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第1 渡嘉敷島の巻(1)

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第1 渡嘉敷島の巻(1)





1 金城武徳


当時14歳。被告側証人となった金城重明と同級生であり、「集団自決」の体験者である。渡嘉敷村で教育委員を歴任し、現在、渡嘉敷島において、当時を語る。《赤松命令説》を完全否定する(Ⅴ)。

(1) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)


「(27日、米軍上陸後)僕らが、オンナガーラに降りていったら、伝令がきて、この人は農林学校出身で、玉砕で亡くなった人で、名前はいわないほうがよいと思う」
「この人は、あっちこっちの避難小屋を巡って、『軍ヌ命令ドゥヤンドー、ニシヤマ(北山)ンカイ、避難シイガ、イカントゥナランテンドー(軍の命令で 北山に避難するよう、行かないと駄目だぞ)』と伝えていた。

伝令にいわれて、うちの母は『ナー、ワッター、ナマドゥ、チョークトゥ、ワラビンチャーン、アミンカイ、ンダチ、チャシン、シヌアタイヤレー、シマウティ、シヌサ、マーンジ、シナワン、ヰヌムンドゥヤクトゥ、ワッター、ナー、マーンカイン、イカンドー(私たちは、今ついたばかりだし、子どもたちも雨で濡れねずみだ。どうせ死ななければいけないものなら、何処で死のうが同じ事だ。私たちは、此処を動かないよ、村で死ぬ事にするから。)

母が伝令にそういうと、おばさん(母の従妹)が『姉サン、アンイチン、ナユミ、チュヌ、イチュニトゥクマヤ、イチルスル(姉さん、そんなこといわないで[村の]人ひとの行くとこは、行かんといけないのじゃないの)』といった。』(乙9p395)

※ 「軍の命令」で、避難するよう言われている。しかも、被告らの主張によれば、絶対的であるはずの「軍の命令」を断ってもいる。被告らの主張が、如何に事実に沿わないか、明らかである。

「それからまた、準備をして、雨の中を『軍ヌ命令ドゥンヤンドー(軍の命令だ)』と、伝令がいった所を目指して出発した。

オンナガーラを出て、途中、部隊本部になった所を通りかかると、兵隊が壕を掘っていた、それを見て『あ、やっぱり軍の命令なんだ、僕らを保護するために壕を掘っているのだな』と、思った。」

※ ここでも、「自決命令」ではない。《集合》を「自決命令」と捉えるのは証言から考えても明らかに無理がある。

「二八日の三時頃(注 集まれといわれたのが午前10時である。)、玉砕がはじまった。」(乙9p396)村長の万歳三唱がはじまる。

「一緒にいた防衛隊の人たちが『此処で死ねなかったら、今度は、本部に行って機関銃を借りて死のう』と、いうことで『ついて来い』と、いわれて、僕らもワーワーしながら本部に行ったら、軍の本部だから民間人は入れないのに、ワーワー騒いでしまったので、将校連中はワヂッて(怒って)、また、僕らがなだれ込んだために、アメリカーに迫撃砲をバンバン撃ち込まれた。

僕らは、兵隊に『出て行け、出て行け』とどなりつけられ、田所中尉なんか、僕をにらんでいっているのかなと、思うほど、ブーブーいっていた。

やがて弾もおさまって、今、第二玉砕場と呼ばれている所に避難しろといわれ、そこに移動した。」(乙9p396)

「一番恐ろしかったのは、基地隊といってね、支那事変から帰ってきた連中でした。朝鮮人軍夫が、この連中に斬られるのか簡単だった。渡嘉敷の住民も虐殺された。僕の記憶では、七人も殺されている。」(乙9p398)

※ 「防衛隊」から「死ねなかったら」「機関銃を借りて死のう」と行って、陣地になだれ込んでいる。「なだれ込んだために」「迫撃砲」を撃ち込まれたともいっており、軍が、陣地から追い出そうとした理由も明確に記載されている。軍は、戦闘中であることを忘れてはならない。兵隊らの行動は、「自決命令」とも相容れない。自決命令が出ているのならば、遂行されるはずの行動が一切ないのである。

(2)『沖縄戦ショーダウン』(1~13)【平成8年6月連載】(甲B44)


「赤松隊長は悪人ではない。それどころか立派な人だった」

(3)『妄説に断!渡嘉敷島集団自決に軍命令はなかった』(甲B38)


「村(渡嘉敷村)の幹部が騒いでしまって、来るべきものが来たんだと思ったんでしょう。両方の谷間に避難してるのを集めて、当時の村長が訓示して、天皇陛下万歳三唱して、どこからもってきたのか10~20名に一、二個ずつ配られている手榴弾を突いた訳です」(甲B38p324最下段)。

