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ラーベの報告書(1)

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季刊戦争責任研究
第16号(1997年夏季号)
p38~54
南京事件・ラーベ報告書
片岡哲史訳(かたおか・てつし/駿河台大学教授)
《小見出し》は原文にはなく採録にあたって付けたものです。

南京事件・ラーベ報告書

解説

ジョン・ラーベ(John Rabe)は一八八二年生まれのハンブルクの商人で、一九〇六年に中国に渡り、一九三一年からドイツの電機工業コンツェルン、ジーメンス社の駐在員となった。日中戦争が全面化し、当時の中国の首都、南京を日本軍が占領した一九三七年一二月には南京に駐在した。当時南京にいた外国人の多くは日本軍の接近とともに避難したが、数十名の人々は危険を覚悟で南京に踏みとどまり、結果として南京事件の渦中に巻き込まれ、日本軍の南京攻略・占領にともなう種々の残虐行為の目撃者となった(詳細は笠原十九司『南京難民区の百日』岩波書店参照)。ラーベもその一人であり、他の残留外国人と協力して市民を戦火から守るために南京安全区(難民区)を設定し、難民の救済と保護に当たった。ラーベは安全区国際委員会の委員長として、ジーメンス社の帰還命令により一九三八年二月二二日南京を離れるまで、虐殺の危険と苦境から貧しい中国の市民を助けるため、に心を砕いた。

帰国後ラーベは「南京での出来事の事実」「南京の住民の苦しみ」についてドイツ国の総統であるヒトラーに報告書を提出した。その翻訳が本論文であるが、この報告書の提出によりラーベの生活は一変することになる。

当時ドイツは日本と防共協定を結び事実上の同盟国であった。しかし中国の国民政府とも貿易、軍事などを通じて関係が深く、そのために日中戦争初期には中立的姿勢をとった。報告書は南京戦直後のドイツ大使トラウトマンの和平工作に触れているが、この工作も中国に好意的なドイツ外交の姿勢を物語るものであった。

しかしトラウトマンエ作が失敗したあとドイツの極東外交は大きく転換する。転換の背後にはドイツの統治機構における変化があった。一九三八年二月、ヒトラーは軍の改組を行い統帥権を掌握するとともに、外相にナチス党員であるリペントロツプを任命した。首相就任以来ヒトラーのもとに権力はしだいに一元化されてきたが、それにもかかわらず軍事・外交の領域はむしろ保守的支配層の手に委ねられた観があった。この政変により外政面でもナチスの一元的な主導権が確立するとともに、ドイツは第二次世界大戦への途に突入してゆく。

この二月、ヒトラーは満州国承認の意向をあきらかにしたが、新外相リペントロツプも対英戦重視の立場から、一九三八年六月には親中国的であったトラウトマンを召喚し、親日路線に切り替えて行くのである。

ラーベ報告書はまさにこのドイツ外交の転換期に提出された。このタイミングの悪さは決定的であった。「彼がその中で同盟国の残虐行為を書いたため、彼は国賊とされ、ゲシュタポ(国家秘密讐察)により逮捕され、尋問され、拷問され
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た。彼の会社の社長、カール・フリードリッヒ・フォン・ジーメンスが個人的に尽力したのちにやっとラーベは釈放されたが、完全な沈黙を誓わされた。彼は職を失い、南京で三〇人を使うことができた人が、業務用の手紙の英訳者としてベルリンで余生を送ることになった("Die Welt" 1966.12.14)。

報告書のなかでラーベは自分がナチス党員であることを強調しており、また中国人にたいしてはナチスを労働者、貧しいものの友として描き出している。このような理想主義的なナチス観が幻想に過ぎなかったことは、すでに歴史によって証明されているが、ナチズム運動の初期にはナチス党を労働者の党、社会主義の党と信じて支持した人々がいたことも事実である。ラーベもこのような人々の一人であったのであろうし、南京での彼の人道主義的献身も彼のナチズム観と矛盾するものではなかったのではないか。しかし彼の善意もナチス自身により裏切られ、ラーベに苛酷な運命を課する結果となった。その結果この報告書はラーベの人生を賭けた重い文書となった。

前述の“ディー・ヴェルト(Die Welt)”誌は、日本軍の残虐行為を描くラーベ報告書の筆致を歴史家たちの考えているよりも「抑制的」と評している。ラーベが「中国側の発表によれば総計一〇万人の中国の民間人が殺害されたそうです。これは少し過大な数字でしょう。われわれヨーロッパ人はその数は約五万ないし六万人と推定しています」と書いている部分についての評であるのかもしれない。ラーベが南京を離れる直前の二月二〇日、二一日の中国『中央社通信』は「虐殺された市民は八万」としている。いずれにしてもこれらの数は、ラーベが南京を離れる時点での数字であり、虐殺は付近の農村を含め三月までつづいた。

