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六 婦女凌辱行為の残酷さ

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中国女性にとっての日中十五年戦争

六 婦女凌辱行為の残酷さ

ここでは、婦女凌辱の被害がもっとも集中していた南京事件の事例を中心に、それがいかに残酷なものであったか、事例的に紹介してみたい。

以下は拙稿「南京大虐殺の真相」(藤原彰ほか編『日本近代史の虚像と実像3』大月書店、一九八九年、本書第一部4章に所収)からの引用である。

「強姦は南京攻略戦および南京占領の全期間にわたって行なわれた。多くの軍隊が日常的に、しかも戦闘中以外はほとんどどこにおいても行なっていたことにおいて、まさに日本軍の組織的行為であった。強姦は女性の身体を傷つけただけでなく、心にも深い傷をあたえた。

南京攻略戦段階では、南京近郊の農村で強姦が行なわれた。農村の場合、強姦殺害が多いのが
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特徴である。さきにあげた南京近県の農村における多数の女性死者の多くはこの種の犠牲者であった。

南京占領後は一二月一六日ごろから強姦事件が激発するようになり、南京難民区国際委員会の計算では一日に一〇〇〇人もの女性が強姦されている。同委員のベイツは、占領初期には控え目にみても八〇〇〇人の女性が強姦され、翌年の二、三月までに何万という女性が強姦されたと記している(「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」一九三八年一一月二九日付、南京事件調査研究会編『南京事件資料集(1)アメリカ関係資料編』青木書店、一九九二年、所収)。前記国際委員会が日本当局に報告した日本兵士による暴行事件四四四件(ほとんど洞富雄前掲資料集に所収)のうち、大半が強姦・輪姦およびそれにともなう傷害・殺害の内容で占められている。

南京における『残敵掃蕩戦』も峠をこえた一月中旬以降は、日本軍の『慰安』のための『女狩り』としての強姦が日常化していく。強姦殺害は減少するが、炊事帰・洗濯婦として拉致し、軟禁状態にして連日強姦するケースやもっぱら少女を拉致して強姦するいわゆる『処女狩り』、さらに性的変質行為がめだつようになる。

一月末から二月初旬には、日本軍当局から難民区を出て自宅にもどることを強制された婦人たちが、帰った家で強姦される事件が頻発している。

・・・・なお強姦が日常化して多くの女性が長期にわたって被害をうけたために、悪性の性病をうつされて廃人同様になってしまった者や、望まぬ子をみごもってしまった者、また、そのために無理な堕胎をこころみて身体をこわしてしまった者などもでて、あとあとまで残虐な悲劇はつづいた。」(同書、一四八頁)
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その他にも異常な行為としては、さきのドイツ大使館南京分館のローゼン書記官がベルリンのドイツ外務省に一九三八年一月一五日付で送った報告のなかに、こう記されている。「(強姦・輪姦の)共犯者が被害者の夫や父親を押さえつけ、家族の名誉が辱められるのを見るように強制した複数の例も証言されている。」(本多勝一「ナチ・ドイツをも驚愕せしめた南京大暴虐事件(下)」『朝日ジャーナル』一九九一年二月八日、七〇頁)

さらに、特異であるとともにけっして「混乱のなかの出来事」でなかった事実を示しているのは、中国国民政府軍事委員会政治部編『日窪暴行実録』(一九三八年七月)に掲載されている、日本兵が凌辱した中国婦人を記念に撮った写真である。これらは捕虜になった日本兵が所持していたものだという解説がつけられている。

これらの異常性をもった日本兵の中国婦人凌辱行為は、征服者、勝利者として中国人に対してどんな侮辱をやってもかまわないという当時広く日本人にあった民族差別意識にもとづいていたことは、東京大学名誉教授の阪本楠彦氏(農業経済学者)が陸軍経理将校であった自分の体験を書いた『湘桂公路一九四九年』(筑摩書房、一九八六年)に紹介されている以下の事例が示唆的である。

「斉藤曹長は〈鏡〉〔部隊名〕にいた頃から、軍務はしっかりするし、ふだんは善い男だった。また女癖だけが滅法悪くて敬遠されていた。女を強姦した経験のある兵隊なら珍しくはないし、強姦して殺した経験のある兵隊だってチョイチョイあるが、彼の場合は、作戦中に見たシナ人の女を必ず強姦して必ず殺した。それも数十人どころではなく、数百人斬りだろうと噂されていた。
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ところが昨年の一二月初、〈鏡〉が貴州省の独山まで攻めこみ、例によって彼が女を犯そうとしたとき、その女が日本語で「やめて」と叫んだ。ビックリして事情を訊くと、横浜育ちの日本人でシナ人に嫁ぎ、シナ事変勃発後は夫に従って独山に帰ったのだと言う。彼は単に、もうやれなくなったばかりではない。その日の驚きを、親しい戦友にその日に洩らしただけで、黙りこんでしまった。
人柄もすっかり変わり、女にも何の興味も示さない。」(同書、六六頁)

上の事例は、中国人女性を平然と強姦・殺害した日本兵が日本人女性に対しては、日本国内での強姦犯罪と同じ意識に見舞われたことを示している。中国婦女凌辱の背後には日本兵の中国人蔑視・差別の意識があったことも重要であろう。

以上のように、南京事件における日本軍の中国婦女凌辱は、(1)件数と被害者が数量的に膨大であったこと、(2)犯行期間が長く、戦闘とは関係なく日常的に行われたこと、(3)将校はもちろん憲兵までもその例外ではなかったことにおいて、日本軍の組織的行為であったこと、(4)その行為の内容と質が残虐性の強い深刻なものであったこと、とくに強姦殺害は、非戦闘員である女性に対する性の蹂躙と生命の殺害という二重の加害であったことにおいて最も残忍な行為であったこと、(5)被害者はもちろんのこと、その夫や肉親・兄弟をはじめとして中国人に与えた肉体的・精神的傷痕が深刻であったこと、
などにおいて、まさに世界に比類をみない残虐行為であったといえる。だからこそ、当時において国際的な非難をあびたのである。

当時の諸外国の非難は、日本軍が戦闘とは無関係な無辜の婦女子を凌辱したことに最も激しく向け
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られた。その一端はすでに紹介したダーディンの報道やローゼンの報告からもうかがえよう。当時、南京大虐殺の実態を世界に知らせた本格的な著書は、ティンパレー編著『戦争とはなにか」(一九三八年にロンドンとニューヨークで出版)であったが、同書に収められた資料の大半が強姦に関する記録であったことからも、欧米人が婦女凌辱の事実をいち早く知り、人道主義の立場から激しく日本軍を非難したことは容易に想像できよう。

世界の国民が日本軍の婦女凌辱行為を指弾したのは、それが当時の世界において特異な残虐行為であったからであり、人類の恥ずべき行為とみたからである。


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