金城武徳は、軍命令について
「はい、違います。これは軍の命令ではないです」
と明確に否定し、当時の鬼畜米英の教育から「皆同意でやった」とするが、

「マスコミとかが言いたい放題で、軍の命令で集団自決しているんだ、という事を言うんです。」

「60年前の戦争のことは、1つも忘れません。全部覚えています。とにかくどうせ死ぬんだから、一人一人殺した。お父さんお母さんを殺すということは、愛ということでしかならない」

と証言する(甲B38p325)

なお、同著者は「金城氏の証言から浮かび上がってくるのは、島民同士、家族同士が互いに殺し合う状況が、軍による強制的な自決命令ではなく、村長をはじめとする村の幹部によって、ごく自然に行われたということである。…彼らはサイパン島玉砕や隣の座間味島の集団自決を既に聞いており、それに続いたのである」という(甲B38p325・2段目)。

※ 「とにかくどうせ死ぬんだから」という当時の気持ちを素直に証言している。「お父さんお母さんを殺すということは、愛ということでしかならない」と曽野綾子と同じ説明をしている。当時に沖縄の住民において、このような表現をしている人物もいるのである。

(4) 『DVD』(中村粲撮影)【平成10年4月】(甲B52の1)とその『映像反訳書』(甲B52の2)(なお、下記の頁番号は、甲B52の2のものである。)

渡嘉敷島で集団自決を体験した金城武徳は、『鉄の暴風』や『秘録 沖縄戦記』に記述されている赤松命令は「全くのうそ」と言い切り(甲B52の2p3)、一番真実に近いのは住民からの聞き取りに基づいて書かれた『ある神話の背景』(甲B18)であるとしている(乙52の2p21)。

「もうあの時に赤松さんが言った言葉は、『なんで軍人が戦をするんだって、住民は生きられる限り生きるのが本当だのに、なんでこんな早まったことをしたか』ということを言ったらしいですよ。それは警察官のアサトさん、あの人が聞いて話しとったんですよ。」(乙52の2p5)

「だからその手榴弾をですね、どこからあったというと、結局泥棒してるわけですよ。だから隊長そう言っていましたよね、大阪で。兵器係から手榴弾が2箱盗難にあっていますという報告があったそうです。」(乙52の2p16)

「そしてあの時、村長がですね、当時の村長が『天皇陛下万歳』言った時に、あの安里喜順は、あの人も元々安里って言よったんですよ。警察官は鉄棒持ってますよね。雨が降って地面もぬれてるんだから、あの鉄棒をこうして座って、こうしとったんですよ。寝ないんだから。頭でも痛かったんじゃないですか。そしたらあの村長が訓示していて、天皇陛下万歳言った時に、その安里さんは、『米田ヨシノブは気が狂ったなあ』と。あの本にもちゃんと書いてありますよね。いかに止めようとしても止めることできなかったと。」(乙52の2p23)

(5) 小括


金城武徳は、正に集団自決の現場にいた目撃者であり体験者である。村長の訓辞も安里喜順巡査(これはⅡの立場である。)の側で聞いている。《赤松命令説》を完全否定する証言である。『沖縄県史第10巻』(乙9)では「たけお」と呼ばれているが、同一人物である。金城武徳は、北山の方への移動、村長の万歳三唱も「自決命令」と捉えていない。また、自決後、本部から出て行くように、避難するようにと「自決命令」とは相反する行動も認められ、《赤松命令説》の虚構性を語っている。


2 大城良平


渡嘉敷村阿波連出身、元第三戦隊第一中隊付防衛隊であり、集団自決の際に、妻と子供が「半殺し」の目にあっている。後に、赤松隊長ら赤松隊員の慰霊祭への誘いに賛同している(甲B70)(Ⅲ)。《赤松命令説》を完全に否定する。

⑴ 『生き残った沖縄県民100人の証言』(甲B21)p126~127


「支那戦線から負傷して島にもどったが、私はこのころ(昭和十九年以降)また防衛隊の召集うけて、第一中隊の分隊長をしてた。……個人的ないきさつで赤松さんと接する機会もあったが、赤松氏(当時二十五歳)はできるだけのことをやったんだ。陸士の金時計組、いまのことばでいうとエリートの軍人かな……だったから、軍規にはうるさかった。これが誤解のもとになったかもしれん。」(甲B21p126)

「……勝つためにやった行為で、失敗ばかりを指摘されるが、負けたために一方的に“悪く”いわれる部分があることを、一言いっておきたいです。」(甲B21p127)