ラーベの目撃者として直接見聞した事柄についての記述は正確であるように思われる。この翻訳では割愛したが、原文には二二点の写真が添付され、ラーベ自身による説明が書かれている。そのうちに一九歳の身重の体を日本兵の銃剣で重傷をおわされた李秀英さんの写真と説明がある。李秀英さんは去る二月来日し、損害賠償裁判で被害について証言したが、被害状況についての証言はラーベの記述と一致した。

最近歴史資料としての戦争被害者の証言の価値を故意に無視または軽視しようとするたくらみが目に付く。「従軍慰安婦」の「強制連行」について窓意的に解釈するとともに、強制連行を直接示す公文書がないじゃないかとして、事実そのものを否定しようとする試みなどがそれである。その点でラーベ報告書は、目撃者の直接記録という資料的価値以外に、南京事件に関する被害証言をうらづける公文書としても重要な価値を持っている。報告書の批判的検討を通じて南京事件の研究が一層すすむことを期待したい。

ラーベの文章は表記などについてかなりの癖のある文章であるが、片岡哲史氏により最良の翻訳を得られたものと信じている。中国語の表記等については笠原十九司・井上久士両氏の協力を仰いだ。笠原氏には原文の入手についても配慮していただいた。
(荒井信一/駿河台大学教授)
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報告書


ジョン・H.D.ラーベ
現在海外寮居住、ジーメンス・シュタット〔ベルリン〕デイールマン通り二〇
一九三八年六月八日

わが総統!
中国にいる私の友人の大多数は、南京での出来事の事実についてあなたに詳細な報告がなされなかったと考えております。

私が広範な公衆を対象とせずに行いました講演の草稿をこの手紙に添えてお送りしますのは、南京の住民の苦しみについてあなたにお知らせするという、中国にいる友人にたいする約束を果たすためであります。

添付いたしました草稿をお受け取りになったことを、ご親切にも私にお知らせ下さるならば私の使命は満たされることになります。

ところで私は、この類の講演をこれ以上は止め、また関連する写真を公開しないようにとのご通知を受けました。私はドイツの政策やドイツ当局に逆らう意図はありませんので、この指令に従います。

私はあなたにたいする忠実なる服従と心からの忠誠をお誓いいたします。
ジョン・ラーベ〔署名〕
総統・帝国首相
アドルフ・ヒトラー殿
ベルリン


この講演に先立って私がまず申し上げておきたいことがあります。それは私がドイツで反日的な宣伝をしたり、また中国に友好的な感情をかき立てる為の「公の」講演をしたりする意図がないことです。私は、苦しんでいる中国にたいして全く同情してはいますが、なによりも親ドイツ的であり、そしてドイツの政策における「大路線」の正しさを信じるのみならず、〔ナチス〕党の役職者として100%これを支持いたします。しかしながら、このことは、私が南京で目撃した出来事の真相について、わが敬愛する総統及び祖国の指導者層にお知らせすることが正しいと思う妨げにはなりません。私が出席しているこの会合は公的なものではなく、非公開の集まりで、ここで私の経験についてご報告しようとしているのです。

さらに私がとくに指摘しておきたいのは、どうみても日本人は私に感謝するほかはないことです。なぜなら、私が南京難民区の国際委員会委員長として活動を開始して以来、われわれが日本大使館に提出せねばならなかった数多くの苦情と抗議の矛先を和らげるベく努めてきたからです。それは、私はドイツ人でしたし、ドイツ人として、われわれと同盟している日本の大使館との友好的関係を堅持したいと望みましたし、またそうせねばならなかったからでした。委員会で私が仲良くしていたアメリカのメンバーの間で、〔日本大使館に〕手紙を発送する前に、「手紙に蜜を加えて感触を柔らかくさせたほうがいいよ」と警告されることにもなりました。それでも日本大使館宛のいくつかの手紙が相当に厳しいものになったのは、日本兵によって日毎に繰り返される殺人、略奪、暴行、放火を目にして、われわれには他になす術がなかったからでした。

南京における過去六ヵ月間の私の体験を皆様に詳細にお伝えするのは、残念ながら不可能です。そのためには二四時聞あっても足りません。私が集めた出来事のコレクションのモザイクにある数多くの不幸な出来事のなかのいくつかについてしかお話できません。私の日記は約二五〇〇ページに及ぶのです。


