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第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない

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統合幕僚学校・高級幹部課程講義案
「『昭和の戦争』について」
福地 惇 (大正大学教授・新しい歴史教科書をつくる会理事・副会長)

第三章 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない



第一節 「満洲某重大事件」=張作霖爆殺事件(一九二八=昭和三年)


 先に見たように、田中義一内閣は、東三省に満洲人自身の努力による安定政権が樹立されることを期待し、満洲(奉天)軍閥の頭領張作霖を支援しようとしていた。しかし、現地関東軍将校には、張作霖は信頼できない、満洲支配を委ねるのは危ないと判断する者が多かった。その様な時期に、蒋介石の「北伐」攻勢に押されて奉天に退却する途次の張作霖を爆殺する事件が一九二八=昭和三年六月四日起きた(満洲某重大事件)。

 関東軍参謀河本大作大佐の策謀であった。河本らは、蒋介石が満洲を制圧するならば、日露戦争以来の日本の満洲権益に障害が生じることを恐れた。そこで、支那南北対立が生み出した事件に偽装して張作霖を葬り、東三省(満洲)を混乱させ、混乱鎮定に関東軍が出動して満洲・南蒙古をより安定した日本の影響下に置こうと構想した。これは明らかに日本政府=田中外交の構想を超えていた。外地での不祥事を昭和天皇から厳しく叱責され、田中は恐懼の極、頓死するに至った。田中の満蒙政策はこれで頓挫した。

 だが、関東軍の目論見も別な意味で大きく外れる。若造だから操縦し易いだろうと予想して張作霖の後釜に息子の張学良を据えたのが大誤算になる。張学良の背後には支那共産党、そしてその背後に鎮座するコミンテルンの影がヒタヒタト迫っていた。(注・コミンテルンの策謀説)

 蒋介石は六月八日、北京に無血入城を果たして、北京を北平と改称した。後は東三省(満洲)を残すのみとなった。蒋は、奉天(東三省)軍閥の新首領張学良を七月三日、安国軍総指揮官に任命した。間もなく張学良は蒋介石に服従を表明して、日本政府および関東軍を困惑させた。十二月二十九日、張学良は、蒋介石に完全服従した(東三省易幟=青天白日旗)。蒋介石の支那統一は略々ここに完了した。

 当時の諸情報を勘案すると、蒋介石の常備軍は約二二五万(内、張学良の満洲軍は二六万)数的には世界最大の陸軍を擁していた。また、満洲方面を狙うソ連の常備軍は約一三五万、極東地区=蒙古・ソ満国境に約六〇満配備と言われる。ソ連は既に「モンゴル共和国」なる完全な傀儡国家を作っている。ソ連の次の標的は南蒙古・満洲・華北だが、大戦略家で慎重なスターリンは、満洲には日本の軍事力と支配権が安定していると判断、直接満洲問題に介入せず、支那本土に日本の落とし穴を構えるのである。

 他方、我が国の兵数はおよそ二五万七千、その内、関東軍はたったの六万五千だったのである。どちらの国が軍国主義国家だったか、一目瞭然ではないか。(ラルフ・タウンゼント『介入するな』一一三、二三六頁、藤原彰『軍事史』一六五頁) 

 尚、王国を再興しようと好機の到来を待ち望む清王朝残党の動向も見落とせない。亡びた清国皇帝愛新覚羅氏の出身の地=故郷は満洲である。支那本部の地を失った今、故郷満洲に帰還して国家を再建する動きも当然あった。


第二節 満洲事変・満洲建国は日本の侵略ではない


 さて、張学良の「易幟」は、我国の満洲政策に大転換を強いた。満洲における外国利権の回収を目標にする蒋介石が有利になったからである。そして、勢い付いた蒋介石は「革命外交」なる条約・協約を自分の都合で平気で裏切る外交に転ずる。この困難な時期に、内閣首班は政友会の田中義一から民政党の浜口雄幸に交代し(一九二九=昭和四年七月)、幣原喜重郎が外相に返り咲いた。これまた歴史の皮肉だ。幣原の「善隣友好・対支宥和」の外交信念は固かった。大幅に譲歩することで日支関係の円滑化を図ろうとした。切り札は、不平等条約改訂=関税問題で大幅に譲歩するから支那には日本の満洲権益を認め欲しいと言うのだった。

 さて、支那統一を略々成し遂げて、自信を深めた蒋介石の態度は強硬だった。日支外交好転のために支那公使に任命された幣原の腹心佐分利貞夫は、着任後間も無く帰国して、(箱根で)理由不明の謎の自殺を遂げた。本国政府=外務省と幣原融和外交を良いことに有る事無い事言い募る支那政府との板挟みの心労からと推測される。後釜に小幡酉吉が任命されたが、支那政府は小幡の公使就任を拒絶した(アグレマン拒否)。理由は、小幡が彼の「二十一か条要求」の作成作業と「日華条約」締結交渉に携わっていたからと言うのだった。

