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富山眞順『一〇・一〇空襲・沈められた連絡船と……』

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渡嘉敷村史資料編(昭和62[1987]年3 月31日出版)p369

一〇・一〇空襲・沈められた連絡船と……

渡嘉敷 富山眞順 (村兵事主任当時二九歳)


(はじめに)


 私は、昭和十七年負傷して、熊本市健軍にあった熊本陸軍病院に入院していました。

 帰ってから役場に入ったが、すぐ兵事をもたされて、沖縄戦までずーと兵事主任をしていました。

 他に女の子が一人、援護事務をしていましたね。

 昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から用紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。

 改正になって、市町村長が動員発令が出来るようになったが、しかし、それでも連隊区司令部と市町村に兵籍簿があるもので、打ち合わせをしたり、照合したり、兵籍簿に赤札が付いている者がいて、これは、いざという時召集(動員)しろと、指示された。

 一〇月一〇日は、これ(現役証書)取りに行く時、船やられて、あっちの島(神山島)まで泳がされて……。


(出港した船がやられる)


 一〇・一〇空襲の日に、入営兵の現役証書を取りに来いと、連絡が入って。

 その頃は、在郷軍人分会が、この山(港の南)と、あっち(港の北)に監視哨をつくって、詰めていたんですよ。

 そこから「空襲だ!」と、いうんだけれど、部隊本部は、「そんな事はない、空襲なんてあるものか、演習だ」と、いうんですよ。

 それで「船を出せ」と、いう事になって、前島のところまで行ったら、第二波(空襲の)が来ているんですね、九時頃ですよ。

 私は、前島にも親戚がいるから、「私は、ここで降りるから、飛び込むから、あんたたぢは、いいようにしなさい」と、いうと、船長は、「あんたが居ないと、駄目だ」と、いうので「じゃ、私のいう事聞くか」と、船をかくせるところがあるから、そこの入江に行こうと、船を誘導していって、"中ウガミ"と、いって、入江があるんですよ、そこに船を入れて、空襲の止むのを待っていた。

 夕方になって、もう来ないだろうと、船を出Lたら、襲われてしまった。ひとたまりもなかった。第五波ですね。

 私は、戦争に行って来ているものだから、要領をおぼえていて、「早く、海に飛びこめ!」と、いって、着のみ着のまま飛び込んで、「船底にかくれろ!」と、みんなを急がせたんですよ。

 三機編隊で、並行に来た。横にね。船には、二七名乗っていた。これは、忘れられない。

 船長は、エンジン場の、炊事場の下ですね、そこに入った切り出て来ない。飛行機が、パッパーと射って通り過ぎたら、アキサミヨー、アイエー、海は真赤ですよ、血に染まってね。内には(二七名の)泳げないのもいたので、一生懸命、泳いでね、間に合ったらくり舟とってくるから心配するなといって。

 乗組員や船客は、殆んど死んでしまい、神山に上ったのは、私と船長の弟。彼は、背中をやられていた。海に飛びこむ時、グラマンの来る方に降りて、機銃で五〇センチくらい肩から背中までの擦過傷ですよ。

 機関長がいた。私と二人で彼を背負って連れて行った。もう一人いた。残ったのは四名です。

 あの頃は若かったから、背負っても泳げたし、三日くらいは、浮く自信もあった。

 沖でやられたから、神山島まで泳いだのですよ。

(神山島に泳ぎ着く)


 私が先に着き、機関長が次にあがってきて、灯台のあるところまで登っていったのです。高さが五メートルくらいか次、私も向こうまでついて行かなきゃと、思って見ていたら、飛行機が、海すれすれに飛んできて、クリ舟の投錨している縄を切るんですね。綿ローブというより、綿縄ですね。

 糸満の漁船が三隻、垣花の船が一隻、合計四隻いた。二隻は、藁綱だったから切って逃がしてですね。

 その前に、泳ぎ疲れてですね、クリ舟をつかんで一息いれようと、内を見たら二人死んでいるんですね。

 クリ舟は、水が一杯になって、血で真赤になっているんですよ。乗込んでいた(連絡船)二七名の内、一人は背中やられて、無傷は三名、あれらも、この有様を見て、ハア、もう出来ないと、また泳ぎ続けて、島にあがったんですよ。