《なぜ南京に留まったか》


初めに、私が南京に留まり耐え抜くことになった理由を述ベさせて下さい。

「何故ですか」、と日本の岡〔音読み〕という少佐が尋ねたことがありました。彼の語るところによれば、彼は南京が陥落したあと、私を守るために当地に派遣されました。「ちえっ、いまいましい。なぜあなたはここに留まられたのですか。なぜあなたはわれわれの軍事的事項に介入なさるのですか。こんなことが一体あなたに何の関係があるのですか??? あなたはここで何も失いはしなかったでしょう!!」。私にとっては、ベルリンの人の素敵な表現を使えばほんの一瞬口に唾がなくなる、つまり驚いて物も言え
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なくなりました。その後の私の答えは文字通り記すと次のようなものでした――

「私はここ中国に三〇年住んでいます。ここで私の子供と孫たちが生まれました。私はここで仕事を平和的に行い成功してきました。私はいつも、世界大戦の間も、中国人に親切に扱われてきました! 岡少佐、もし私が二〇年日本に滞在し、日本人に中国人と同じ位親切に遇されれば、私は、〔いま中国人が味わっているような〕苦難の時代に、日本人を見捨てるようなことはしないでしょう。そう信じて下さってよいのです」。

この答えは日本人少佐を完全に満足させました。彼は、武人のあるベき姿について、丁重な言葉をいくつか呟きながら、深くお辞儀して引き下がりました。

彼は、あとでもう一度姿をみせて、私たちを保護しやすくするために、南京に残っている五人のドイツ人を私の家に集めるように求めました。しかし私はこの要請も丁重ではあるが、きっぱりと断わりました。

「収容所は捕虜だけが収容される所であるのにたいし、われわれ数人のドイツ人は自由なままでいたいので、問題になりません。したがって私たちを保護しようとするならば、別な方法を選んで戴きたい」

と私は言いました。
これに対する彼の提案は、

「あなたが私の保護を断念する、と私に文書で書いて下さい」

というものだったが、私はこれも同じく拒否しました。

「私たちをできるだけ保護して下さい。でも私と私の同国人から自由を奪わないで下さい」

と私は答えました。のちに、ということは岡少佐が出発したあとで、日本大使館の職員が私に告げたところでは、彼は日本政府の名において私に語りかけたのでは全くなく、「自分の個人的意見」を表明したに過ぎなかったのでした。

もちろん私が南京に留まる気になったのには、先に述ベたのとは別の重大な理由がまだありました。

私にとって切実な問題であるジーメンス社の利害を代表する必要があったのです。しかし、同社が私が南京に留まるよう求めたのではないことを述ベておかねばなりません。反対に私は、いかなる危険をも避けて、チャーターしたイギリスの蒸気船古多号〔音読み〕で漢口にいく他のドイツ人と大使館員に加わるように熱心に勧められたのでした。

南京電力会社のタービンはジーメンス社が供給していました。すベての省庁にはわが社の電話と時計の設備があったし、中央病院は大きなレントゲン設備をもち、また警察とすベての銀行の警報装置は当社のものでした。これらの設備はわが社の中国人の組立工によって管理されていましたが、彼らはさっさと南京を立ち去ることはできませんでした。これらの人々と、私のオフィスの使用人、それに何十年も私のもとで働いていた家の奉公人、さらには私の中国人マネージャーたちが、いまや多くの家族と共に私の回りに集まっていたのでした。当時私が漠然と感じ、今でははっきり分かっていることは、もし私が彼らを苦境の中に放置したらば、おそらく彼らは皆殺しにされるか、重傷を負わされていた、ということです。

こうして私のオフィスと家はまもなく、わが社に属すると思い込んだ避難民で一杯になりました。私は、本来一家族について二人の祖父と二人の祖母で充分だと小声で抗議したが、愛想よく否定されてしまいました。中国人は一人以上の妻を持つことが許されているので、事情は全く違うのです、と。したがって、私は、これまで存在や家族への帰属をまったく知らなかった老人が私の所にかくまわれていても、ときには目を固くつぶることにしました。中国人の友人の一人はこうして人が増えるのを見て、満足げにうなずきながら「ベリー・グッド・ビジネス」と言いました。この発言の「より深い意味」について彼とこれ以上話し合うにしては、私には残念ながらすることがあり過ぎました。

ところで私が南京に残留しつづけたもっとも重要で最後の理由は次のことでした。

私は党員であり、また一時は地区の副グループ・リーダーでした。しかしリーダーの役を最終的に引き受けることを私は断わらねばなりませんでした。ビジネスで余りにも、というのは一
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日一四時間まで拘束されていたのでした。顧客である中国当局や省庁を仕事で訪問した際に、私はしばしば、また繰り返しドイツ、わが党、そして政府について質問されましたが、私の答えはいつもこうでした――

われわれは労働の兵士である
われわれは労働者の政府である
われわれは労働者の友人である
われわれは労働者、貧しい者を見殺しにしない!