※ 「自決命令」に関する記載はない。「できるだけのことをやった」という証言、一貫して赤松を擁護する証言は、《赤松命令説》を否定する証言である。大城は、防衛隊員であり、島の住人である。万一、《赤松命令説》が真実ならば、当時においても戦後においても黙ってはいられない立場にあるのである。 

(2) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p778~783


「渡嘉敷島の戦争について、書かれたものと実際に体験した人の証言に多少食い違いがあって真実がいろいろと変えられているような感じがします。私も日本兵のはしくれとして、一生懸命やりました。それが記録には日本軍の悪口ばかり残っており、大変残念に思っております。」(乙9p778)

「捕虜になられると、こちらの陣地や兵力が敵側にばれてしまう。軍隊にとっては、大変迷惑な話です。

敵につれ去られていって、四、五日してから帰って来る。こういう事は明らかにスパイ行為をやっていると断定します。私は土地のものですから、事情に詳しいので、上官は私を側において取調べをやる。罰するのは下の私です。私がやらなければ、又私自身も変な目でみられる。これが大変つらかったです。

渡嘉敷はあまりにも内部の問題が多すぎました。戦史の中では、いろいろな記事が出たり、中には間違ったものもあると思います。私は板ばさみのつらい立場から、その内部問題にふれてみます。」(乙9p780)

「集団自決は私の家内と子供も半殺しにあって、今家内の傷あとを見ると、よくも生きられたものだと、人間の生命力に感心しています。

家内の体験はむごいものです。手榴弾が発火しないので、お互い殺し合いが始まり、家内は確かに何人かを棒で殴ったし、自分もさんざんクワのようなもので頭といわず胴といわず殴られ、米軍に救われた時は自決の日から三日たっていたといいます。

あの日は米軍の攻撃も激しく、何が何やら全然わからなかったそうです。この辺の真実はどう文章で表現するかが問題です。遺族は運命だとあきらめています。

赤松隊長が自決を命令したという説がありますが、私はそうではないと思います。なにしろ、赤松は自分の部下さえ指揮できない状況に来ていたのです。

私は自分の家内が自決したということを聞いて、中隊長になぜ自決させたのかと迫ったことがありました。中隊長は、そんなことは知らなかったと、いっていました。

ではなぜ自決したか。それは当時の教育がそこにあてはまったからだと思います。くだけて云えば、敵の捕虜になるより、いさぎよく死ぬべきということです。自発的にやったんだと思います。

それに『はずみ』というものがあります。あの時、村の有志が『もう良い時分ではないか』といって、万才を三唱させていたといいますから、それが 『はずみ』になったのではないでしょうか。みんな喜んで手榴弾の信管を抜いていたいたといいます。

その時、村の指導者の一人が、住民を殺すからと、機関銃を借りに来たといいます。そんなことは出来ないと、赤松隊長は追いやったと、彼自身から聞きました。結局自決は住民みんなの自発的なものだということになります。

自決の日から二日目、私は中隊長の命令で、東川の儀志保近くに住民がまだたくさん居るので、状況を見に行きました。本部の近くに居りました。

そこが第二玉砕場です。ここでも自決したのかどうかわかりませんが、自決場から逃げてここまで来ると、アメリカの迫撃砲が雨のように降って来て、死傷者が出たということです。

生き残りには阿波連の人が多いようでした。その中に、弟と親がいましたが、家内と娘はどこにも見あたりませんでした。私は持参のタバコと水を置いて、戦争はどうであろうと仕方がないが、生命はぜったいに粗末にするなと、励まして帰って来ました。

前にもちょっとふれましたが家内と娘は、自決場で手榴弾が発火しないので、したたかにクワのようなもので殴られ、三日仮死状態ののち、アメリカ軍に助けられたとのことです。・・・」(乙9p781)

「私の家内は自決を体験し、また人のすることも見ているので、真実を知っております。しかし真実の表現がむつかしいのです。集団自決と部隊とは何も関係ありません。軍隊は勝つために一生懸命でした。集団自決をとりあげて、部隊がどうのこうのと書く、それが後世に悪い影響として残ります。大城徳安氏の場合も軍には何も悪いことはありません。」(乙9p781)

※ 家族に対して、生命は粗末にするなと言っている。《赤松命令説》とは矛盾する行動であり、《赤松命令説》の虚構性を示すものである。防衛隊の証言は数少ないが、翻って考えるに、防衛隊員は、本質的には島の住民であり、家族が島にいる。赤松が非道な《命令》を出しているのであれば、防衛隊は間違いなく、それこそ命をかけて反発するはずである。防衛隊員が「集団自決」に関与したということは、防衛隊員自身が、自決の意思を固めて、実行したことに他ならない。

(3)『沖縄戦ショーダウン』(1~13)(上原正稔)【平成8年6月連載】(甲B44)


