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メモ「日本スポーツ放送の歴史」

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メモ「日本スポーツ放送の歴史」


日本におけるラジオ放送の歴史。
東京放送局(現NHK。以下NHKと表記)が1925年3月22日に試験放送開始。
本放送は同年7月12日に開始。

日本におけるラジオ放送の普及は、結果として軍部が指導したことにもなった。
国民の士気鼓舞にラジオを利用したためである。
そのきっかけとなったのは、二・二六事件での「兵に告ぐ」放送だった。
軍部は、事件の早期解決に果たしたラジオの役割を評価して
情報局を設置して放送によるプロパガンダに取り組むことになる。
(戦後のテレビ普及では皇太子成婚が最も大きな原因となったことと対照的)

その時点で、知名度の高いアナウンサーなどは
軍人でさえ最敬礼して迎えるほどの社会的名士となっていた。

二・二六事件で「兵に告ぐ」の原稿を読んだ中村茂。
早慶戦の中継で「夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽・・・」の名描写を行い
人気を博した松内則三。
べルリン・オリンピックでの「前畑がんばれ」で有名になった河西三省。
ラジオ草創期の三大アナウンサーといえば、この三名である。

昭和11年に職業野球が発足。
しかし、一般大衆からの評判は芳しくなかった。
六大学野球の中継の途中で、職業野球の試合の途中経過を放送したりすると
すぐに抗議がきたほどである。
「大学野球の中継の合間に、職業野球のような(くだらん)興行のスコアをしゃべるとは何事か」
というものである。

当然、六大学野球の中継には松内などの御大が居座り
当時NHKに入局したばかりの志村正順などが
野球中継の練習という名目で、職業野球の中継をするという位置づけとなった。
放送がプロ野球を支えるなどというレベルではなく
プロ野球は新人アナの練習の場でしかなかったのである。
逆に、すでに球場が超満員になるほどの大人気であった六大学野球については
ラジオ放送開始の頃からずっとキラーコンテンツであり続けていた。
そして、前述のような松内の名描写が、新しい野球ファンを開拓していったという好循環となり
エンタツ・アチャコの「早慶戦」のような漫才ネタまで
大衆娯楽として幅広い支持を得るまでに至っていた。

戦前におけるアナウンサーの第一人者は誰か。
実は、既出の中村、松内、河西という大御所3人のうちの誰かというわけではない。
断然、和田信賢ということになる。

和田は明治45年、東京生まれ。
早大在学中にアナウンサー試験に合格。
そのまま大学は中退してNHKアナウンサー学校第1期生となる。

和田は、映画俳優も真っ青の美男子であったばかりか
天才としか言いようのない見事な即興のアナウンスの名手であり
さらにNHK経営の才も見せた多才の人。
三十そこそこでNHKを牛耳っていた偉材である。
昭和天皇が終戦を告げた玉音放送のとき
その放送を仕切ったのは若干33歳の和田であった。

しかし、あまりにも才に任せて突っ走りすぎたのが災いして
戦後、周囲の情勢が一変するや、和田はNHKから追放される。
NHKの内部抗争であるが、事情を知らない一般視聴者のことも配慮され
以後、嘱託としてNHKの放送に関わっていく。
そして、ヘルシンキ五輪のメインキャスターとして渡欧した後、パリで客死。
享年40歳。あまりにも早すぎる死であった。

ここで和田信賢の話を書いた理由は
実はこの頃のラジオ放送の歴史が急激に軍部主導になっていったということを
明らかにしたいがためである、
和田は、軍部におもねることなく、自らの信じる通りにアナウンスし
逆に軍部から信頼を勝ち取ったという戦前では稀な人物でもあった。
放送のジャーナリズムは、和田一人の手によって守られたといっても過言ではない。

昭和13年秋、靖国神社で戦死者の霊を慰霊する招魂式が行われ
NHKでは和田がその中継放送を担当した。
通常ならば、予定された原稿を読むだけのアナウンサーであるはずなのに
和田は、遺族の心情を慮って、痛切な朗読を開始する。
戦死者の霊が、故郷で田んぼを耕している遺族に向かって語りかけるという形式で
和田は即興とは思えぬ名調子で、笙と篳篥の音に重ねて語りかけたのである・・・
「お母さん、元気かい。今年の米の出来はどうだろう。人手不足で大変だろうねえ。
 俺が居ないので、刈り取りも思うようにいかないだろう。しかし、お母さん、嘆いては
 いけないよ。おれは護国の英霊となって、永遠にお国のために生きているのだから、
 お母さん、元気を出して、強く生きていっておくれ。弟よ、兄さんの代わりに倍も働いて、
 お母さんを助けておくれ。おれも陰ながら見守っているよ。それはさようなら、さようなら・・・」

