体刑の全部排除を決議し、新聞紙法改正の運動が全国的に広がった。

たまたま待合「菊隅」女将の変死事件につき、予審の内容を新聞紙に掲載したため、東京十四社の新聞が告発される騒ぎがあり、この改正運動はいっそう広がっていった。

1・・・新聞紙法の悪法たる理由


1908(明治四十一)年に改正案が村松恒一郎らの名義で議会に提出されたが、無惨にも改悪されて昭和の初めまで、この改正新聞紙法がまかり通った。

 美土路昌一著『明治大正史-言論篇』【朝日新聞社1930 年刊】によれば、その新
聞紙法の悪法たる理由をこうあげている。

  1. 新聞紙の致命傷たる発行禁止制度
  2. 記者に対する体刑処分
  3. 禁止事項中、特に「朝憲紊乱、安寧秩序の紊乱」なる抽象的表現
  4. 予審内容の掲載禁止、検事の差止命令権
  5. 正誤文に関し無条件の掲載義務

 こうした悪法は、「政府当局をして幾度か、政権擁護の目的のため濫用せしむるの結果を招き、事実の報道、真実の国論をなし能はざらしむる反動政治の遺物(1)」と批判している。

 美土路の指摘はその通りに現実となって、日本に恐るべき惨害をもたらす。新聞の機能を奪い、真実をおおい隠した報道の明治以来のツケが一度に回ってくるのである。

2・・・普通選挙法と抱き合わせで、治安維持法を改悪


 昭和に入って、1928(昭和三年)に普通選挙法と抱き合わせで、治安維持法を改悪した。

 反体制派はもちろん、学問の自由や研究の自由も治安維持法で容赦なく取締まられる。そして、新聞紙法、出版法が国民の目、耳をふさぎ、戦争へとかり立てていく。治安維持法と新聞紙法はいわばセットになったものだが、これまでは治安維持法だけが悪法として大きくクローズアップされすぎていた。

新聞紙法の何たるか、それがいかに機能し、新聞を軍部や当局の宣伝機関紙と化し、国民を欺き続ける源になったかをじっくりとみてみよう。

 新聞紙法は複雑多岐にわたっている。その主要な内容と、言論弾圧のテコになった条項などを中心に紹介しよう。

 新聞紙法第二十三条では「内務大臣は新聞紙掲載の事項にして、安寧秩序を紊し、又は風俗を害するものと認めたる時はその発売及び頒布を禁止し、必要においてはこれを差押えることができる」と簡単に規定している。

 このような抽象的な規定では、これは安寧秩序を乱すか、風俗を害するかの当事者が判断に苦しむ場合が少なくない。

 このために、当局 ――この場合は内務省警保局などが、重大事件が起った場合はあらかじめ禁止される事項を関係者に通知して、この種の記事を掲載しないように注意を喚起した。

3・・・掲載差し止め事項の内容は3種類


 当事者はこれによって不慮の損害をまぬがれると同時に、当局も新聞記事の取締まりに徹底を期することができるというわけだ。

 その新聞記事差し止め処分は掲載差し止め事項の内容によって、次の三種類となった(2)。
  • (一)示達――当該記事が掲載された時は多くの場合禁止処分に付するもの。
  • (二)警告――当該記事が掲載された時の社会状勢と記事の態様如何により、禁止処分に付することがあるかも知れないもの。
  • (三)懇談――当該記事が掲載されても禁止処分に付さないが、新聞社の徳義に訴えて掲載しないように希望するもの。

以上の示達、警告、懇談の三種類だが、一方的な示達、警告が圧倒的に多く、懇談はわずかであった。

示達、警告は本来、法的な根拠を持たないが、発禁や差し押さえにつながるため、新聞社や出版社はたまったものではない。

 では、どのような場合に掲載差し止めが出るのか。報道できない内容は多方面にわたっており、時代の進展、戦争へ一歩一歩進むにつれてよりきびしく、広範囲になっていった。

4・・・多岐にわたった掲載禁止事項、16 項目で恣意的


掲載禁止事項は次のような多岐にわたっていた(3)。

  1. 公判に付する以前における予審の内容
  2. 検事差止めの捜査又は予審中の被告事件に関する事項
  3. 公開を停めたる訴訟の弁論
  4. 掲載許可なき官公庁や議会において公にしていない文書
  5. 掲載許可なき公開していない会議の議事
  6. 公にしていない請願書、又は訴願書
  7. 犯罪を煽動、もしくは曲解する事項
  8. 犯罪人、被告人を賞讃し、救護する事項
  9. 被告人を陥害する事項
  10. 同一趣旨の将来の掲載につき内務大臣の差止めたる事項
  11. 軍事に関し陸海軍大臣の禁止、又は制限したる事項
  12. 外交に関し外務大臣の禁止、又は制限したる事項
  13. 安寧秩序を紊乱する事項
  14. 風俗を壊乱する事項
  15. 皇室の尊厳を冒涜する事項
  16. 政体を変改し朝憲を紊乱する事項