私を迎え入れたこの国にはいまや厳しい苦難が覆いかぶさっています。この国は三〇年の問、私を親切に扱ってくれました。この都会の富める者たちは時期を逃さず、身と財産を安全な所に移すことができました。だが貧しい者は留まらなくてはなりませんでした。どこへ行くベきかを知らず、逃げるには財産がありませんでした。彼らは大量に、計り知れないほど大量に虐殺される危険に曝されていました。

こうして、苦境のなかで彼らを助ける機会が私に与えられ、私はこの機会を引き受けたのです。


《北戴河から南京に戻る》

こうした考えや決心はすベて、一九三七年の八月と九月になってから固めました。六月と七月、北京の近郊のマルコポー口橋〔蘆溝橋〕での紛争が勃発したときは、私たち南京にいた者はまだ、この戦闘が局地的に解決されるものと信じていました。

七月二八日に私は藩陽と天津の間にある保養地、北戴河に避暑に出掛けました(南京は夏はとても暑くなります)。天津と浦口の間の鉄道はすでに〔紛争に〕巻き込まれていたので、私はこの鉄道で直接北方に行かずに、まず上海に行き、そこから開濼鉱山砿務部の石炭蒸気船に乗って秦皇島に向かいました。秦皇島はすでに日本人によって征服され、開濼鉱山砿務部にはすでに日本人の共同監督者がいました。泰皇島が沿線にある北京-藩陽鉄道では、当時、約一六本から二〇本の日本の軍隊輸送列車が天津まで毎日走っていました。秦皇島から数時間の距離にある北戴河では、すでに長い間つづいている日本軍による占領の気配はほとんど感じられませんでした。保養客は充分に寛げました。

南京に帰ろうとする私の努力は北戴河に到着した日から始まり、長いあいだ成果を得られませんでした。南京の最初の爆撃(八月一五日)の報せと上海での最初の戦闘のニュースが入ったとき、私は直ちに天津に行き、中国人の避難民で一杯になったイギリスの蒸気船のうちの一隻で芝罘〔チーフ〕へ行く乗船券を手に入れました。

北京と同様に天津もすでにずっと以前から日本人に征服されていました。天津駅のすぐ周辺にはひどい破壊が認められました(保安隊がいました)が、駅そのものは大丈夫でした。街の通りにはまだ有刺鉄線のバリケードがありました。外人租界は英・仏・米の兵士によって監視されていました。しかし交通はスムースでした。

私は、芝罘から濰県までバスで行き、そこで鉄道への接続を探そうとしましたが、この計画は実行できませんでした。この地方が凄まじい土砂降りの雨で水浸しになっていたからでした。

しかし二日後には青島(チンタオ)行きの別のイギリスの蒸気船の切符の入手に成功しました。

芝罘も青島もそのころはまだ日本人に占領されてはいませんでした。これら二つの都市のドイツ人は戦争の影響は受けないで済むとまだ信じていました。日本人は天津の相当大きな日本人街からすでに引揚げていましたが、しかしそこはまったく無傷のままで、中国の警察が監視していました。青島で私はドイツのシュトレキチウス将軍夫人にまだお目にかかれました。彼女は南京に対する最初の大空襲(八月一五日頃)の間に心臓の持病が悪化し、それがもとで、私が青島を去った数日後に残念ながら亡くなりました。

その後私は妨げられることもなく列車で青島から済南府経由で南京に向かいました。南京には九月七日に到着しました。


《空襲下の南京》

南京の人口は、私が七月に出発したときには、約一三五万人でした。その後、八月中旬の爆撃の後で、そのうち数十万人が街を離れました。しかし外国大使館とドイツ人の顧問はまだ全員
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が残っていました。