 カール・カワカミはその著書『シナ大陸の真相』で「幣原外交の問題点は支那人の物の考え方、取り分け彼が外相をしていたあの数年間における支那人の発想法を全く理解出来なかったことである」と指摘し、当時支那の外交姿勢は「如何なる支那に対する宥和政策も支那人の自惚れを助長させることにしか役立たない」と米国の支那研究家ロドニー・ギルバートの著書を引いて断案している。そして「実際支那は、幣原男爵が宥和や善隣友好などを口にしている正にその時に日本と結んだ条約を全面的に侵害する手段に訴えてきたのである」として、その条約・協定侵害事件のリストを掲げている(一一五頁)。

 なお、一九二九=昭和四年七月には、中東鉄道利権問題を巡り満洲軍閥張作霖と対立したソ連は、支那政府と国交断絶し、北満洲に進撃して、小戦争を演じている。ソ連の北満洲侵略と幣原外交の失策に危機感を深めた関東軍作戦主任参謀石原莞爾らが、一九三一=昭和六年九月十八日、柳条湖(満鉄線路爆破)事件を起こして満洲制圧に決起した訳である。これが満洲事変である。そして騎虎の勢、翌三二=昭和七年三月一日、満洲国建国に突き進んだ。確かに、政府の公式政策ではなく、出先関東軍の独走だったが、これはわが国内の問題であり、日支関係においてはやや強行策ではあったとしても、ソ連は関東軍との激突を不利と判断して兵を引いているし、当時の支那=蒋介石の対日強硬論に対する機先を制することによる、既得権益は防御されたのである。なお、満洲族の独立意欲に応えた側面も重要だった。

 さて、翌三三=昭和八年五月三一日、塘沽停戦協定が成立した。長城以南に非武装地帯を設定し、支那軍の撤退確認後、日本軍も撤兵すること、その治安維持には支那警察が当たること等が協定された。この時、蒋介石政府は、満洲国政府側と郵便・電信・電話、陸上交通、関税業務に関する協定も結んでいるのだ。協定調印は事実上の満洲国承認である。義和団事変から日露戦争そしてポーツマス条約で国際的承認の基に獲得した権益の防衛であり、その既得権益保護をより安全・確固たるものにしようとした正当防衛的な国策の推進であった。満洲事変はここで決着したのである。

 だが、蒋介石の国民党と支那共産党とは、日支停戦協定後も口裏を揃えて「日本帝国主義の侵略・略奪」は大問題だと内外に大々的に吹聴した。支那の巧みな国際プロパガンダ=情報戦術で日本は圧倒的に押し捲くられていた。条理を弁えない支那民族の性格から発する反日・侮日運動は益々猛り狂い、調子に乗った支那政府は、国際連盟に日本の「満洲侵略」を断罪してくれと提訴するのである。だが、共産ロシアの傀儡国家=モンゴル共和国に対しては口を噤んでいるのは不可解であるが、それは共産ロシアが支那を支援していたこと、国連には共産ロシアの回し者が潜入していたで、謎は半分以上解けるのである。

 なお、コミンテルンは一九三二=昭和七年にも日本共産党に革命指令(所謂「三二年テーゼ」)を発して天皇制打倒と指示しているが、日本官憲の共産主義者対策は当然強化されてきている。

 さて、国連はリットン調査団を満洲に派遣した。同調査団は、日本の満洲に対する特殊な事情や支那政府の数々の不信行為も認めたが、結論としては日本の軍事行動は支那への侵略であるとし、日支間に新条約の対決を勧告する報告書を纏めた。米国のジャーナリズムも盛んに日本軍国主義の支那大陸侵略非難を書き立て始めた。因みに一九三三=昭和八年三月、米国第三二代大統領に民主党のF・D・ルーズベルトが就任した。ルーズベルトは大の日本嫌・支那好きだったし、共産主義思想に共感を覚える人物だったことは、十分に注意深く確認しておく必要がある。

 我邦は国際連盟の決議に強く反発し、一九三三=昭和八年三月、国際連盟を脱退した。我が国政府は、「支那は完全な統一国家ではない。それ故、一般的国際関係の規範である国際法の諸原則を直ちに適用することは困難である。それにも拘らず、連盟諸国は、架空の理論を弄んで現実を直視していない」、と強く国連の姿勢を非難した。これは正論だったと言えよう。正に当時の政府が言ったとおり、国連は「架空の理論を弄んで現実を直視していない」。満洲事変・満洲建国は「侵略」と言う概念に合致しない。日清・日露両戦争以来、多くの尊い犠牲と労力と資金を投入して、国際社会の諒解を生真面目に獲得して、「生命線」の育成を図ってきた我国の立場は、英国などは実は理解を示すところだった。


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