 新聞社や出版社はこうした掲載禁止、差し止めに引っかからないように、あらかじめ「革命」「共産主義」などの言葉は伏字として○○○や×××に直す自衛手段をとった。

この伏字は検閲が厳重になった1928-29年ごろから一挙に増え、社会科学関係書の場合、何行にもわたって削除や××や○○の伏字だらけの本が氾濫する事態となった。

 これだけではなかった。

検閲の基準は広域にわたって巧妙に網をかぶせられていた。例えば安寧秩序をみだしたり、風俗を害するという規定だけで、禁止の基準は極めて抽象的でどうにでも拡大解釈可能なものであった。

5・・基準は抽象的でどうにでも拡大解釈可能


 これは具体的に制限の基準を示すことは、安寧秩序や風俗社会の変遷や、時代の推移によって変わっていくものだから無理というのが表向きの理由だった。

しかし、官憲にとっては抽象的な規定で幅をもたせ、自分たちに都合の悪いものは、拡大解釈してどうにでも自由に取締まれる極めて巧妙な内容にもなっていた。

 この点は当局側も認めていた。

「出版警察報」第六号(昭和四年三月号)の中の『「安寧秩序紊乱」の限界』の中で次のように指摘している。
「仮令 取締官庁の認定には誤りがなくとも、見解の相違で、言論圧迫など云う非難の声も聞くこともあるし、又、著作権発行者の側から見れば『安寧秩序紊乱』の範囲が取締官庁の自由認定に委せられて居るが為に、言論自由の保障は実際に於て確保されて居ない状態となる」
この中で、当局は
「現行制度の不備の結果、出版業者には同情に値する場合がある」
とも書いている。

6・・クモの巣にからまれた言論の自由


言論の自由はクモの巣のように網が張りめぐらされ、確実に手足をしばられ封じられていった。安寧秩序紊乱の一般的な検閲基準は、さらに次のように定められていた。あまりにも、はん雑だが、戦前の言論弾諾実態、それも、太平洋戦争の始まる以前(1935=昭和10年まで)の実態の一端にふれてみよう(4)。

  1. 皇室の尊厳を冒涜する事項――刑法不敬罪にいわゆる皇室と異なり、極めて広義に解し、古今に亘り万世一系の皇室総べてを意味する。故に歴代天皇、皇族に関する歴史上の事蹟も冒涜するならば、これに該当する。又、直接皇室自体に関するものでなくとも、これに関連する三種の神器等に関する事も皇室に影響を及ぼすものなので、不穏なものはこれに該当する。
  2. 君主制を否認する事項――直接、否認するのではなく、単に歴史的事実として君主制の崩壊を叙述するものといえども、その記述方法、筆致より判断し、このような主張、宣伝をなすものと認められる時は、これに該当する。
  3. 共産主義、無政府主義の理論、及び戦術戦略を宣伝し、もしくはその運動の実行を煽動し、又はこの種の革命団体を支持する事項――単に理論の学術的研究を目的とするに止まるものは寛大に取扱ってもよいが、一般大衆に対し革命常識の培養と主義の宣伝の効果をもたらすと認められるものは厳重な取扱をしなければならない。
  4. 法律、裁判など国内権力作用の階級性を高調し、その他はなはだしくこれを曲説する事項――法律や裁判所はプロレタリアに対する階級的圧迫弾圧の武装機関の拷問などに関する記事で、その程度により国権作用を曲説し、作用を害すること大なるものは禁じなければならない。
  5. テロ、直接行動、大衆暴動を煽動する事項――宣伝ビラなどで処分せられるのはこの項が多い。
  6. 植民地の独立運動を煽動する事項――直接記事のみならず、植民地官憲の統治を論難攻撃するものといえども、その方法、時期いかんによっては禁止すべきである。
  7. 非合法的に議会制度を否認する事項――社会革命を基調とするものや非合法手段により議会の廃止を論議するものはこれに該当する。
  8. 国軍存立の基礎を動揺せしむる事項――国軍の存立を呪咀、否認し、又は軍紀の破壊を煽動し、ひいてはその存立を危くするもの、又は単に反軍国主義的宣伝をなすものでも、その筆致極端なものはこれに該当する。
  9. 軍事上、外交上、重大なる支障をきたすべき機密事項
  10. 外国の君主、大統領又は帝国に派遣せられた外国使節の名誉を毀損し、これがため国交上、重大なる支障をきたす事項
  11. 財界をかく乱し、その他著しく社会の不安を惹起するような事項
  12. 犯罪を煽動し、もしくは曲解し、又は犯罪人、もしくは刑事被告人を賞賛、救護する事項
  13. 重大犯人の捜査上、甚大なる支障を生じ不検挙により社会の不安を惹起するような事項
  14. 戦争挑発のおそれのある事項
  15. その他、著しく治安を妨害するものと認められる事項――例えば天災地変の予言など。