この間にドイツ人は一種の援助委員会を創設し、これが後にすベてのドイツ人の移送を行ったのです。

南京に帰ったときに、私は空襲の際にいかに行動すベきかについての厳密な規定をすでに目にしました。中国人はきわめて優れた警報システムを設置していました。街では多くの地下壕を見かけましたが、私にはすベてかなりプリミティブに思われました。私の奉公人はそうした地下壕を私の庭に二つ掘りました。多少とも大きな穴を掘り、厚板で覆い、その上に土を被せたのです。このうちの一つはすでに崩れてしまいましたし、もう一つは崩壊寸前でした。ドイツの軍事顧問の一人から必要とされる最終的な指導を受けてから、私はただちに新しい地下壕を掘りました。それは、私の考えでは、一商人が作ったにしてはそんなに悪い出来ではなかったのですが、熱心な余りいくらか深く掘りすぎたので、その結果、湧き出る地下水のために大変な苦労をさせられました。とにもかくにも私の苦労は報いられることになりました。この防空壕はよく使われ、九月の後半に激しくなった空襲の間、大いに役に立ちました。

私は、最初の空襲の時期と私の地下壕について、東アジア・ロイド社宛に報告を一度書きました。「長いプフゥィ一回と短いプフゥィ三回」という表題をつけましたが、それは空襲の際の警戒警報のことでした。報告はもしかすると皆さんのうちのどなたかがお読みになったかもしれません〔訳注「プフゥィ」にはドイツ語で「畜生」という意味がある〕。

爆弾に対して安全なのは、すでに述ベたように、これらの地下壕のうちのごく少数だけでした。私のもだめだったことはたしかですが、榴散弾の破片に対するよい防御にはなりました。私の庭に高射砲弾が落下してきましたが、それは爆発しませんでした。それでわれわれは、おそらくこの砲弾が、親しい関係にあるドイツのカルロヴィッツ社から輸入したものに違いないという点で意見が一致したものでした。

上海との連絡は当時はまだ自動車によって維持されていましたが、全く安全というわけではありませんでした。ご存じのように、イギリス大使は車でのそうした走行中に日本の飛行士に銃撃されて負傷しました。

九月の末にかけて南京の情勢は日毎に深刻になりました。すでに触れましたように、ドイツ大使トラウトマン博士は、南京のドイツ人が避難する場所にするために、イギリスの蒸気船古多号をすでにチャーターしていました。大使の考えでは、南京が砲撃されているあいだ、船を数マイル上流に位置させ、南京が陥落したら直ちに戻らせることになっていました。われわれは自分たちの最も大切なものを船倉に持ち込んでもよいという許可を喜んで利用しました。ドイツ顧問団に属するグループの数人の婦人たちは、船上をすぐに家庭的に模様変えしました。船は日本人の攻撃が迫ると錨をあげて危険区域の外に出ました。しかしその後事態はわれわれが望んだのとはまったく違った結果になりました。大使が残りのドイツ人(当面わずか三人の大使館員が残っただけだった)と一緒に古多号に乗船したあとで、船は後戻りせずに漢口に向けて走り、そこで乗客と手荷物は船から降ろされ、貸切り契約は打ち切られたのでした。これは、とくに私にとっては辛いことでした。というのは、私は、なによりも衣服類を古多号に送り込んでしまったので、あとは二着の背広でやりくりせざるを得なかったからです。しかもそのうちの一着を親しい中国人難民に貸し与えてしまっていたのでした。彼は持ち物がさらに乏しかったのです。


《難民区設置と南京安全区国際委員会委員長就任》

11月の終わり頃アメリカの金陵大学の教授と教師たちが、上海のジャキノ・ゾーン〔上海難民区〕のモデルを真似た中立ゾーンの設置を提案し、私に南京安全区国際委員会と称する地区委員会の委員長を引き受けるよう依頼してきました。ドイツ人の私なら日本当局とうまく交渉できる可能性があると思われたのでした。私は、アメリカ人のなかには非常に優れた協力者がいると確信していましたのでこの役をためらうことなく引き受けました。まもなく分かったことですが、そうした人たちは、どんな危険が起こ
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ろうとも英雄的に行動するばかりでなく、市およびキャンプに関する行政の分野でも特殊な経験をも与えてくれました。彼らは宣教師として、中国で繰り返し起こる大洪水の度にそれを身につけたのですが、それは私にとって計り知れないほど貴重なものでした。