(掛小屋にいたのは)


 不思議なのは、神山には、ニイ(子)の神山、フカ(外)神山とあって、フカ(外)神山というのは、渡嘉敷から見て外側、つまり那覇からだと近い、灯台のある神山島ですよ、フカ神山には、港、いい入江があって、そこに行ったら糸満ヤードと、いって、漁師が一休みする掛小屋があるんです。泳ぎ疲れているし、傷おっているのもいるので、そこに行ったら、人がいるんですね。

 午前中から、那覇沖の船はやられて、二、三隻燃えているから、船員が逃げて来たのだろうと、行ったら、「チョマー チョマー」と、小屋に居る者が、いうんですよ、びっくりしましてね。

 「チョマー チョマー」と、いうのは、中国語で「なにか」と、いう事ですよ。

 アイ、こいつは、飛行機から落ちた連中だと、気付いて、慌てて反対側のアダンヤブに逃げ込んだら、その時見られたんでしょうね。

 上を飛んでいた奴が、急降下して、ダダダダーと、機銃掃射ですよ。飛行機の通った真下のアダンぱ、ズタズタになって、もう少しでやられるところだった。

(サバニで那覇へ、負傷者収容所)


 飛行機も見えなくなったので、機関長の知りあいで垣花の残ったサバニに乗せてもらって、那覇に向かったが、南東風で帆があげられない。擢も足りないし、流木を拾って漕いで、那覇港近くまでやって来たら、港は、軍需物資が燃えて、ガソリンドラムは爆発するし、とても入れる状態ではないので、崎原、灯台のあったところ、今は、空港ターミナル、航空局の敷地内かね、あそこにつけたら、海軍に追っ払われて、灯台の東側に着けて、上陸しました。

 背中やられているのもいるし、山根部隊の近くの養蚕試験場の内に医務室だったか、負傷者を収容するところがあるというので、連れて行ったら、蚕の産卵室かね、コソクリート床に藁を敷いて、その上に負傷者を寝かしてあるんです。

 私は、神山に泳ぎ渡る時に、服を脱いでしまって、逃げ廻っている間に素裸になってしまい、兵隊に服をくれと、いったら、「お前などに着せる服はない」と、いわれ、まあ、機関長が、スルガー(棕呂で作った腰みの)を、何処からか探して来て、それを腰に巻いていましたよ。

 その部屋に一〇〇名近く収容されていて、私が一番元気だったので、お前、班長になって面倒を見ろと、いわれてね。

 ロクに手当てもしてないし、皆、うめいているんですね。静かになったと、思って、さわって見ると、冷たくなってね。次つぎ死んでいくんです。

 九七名も死んで、こりゃ死んだ者のなかに眠るわけにもいかんと、ほったらかして逃げ出しましたよ。

(球部隊へ)


 那覇に行かんと、思って、ガヂャソビラ近くまで行ったら、明治橋は爆撃されて渡れないと、いうものだから、うろうろしていたら、球部隊のサイドカーが通りかかって、裸だし、気狂いだと思っていたらしく、「お前、そこで何をしている」と、聞かれ、球の司令部に行く途中、船がやられてしまって………」と、理由をいうと、俺も球だ、じゃ乗れと、いわれ、真玉橋まわりをするというので、小禄の高良部落まで来たら、ボロ車だったか、ガソリン切れか、動かなくなってしまって、待って居れ、といわれ、近くの民家の戸を叩いて、食事を御馳走になり、そこのじいさんの寝巻をもらって着けて、それからまた、球部隊に行きましたね。

 仕事をすませたが、船という船は全部やられて、帰る船がない、あれは、何日目だったかね。長崎から徴用されてきた底引網船が来て、その船に乗せてもらって、島に帰って来たのは、九日目だった。


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