一つ一つの事項に幅を持たせて、当局の意志で、都合が悪いと解釈すればどのようにでも取締まれる。ファシズムの一つの典型が、この法の無限性の中に象徴されていた。


7・・・風俗壊乱記事の検閲基準もがんじがらめ


風俗壊乱記事の検閲基準も次のように決められていた(5)。
一般的標準は春画淫本、性欲又は性愛に関連する記述で、淫猥羞恥の情を起こして、社会の風致を害する事項。陰部を露出した写真絵画、絵葉書の類。

陰部を露出しなくても醜悪挑発的に表現された裸体、写真、絵画、絵葉書の類、男女の抱擁、キスの写真、絵画、絵葉書、堕胎の方法を紹介した事項、残忍なる事項、遊里、魔窟などの紹介で煽動的にわたり、又は好奇心を挑発する事項、その他善良の風俗を害する事項――
などとなっている。

 こうした多項目な、幅広い報道差し止め事項を破って、敢然と報道した場合はどうなるか。その場合には発売禁止、きびしい処分がはね返ってくる。禁止項目の内容によって内務省、陸海軍大臣、外務大臣、検事にその権限があった。

 新聞紙に対する行政処分の種類、原因、権限のある官庁は次のようになっていた(6)。

  • (一)発売頒布の禁止
    • 安寧秩序素乱、風俗壊乱(内務大臣)
  • (二)掲 載 禁 止
    • 発売頒布を禁じた時、その原因事項と同一主旨の事項につき必要ある時(内務大臣)
    • 捜査又は予審中の被告事件に関する事項につき必要のある時(検事)
    • 軍事に関する事項につき必要のある時(陸海軍大臣)
    • 外交に関する事項につき必要のある時(外務大臣)

 では、各年度の具体的な差し止め実態をみよう。

8・・満州事変以来、差し止め件数激増


1931(昭和六)年9月の満州事変以来、差し止め件数もうなぎのぼりに増え、1932(昭和七)年には差し止め件数はピークに達した。

1932年の差し止め件数は64件で内訳は示達44件、警告19件、懇談1件となっている。これは1931年の実に六倍に激増、「安寧秩序紊乱」にふれた新聞法違反は1932年は2081件で前年よりも2・5倍、一九二六(昭和元)年の実に8倍、出版法も含めた全体の件数では4945件にのぼり、最高を記録した。翌1933年も4008件とほぼ横バイだったが、共産主義運動が壊滅させられたため、1934(昭和九)年には、1072件と一挙に激減した(7)。

 以後、戦争のドロ沼化とともに、何も書けないキバを抜かれた新聞と化していく。1932年度の差し止め処分の内容は次のようになっている(8)。

満蒙事変(ママ)に関する事項  27件
上海事変に関する事項  14件
警視庁前不敬事件に関する事項   1件
五・一五事件に関する事項   1件
財界攪乱に関する事項  10件
軍事的機密に関する事項   7件
治安維持法違反被疑者検挙に関する事項   4件

満州事変に関するものでは、満州国における「満州国交通政策上の重要事項」「満州国関税制度に関する事項」「満州国の国防問題に関する事項」は三月十三日付には「上海付近の戦闘においてわが戦闘員中、捕虜となりしものはありやに関し陸軍省発表以外の一切の事項」は差し止め示達といった具合である。

1932(昭和七)年5月15日に起きた五・一五事件では、翌日、差し止め示達が出た。
本月十五日、犬養首相狙撃其他の不穏事件に関し左記の事項

  1. 犯人の身分、氏名等其素性
  2. 事件が軍部に関係ありとし、国軍の基礎に影響あるが如き事項
  3. 本事件発生の原因並に今後再び起ることありと予見するが如き事項

1933(昭和八)年の差し止め事項をみると、桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」の
関東防空演習に関して、七月三十一日付で次のような差し止め事項が出された。(9)