中国政府と協議して安全区の境界が設定されてから、われわれは計画の実行に熱心に着手しました。そのいくつかの点を次に挙げます。

一、区の安全確保
二、難民の収容
三、食料支給
四、衛生設備の設置
五、病院
六、警察行政など

要するに、私たちが当時、市全体、南京の市役所の業務のすベてを事実上引き継いだなどと新聞で報道されたとしても、まったくの冗談とはいえません。

第一点、地区の安全確保について、すでに困難が生じました。中国軍が撤退した際に、この地区は当然「安全区」としか呼びようがありませんでした。私たちは実質を達成しようと大いに努カしましたが、残念ながら成果は乏しいものでした。それでも私たちは地区の領域全体を地区の旗(赤十字つきの赤い丸印)で取り囲みましたが、中国軍がたえまなく地区を通過して行きました。そうです。ある日、南西の境界にあった地区のわれわれの旗が持ち去られ、高射砲台がそこに設置されたのでした。私の忍耐心は限界に達しました。私はドイツ人シュペルリングと二人のアメリカ人、すなわちミルズ師とベイツ博士と危険に瀕した場所に赴きましたが、私が到着したちょうどその瞬間にそこは日本機によって爆撃されたのでした。しかし爆撃は失敗でした。そうでなければ私は今日皆さんの前に立ってはいないでしょう。私は、高射砲台のごく近くにいましたので、防御物もないまま攻撃を至近距離からじっくり眺める時間がありました。

しかし、すでに言いましたように、ことは無事に終了しました。というのは、幸運にも双方とも、「どうでもいい」かのように的はずれに射撃したからでした。しかし私は爆撃はもう真平御免でした。高楼門にある司令部の他に、地区外にもう一つ邸宅をもっている、首都防衛軍の唐将軍の注意を喚起しました。「あなたが軍とともに地区を今度こそ立ち去り、私たちが日本軍にたいして、この地区がいまこそ真の安全区であり、これを尊重すベきであると通告する可能性を与えないのならば、私は委員会の長の職を辞し、その理由を外部世界に発表するつもりです」と。先方は、私の希望に応ずることを約束しましたが、その実現には残念ながらとても時間がかかりました。

第二点、難民の収容。その間に地区への難民の流入はますます増大しました。私たちはとりあえず、難民たちが地区内の友人のもとに間借りをし、また充分な就寝用具と食料を持参するように、壁に掲示して周知させました。その後、多数存在する空いた建物や新築の建物を貧しい階級の人々に開放し、それでもまだ必要だったのでついにアメリカ布教団の大きな学校や大学も、最も貧しい人々のために開放したのでした。われわれはこうすることによって、地区に難民が殺到する恐れを幸運にも回避できたのでした。だが、こうして何日ものうちに地区に徐々に難民が住みついていく間にも、多くの者は夜、すぐには適当な宿泊所が見つからなかったので、一家そろって天下の公道で夜を過ごすようになりました。われわれは、地区内のすベての道路に大衆を指導するリーダーを配置しました。地区への難民の割り振りがやっと完了したとき、われわれは二五万の難民からなる「人の蜂の巣」のなかに住むことになっていました。最悪の場合として予想したより五万人多かったのです。われわれは食ベるものを全くもたない六万五〇〇〇人の極貧者を二五のキャンプに泊まらせ、彼らに一日当たり一六○○袋、一人当たり生米茶碗一杯しか与えられませんでした。彼らはそれで露命をつながねばなりませんでした。

困難が増し、私が地区の保護のために行った要請にたいする日本側からの回答がなかったの
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で、私は二月二五日に総統宛に次のような電報を送りました。

「南京の〔党〕地区グループの役職者で、当地の国際委員会の委員長である下記の者は、日本政府が非戦闘員のために中立地区をつくることに同意を与えるよう、総統による日本政府への好意的なおとりなしを要請いたレます。さもなくば、南京をめぐる来たるベき戦闘で二〇万人以上の生命が危険に晒されるのです。

ドイツ的挨拶をもって
南京駐在ジーメンス代表ラーベ」

私は同時に親しい総領事クリーベル氏に次の内容の電報を送付しました。

「非戦闘員のための中立地域の設定を目的とする、総統による日本政府のもとでの好意的とりなしを求める、本日の私の総統への要請を心から支持されるよう切に請います。さもなくば南京をめぐる来たるベき戦闘で恐るベき殺戮が不可避です。