この放送は凄まじいまでの反響を惹き起こした。
息子のことを思って号泣した母親の手紙が放送局に届いたりして
放送関係者は「空前絶後の名放送」と絶賛したのだが
軍部としては面白くなかったようである。
あまりにも悲壮すぎて国民の士気を阻喪させるという理由で
和田のアナウンスは厳重な注意を受けた。

それから5年後、明治神宮外苑陸上競技場において
「出陣学徒壮行会」が敢行されたとき
和田は、自分が実況アナに指名されたにもかかわらず、悩みに悩んだ末
どうしても軍部のいいなりに実況できないと判断。
本番1分前になって急きょ実況アナを辞退し、後輩の志村正順アナに実況を任せた。
志村も志村で、そんな土壇場になって突如このような国家的大行事の実況を任されたにもかかわらず
後世に残る名実況を、即興で行ったのであるから、たいしたものである。
しかし、和田は、実況終了後、志村にこんな苦言を呈していた。
「放送の締めくくりに一言いってほしかった。”壮士ひとたび去ってまた還らず”と」
志村は驚く。そんなことを言ってしまえば、たちまち軍部から大目玉を食らうことは必定。
しかし、和田の信念の強さにもまた感嘆したというのも事実であった。
あそこで「もう彼らは生きて帰ってはこないでしょう」などと放送し得るアナウンサーは
和田以外にはいない、と。

軍部は、和田の存在には手を焼いたが、それ以外のアナウンサーには高圧的な態度を取った。
ある日、情報局の軍人がNHKに乗り込み、アナウンサー10数名に集合するよう命じ
「鬼畜米英」とマイクの前で言うよう命じた。
アナウンサーが普通に「鬼畜米英」と喋ると
「なっとらん!もっと敵意をもって喋れ」と命令し
声のおとなしいアナウンサーなどは徹底的にしごかれた。
名アナウンサーとして評判を高めていた志村アナでさえ、情報局軍人の罵倒に遭い
志村はよほど悔しかったのか、戦後になってもなお「あの**だけは一生涯許さん」と
怒っていたという。

軍部にとって、戦争さえ始まってしまえば、かつての最敬礼はどこへやら
NHKのアナなど、召使のようにあしらった。
戦争が始まるまでは影響力の大きい有名人として接していたものの
いざ戦争開始となると、もう自分たち軍人が主役であるので
アナウンサーは単なる宣伝部隊に過ぎないという扱いであった。

スポーツも同じで、戦争開始までは鷹揚に対処していたものの
開戦後は基本的にスポーツ全般の意義を認めない方向で弾圧していくのである。
プロ野球はそうしてつぶれていき、六大学野球でさえ特別扱いされなかった。
唯一、大相撲だけは、対外的な宣伝に利用された。
つまり「まだ相撲興行ができるほど国力に余裕はあるのだぞ」という意味あいで
戦争末期まで続行されたのである。
しかし、実際には相撲を行う場所もなかなか確保できず
大衆のほうも、相撲を見るという心の余裕が失われていきつつあった。
昭和20年夏場所は、そういう状況のなかで行われた「非公開場所」であった。
観客も誰もいないのにこの場所は開催され、それはラジオ放送を通じて海外にも電波は飛び
軍部の意向が貫かれた。
戦後すぐに街頭録音番組で人気を博した藤倉修一アナが、この夏場所の実況を担当したが
「国内では誰も聞いていない相撲放送を、客が一人もいない空っぽの国技館で、口角泡を飛ばして
 しゃべっていた私は、悲しいピエロみたいなものだった」
と後に述懐している。
なお、この夏場所は双葉山が最後の一番を取った場所としても知られているが
天下の大横綱双葉山の最後の取り組みが、客を締め出した場所で行われたというのも
戦争がもたらした悲しいエピソードである。

これほど軍部の意向に左右された草創期の日本放送界。
昭和20年8月15日に、和田信賢の指揮のもと「玉音放送」が流され
状況は一変する。
今度は軍部に代わって、GHQが日本放送界を支配するのである。

終戦。
上述の通り、NHKきっての切れ者和田信賢は
後ろ盾となったNHK会長下村海南などの失脚に伴い、NHKを追い出される。
和田のずっと後輩にあたる山川静夫は
和田の人生を「小説・和田信賢」という形で書き残し、和田の人生に敬意を表しているが
そのなかで山川は、「和田さんの追放劇は必然だった」と記している。

(以下略)

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