  1. 防空司令部の内部組織並に防空部隊の編成指導系統及び配備
  2. 防空監視哨の総合的配置
  3. 防空に関する通信系統
  4. 八八式七糎高射砲の機能を察知せらるべき事項
  5. 八七式及九一式防毒面の内部構造に関する事項
  6. 防衛司令部内諸設備

1932年11月12日に発覚した司法官赤化事件では、翌年の2月28日に「本年二月以降に於ける司法部内部職員の赤化事件の報道にして我司法権の威信を害し、延いて裁判の公正に対する国民の信頼を傷ける虞(おそれ)のある事項並にこれを推測せしむる事項」については差し止め示達が出た。


9・・がんじがらめの報道統制


 こうしたがんじがらめの報道統制の中で、記事差し止め、禁止、掲載不許可を恐れ、戦いながらの報道、論評がいかに困難かはいうまでもない。

 報道の自由が空気のように自明のことになっている今日からはこうした実態は想像もつかない。

 『朝日』『毎日』の大新聞の屈伏と菊竹六鼓や桐生悠々の抵抗も、このようなきびしい時代的な背景の中で、厳密に検証しないと、見誤ることになる。

 では、実際の検閲はどのように行われていたのだろうか。

1932(昭和七)年6月、警視庁では特別高等課が拡張され部となった。検閲係も検閲課となり、係員は警視1、警部4、警部補4、巡査12、書記1と増員され、各警察署に配置された検閲係員82人が出版警察を担当した。

 出版警察の方針として、①検挙第一主義に対して執行第一主義、②風俗主義に対して風俗安寧並行主義が新しく打ち出された(10)。

 警視庁管内の新聞紙は当時2652種類あり、全国発行の24%を占めていた。このうち主要日刊新聞26紙を特別の取締対象としていた。『朝日』『毎日』などの一般紙はもちろん、この中に含まれている。

 この主要日刊紙に対しては検閲課が直轄して事務に当たり、記事掲載差し止めや解除の通達は直接、課員を各方面に派遣していた。差し止め命令が出て正本を印刷して、各社に伝達する時間は約30分であった。

発禁を受けた場合、各販売店(計1,444ヶ所)に差し押さえの執行が行われるが、各警察署に手配され、警察官への連絡に要する時間は約30分であった。

しかし、日刊紙の差し押さえは最も難しく、特に号外は執行不可能といわれた。実際、差し押さえられた部数は1割以下が大半だった。このため、検閲課は行政処分の足りない点は司法外処分の運用によって補なっていた。

内務省警保局編『出版警察概観』によると「日支事変に関する記事取締に関する件」では出版警察担当者はこう指摘している(11)。


10・・・出版警察担当者はこう指摘


「昨秋突発したる日支事変(日中戦争)は事態極めて重大にして、若し新聞報道に依り、或は軍事上の機密が漏洩せられて、我が外交関係を悪化せしむる等のことあらんか、国運の消長に至大の影響を及ぼす虞あるに鑑み、当局に於ては、此の種、新聞記事の取締に付、常に関係当局と密接なる連絡協調を保ち取締上遺憾なきを期した。

満蒙事変と上海事変に関する差止通牒が41件の多数にのぼり、本年に於ける差止通牒の過半数を占むるは、一面、日支事変が国際的重要性を帯びているのと、他面軍事的、外交的機密が許す範囲内に於て言論の自由を保障すべく抽象的・広汎的差止を差控えたるに基くものである」

 また、「五・一五事件に関する記事取締に関する件」では
「五・一五事件は或は社会の不安動揺を惹起し、或は類似犯罪の累発を誘致するが如き虞ありたるにより、事件勃発後直ちに右事件に関する記事は当局及び関係当局の発表したるものを除くの外は、一切之を新聞紙上に掲載するを差止め、以て流言蜚語に依り人心を惑乱するを防止し、他面当局並に関係当局より進んで大要を発表して人心の安定を期した」
と書いている。

 さて、こうしたきびしい言論弾圧に大新聞が全面的に、全く無抵抗に屈伏したのではなかった。

結果的に屈したが、その間に差し止め禁止に挑戦し、違反した新聞が数多くあったことは『出版警察概観』に墓銘碑のように出てくる。

 例えば、昭和7年の安寧禁止に違反した新聞を調べてみると、日中戦争の記事取締まりに違反して禁止処分に付された件数は満州事変で250件、上海事変で437件にのぼる。これを外交的機密違反、軍事的機密違反に分類すれば外交が236件、軍事が460件になっている。また、五・一五事件の差し止めに違反して禁止処分になったものは94件を数えている。