ヒトラー万歳!
ジーメンス代表および南京国際委員会委員長ラーベ」

私はこれらの電報にたいする返事を受け取らなかったし、期待もしていませんでした。当然のことながらドイツ政府は確約できる立場にいなかったからです。しかし、電報を発信してから数日後には、安全区が空襲の際に実際に尊重され、その後は、飛行場、兵器庫、軍事学校などの、純粋に軍事的な目標だけが爆撃されたことを私は確認して満足しました。なんらかの形で成果があがったのかも知れないが、このことは私の電報の成果とされ、とくにアメリカ人に強い印象を残しました。一二月一二日の夜から一三日にかけての南京の砲撃と占領のあいだ、またも安全区にも砲弾が落ちてきました。しかしそれは、市の中心部という安全区の位置からしても避けられないことでした。一二月二日ドイツ大便トラウトマン博士が突然、蒋介石総統に和平条件を提示するために中国の税関のクルーザーに乗って漢口からやって来ました。私に内々に伝えられたところによれば、その条件は蒋介石によってすベて受け入れられました。その後和平が達成されなかったのは、そのあいだに違う和平案を考えだしていた日本人の責任でした。その後、各国大便館の最後まで残った職員たちが、〔英国の〕ジャーディン社の曳舟の上に避難しましたが、これはその後、蒸気船によって揚子江の上流へと曳航され、のちに爆撃されることになります。こうして南京は、安全区を除けば人気がなくなり、われわれ委員会のメンバーの他は、アメリカの数人の新聞記者、および二ないし三人の取り残されたヨーロッパ人がいるだけになりました。  中国の情報によれば、さらに多くの中国人が地区の外側に隠れていたといわれます。これは、その後正確には確認できなかった報道です。

われわれの計画の第三点、難民への食料供給を軌道に乗せるのに困難が少なかったわけではありません。われわれは、約一〇万の米袋があることを確認しました。そのうちの多くの部分は郊外に貯蔵されていましたが、郊外には日本人に防御物を与えまいとする、中国人によって火が放なたれてしまいました。これらの備蓄米(中国政府はわれわれに三万袋を提供しました)をできる限り多く地区に持ち込むためにはトラックが必要でした。しかし、それらは、約二万人をのぞいて南京から撤退した中国軍によってほとんどすベて押収されていました。さらに、それまで南京にあった北京の宮殿の財宝、およそ五〇〇〇箱の古代の文化遺産が最後の瞬間に安全な場所に運ばれることになりました。そのためにおよそ手に入るかぎりの自動車や車が必要だったのです。こうしたわけで、およそ九〇〇〇袋以上の米と約二〇〇〇袋の小麦粉を安全区に運びこむことが残念ながらわれわれにはできませんでした。皆さんにはこうした米の輸送の難しさは理解しにくいでしょう。私たちに提供された僅かな車にわれわれの国旗や安全区の旗をつけるだけでは充分ではありませんでした。旗が引きずり下ろされ、車は奪われました。そこでわれわれは、輸送を行うごとにヨーロッパ
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かアメリカの委員一名を同行させなくてはならなかったのです。他の多くの課題に大いに必要とされる大学の教授や医者たちは、こうして米の馬車の御者になることをよぎなくされました。だれもが文句もいわずに、義務を喜んで果たしました。付言すれば、運搬の後で私たちは大学生たちを河まで運び、彼らはそこから水路で漢口まで運ばれたのでした。私の中国の友人の一人で、裕福な煉瓦工場の所有者が、私の誕生日に難民のためにと二台のトラックと一〇〇〇袋の小麦粉を贈ってくれました。一台の自動車と約一〇〇袋の小麦粉が私のところに届きました。だが残りは途中でなくなってしまったのです。

第四点、衛生設備の設置は、最も重要な問題でしたが、これも同様にわれわれを大いに心配させました。モルタル(漆喰)が不足していましたし、――とにかく当面――清潔さの不足から生じかねない危険にたいする大衆の正しい理解が欠けていました。この障害も徐々に克服されていきました。ともかくも衛生状態はまだ我慢できました。これは、なによりも比較的寒冷な気候のお蔭でした。さもなくば一九三八年二月一日まで埋葬を許されなかった多くの屍体を考えれば、おそらく住民の半数がべストに罹って死亡したでしょう。衛生状態は耐えうるものだったと言いましたが、無論、全ての人が衛生的で生きいきと走り回っていたわけではありません。南京の貧しい住民のなかには多数の肺結核患者がいました。私の休息時間は非常に短く予定されていました。私は夜、ろうそくの灯の下で日記を書かねばなりませんでした。それからやっと着衣のままで数時問ベッドに身を横たえるのですが、庭のキャンプにいる六五〇人の難民が咳をするのでなかなか眠つかれません。そして外にいる気の毒な人々がやっと眠りにつくと、彼らは必ずひどくいびきをかいたので、とても眠れませんでした。

委員会には、個々のキャンプの清潔さを点検する検査官がいました。報告は私に提出されました。ある日、ジーメンスのキャンプが清潔度の点で厳しい注意を受けたことを報告書で読んで私は気落ちがしました。仮設便所がひどい状態にあったのです。私が大目玉をくらわせたので、大至急で是正策がとられました。三日後、私は自ら検査し、そして壁がすべて作り直され、すべてがまたきちんと問題なく整備されているのを確認して満足しました。改装に使った新しく美しい煉瓦をすべてどこから手に入れたのか、だれも私に真相を明かしてくれませんでした。しかし、私は、近くにある未完成の新築の建物の高さが著しく低くなったことに気づきました。