 この中で大部分は地方紙であるが、『朝日』『毎日』もあることはいうまでもない。

  • 朝日(地方版も含む)   計20件
  • 毎日(同)        計33件
これは1932(昭和七)年だけの数字だが、1936(昭和十一)年2月26日の二・二六事件のころまでは差し止めを何とかくぐり抜けて、号外や記事を掲載する一種のゲリラ活動が少なからず行われていた。

 取締まりの官憲とそれを何とかうまくかわそうとする新聞社のかけ引き、場合によってはイタチごっこが演ぜられた。


11・・ついに「新聞の死んだ日」に


 しかし、それも急激な軍部の台頭で「非常時」「準戦時体制」に突入していく過程で、新聞への圧力、弾圧はますます強化される。新聞報国が叫ばれ、発表もの以外全く書けない状態がくる。

「新聞の死んだ日」である。官憲は新聞に対してますますきびしい目を向けてくる。

当時、陸軍が新聞の統制に乗り出した。地方の司令部や在郷軍人会は常に新聞や雑誌を監視していた。憲兵隊は執筆者の身許調査や自宅訪問を行い、圧迫を加へ、何か気にくわぬことを書くと、たちどころに不買同盟が結ばれた。新聞受難時代である。

1935(昭和十)年9月の『思想実務家会同議事速記録』をみると、次のような発言がみられる(13)。

これは全国から控訴院(今の各高検)思想係検事と地方裁判所次席検事らが一堂に集まり、社会運動の情勢や問題を協議した会合の議事録である。

 この中で出版や新聞の安寧秩序紊乱について、ある検事は
「近頃新聞雑誌がふえまして過激な記事を掲げているものがあるのでありますから、それらの記事にして治安維持法其他何等かの犯罪に当たるものは格別と致しまして、其他の場合に於きましても朝憲紊乱、安寧秩序紊乱等に該当するものについては法を励行致しまして、どしどし司法処分に付したい」
と述べている。

 また別の検事はこう発言している。
「もう一つは刑罰が余りに軽い。有資格者を請負人的に編集人発行人にすえるような事態から考慮しまして、大新聞などが特に悪意に刑罰を覚悟して書く場合もありますから、そういう場合には新聞紙の発行を禁止することを司法処分の刑罰として規定する方がよくはないかと思います。


12・・・禁止、禁止で何も書けない状態に


これは如何なる刑罰よりも新聞紙に対して有効なる制裁であると信ずるのであります。現行法でも裁判所は発行を禁止することが出来る規定が御座いますけれども、私どもは寡聞にして未だ、発行禁止の実例を知らぬのであります」

 かつて読売新聞のコラム「編集手帳」の執筆者として、また名文章家として鳴らした高木健夫は当時をふり返り、こう回想している。
「報道差止め、禁止が毎日何通もあり、新聞社の整理部では机の前に針金をはって、差止め通達をそこにつるすことにしていた。このつるされた紙がすぐいっぱいになり、何が禁止なのか覚えるだけでも大変。頭が混乱してきた。禁止、禁止で何も書けない状態になった」
これは太平洋戦争が始まった後のことだが、この状態になるまで時間は余りかからなかった。

(つづく)

 引用文献

(1) 『明治大正史-言論篇』 美土路昌一 朝日新聞社 1930年9月331-332P
(2) 「司法研究-第二十輯五 新聞と其取締に関する研究」 司法省調査課 1935年 63-64P
(3) 「同上」 33-34P
(4) 「同上」 45-46P
(5)『出版警察概観 昭和五年-昭和発禁関係資料』 内務省警保局編 龍渓書舎(復刻版 不二出版) 1981年1月 28P
(6)「司法研究-第二輯五 新聞と其取締に関する研究」 42-43P
(7)『講座 現代日本のマスコミュニケーション第二巻』 高木教典他 青木書店 1972年10月 65P
(8)『出版警察概観 昭和七年-昭和発禁関係資料』 内務省警保局編 龍渓書舎(復刻版 不二出版)70P
(9)『出版警察概観 昭和八年―昭和発禁関係資料』 内務省警保局編 龍渓書舎、1981年1月 76P
(10)「出版警察報五七号-警視庁に於ける出版物取締の現状」 1933年6月号
(u)『出版警察概観 昭和七年-昭和発禁関係資料』 内務省警保局編 龍渓書舎 71P
(12) 『同上』 72P
(13) 『社会問題資料叢書第一輯』「昭和十年六月思想実務家合同並司法研究実務家会同議事速記録」 東洋文化社 1975年九月 161、257P
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/maesaka.html


目安箱バナー