第五点、病院。私たちの地区の中には一つしか病院がありませんでした。鼓楼病院にはトリマー博士とウィルソン博士という二人のアメリカ人医師、それに二人の看護婦がいました。ひとりの看護婦はドイツ系でした。彼らみな、多くの負傷者を治療するために力の限界にいたるまで活動していました。日本軍は、負傷した中国兵は赤十字病院で治療すべきであるとして、鼓楼病院に彼らを収容することを禁止していたので、われわれは多数の負傷者をひそかに看護しました。同病院のアメリカ人スタッフはとくに賞賛に値しました。彼らは、重大な義務を、最高の賞賛に値する仕方で遂行したのでした。これらの人々がいつ睡眠をとったか、それは私にとって今でも謎のままです。彼らは、昼夜を分かたず立ち働いていましたし、しかも、医師も看護スタッフも、いくどとなく侵入してくる日本兵の攻撃から自衛しなくてはならなかったのです。病院のマネージャーは、旅行の途上そのまま居残ったマッカラム師で、彼はそうした攻撃の際に、一日本兵に銃で首に傷つけられましたが、幸いにごく軽かったのでマネージャーの仕事を離れないですみました。

赤十字の病院は全部で四ヵ所に設置されていました。鉄道部、国防部、国立中央大学、それに外務部にそれぞれ一ヵ所でした。最後のものを除いて、これらの病院は日本人によって処分され、閉鎖されました。一二月一三日の朝、私が最後に外務部の病院を訪ねたときには、中国人の医師と看護スタッフは例外なしに逃亡してしまっていました。患者たちは放置されていました。病院内は筆舌に尽くしがたい状況でした。大きな部屋と地下室は死体であふれていたし、
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病院の車寄せも同様でした。そこでわれわれは新しい中国人の医師と看護スタッフを雇い、また米を病院に供給する許可を得ました。しかし、病院を訪問することは、日本軍が南京を占領してからは禁止されました。われわれは、ときどき使い走りに派遣されてくる中国人の看護スタッフから密かに情報を得ていました。病院の訪問が禁止されたことにどんな理由があったのか、それはついに知ることができませんでした。私は禁止をくぐり抜けようと、いく度も試みましたが、成果はありませんでした。

私は日本大使館と日本軍の司令部付軍医に抗議、請願しましたが、これも同様に成果なしでした。余談ですが、この軍医は多少ドイツ語を話す、とても好意ある友好的な紳士ではありました。

しかしながら、その後、この病院の運営については、あるひどく極端なケースを除いては、とくに悪い報告は受けませんでした。そのケースというのは、ある負傷した中国兵に関するもので、彼にとっては与えられる一握りの御飯では足りなかったので、追加を求めると、叩かれました。叩かれたあとで彼が、「私が空腹なので叩くのですか?」と尋ねたところ、この兵士は縛られて庭に連れていかれ、すぐに銃剣で突き刺されたのでした。この報告は、処刑を窓から見ていた数人の中国人看護婦によるものです。

第六点、警察行政は、法的手段のなかでも中
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国人の手中に残されるベきでものでした。ところが南京市長と同じ時に警察長官は市を立ち去ってしまったので、われわれにとって警察の業務をも引き継ぐしか残された道はなかったのです。われわれは残された約五〇〇人の警官から銃をとりあげましたが、モーゼル拳銃は持たせたままにしました。だが残念なことに、これらの気の毒な人々の多くが義務を遂行したために、後に命を犠牲にせねばならなくなりました。彼らは日本人によって以前兵隊だった者と宣告され、それ以上の理由もなしに処刑されたのでした。彼らを追悼し敬意を払いましょう!

日本軍が進入して来たときに、われわれは彼らからモーゼル拳銃もとりあげました。ところが、ごったがえす大衆が、完全に武装解除されたこれらの警官の指示に相変わらず従順に従うことを知り、われわれは喜び、また驚きもしました。

このようにして、たえざる空襲のもとで一二月九日が近づいてきました。南京陥落の最後の日々と砲撃については、私の日記の数ページを朗読いたします。

《日記:南京陥落まで》

一二月九日

一二月一〇日から一一日まで

一二月一二日

午後六時半

《日本軍による略奪、放火、虐殺、婦女暴行》

《南京での活動と住民被害の総括》

《難民区の解消と帰国》


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