「私は自分の妻が自決したと聞き、中隊長になぜ自決を命じたのか、と迫った。中隊長は『全く知らない』と言った。赤松隊長は『村の指導者が"住民を殺すので機関銃を貸してくれ"と頼んできたが断った』と話してくれた。赤松隊長は少ない食料の半分を住民に分けてくれたのです。立派な方です。村の人で赤松さんのことを悪く言う者はないでしょう」(甲B44・6・1段目)

(4) 小括


大城良平は、元防衛隊員であり、自ら家族に対し「生命は粗末にするな」と言っていたにも関わらず、妻と子供が「集団自決」により、他の島民から「半殺し」の目にあっている。明確に《赤松命令説》を否定している。大城は、防衛隊員であり、後に中隊長に詰め寄ったように、非道な《自決命令》を甘受していない。《赤松命令説》が真実ならば、必ず防衛隊員からの命をかけての反発があるはずであるが、それは一切確認できないのである。やはり、《赤松命令説》は虚構である。


3 富山(新城)真順


村兵事主任当時29歳。家永訴訟にのぞみ、《3月20日手榴弾交付説》を証言。(Ⅱ)
(1) 『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』(昭和28年)(乙10)
富山真順が、文献上初めて登場する。ここでは、《3月20日手榴弾交付説》に何ら言及していない。
(2) 『生き残った沖縄県民100人の証言』【昭和46年11月発行】(甲B21)
「3月23日夜、島は大空襲を受け・・・いよいよ決戦だという実感がこみあげてきたのはこのときでした(要旨)。特別幹部候補生も各船舶で特攻する準備を始めていた。顔見知りの学生に会うと、涙を流して『あなたがたは生きのびてください。米軍も民間人までは殺さないから』というのですな。若いのにしっかりした人でした。(中略)自決のときのことは、話したくないんですがね・・・いざとなれば敵を殺してから自分も死のうと・・・いつも二個の手榴弾をぶらさげていた。ところがイザ玉砕というとき、私の手榴弾は爆発しない。」
  ※ 《3月20日手榴弾交付説》は、この時点でも証言されていない。
(3) 『ある神話の背景』曽野綾子著【昭和48年5月発行】(甲B18)
   『ある神話の背景』には、富山真順の話は出ていない。
    《3月20日手榴弾交付説》の証言は、《赤松命令説》とは何ら関係がないのである。
(4) 『渡嘉敷村史 資料編』【昭和62年3月31日発行】(甲B39)p369~372
   「兵事主任」の役割
「昭和十八年秋に、師団動員事務規程が改正になって、防衛召集は、市町村長に委任され、あっち(軍)から赤紙が来ていて、市町村長が、それを本人(召集者)に伝えて、それで市町村長の兵事主任との前打ち合わせがあって連隊区司令部の担当者(足立大尉)と、誰それは次の召集者と定めたりした。」(p369)
    しかし、《3月20日手榴弾交付説》にまつわる話は一切ない。
(5) 小括
富山真順の《3月20日手榴弾交付説》は、金城重明の「誰も貰っていない」旨の証言、手榴弾の交付対象となる吉川勇助の陳述書においても何ら証言されていないこと等から、破綻していると言わざるを得ない。

4 古波蔵(米田)惟好


当時、渡嘉敷村村長。村の最有力者である。(Ⅱ)
(1) 『週間朝日1970年8月21日号「集団自決の島-沖縄・慶良間」』(中西記者)(甲B20)
「自決命令はしなかった、と赤松はいっているが、住民を部隊の陣地へ集合させておきながら、出ていけというのは、住民に死ねというのと同じではありませんか。一番ハラが立つのは、わたしが『機関銃を貸せ、足手まといの島民を撃ち殺す』といったということです。村民を殺したいという村長がどこにいますか。機関銃を借りにいったのは、わたしが自決に失敗した後なのです。敵が接近しているので、敵を撃ちまくってやるといって、頼みにいったのです」
   と語り、部隊に機関銃を借りに行った事実を認めている。(甲B22p22)
※ 中西記者は、曽野綾子と同じく、実際に渡嘉敷島へ行って取材をしている。
    古波蔵(米田)惟好村長は、赤松部隊に、機関銃を借りに行った事実を認めているものの、それは、足手まといの島民を殺すものではなく、「敵を撃ちまくってやる」からという理由となっている。この食い違いについては、『ある神話の背景』(甲B18)で、曽野綾子は、次のように記載している。
   「只、この異常事態の中では、かりにそのどちらであっても、辻つまは合うのである。村民を殺したい、というのも、憎しみからではない。死に切れない人をラクにしてやるというのも、当時の物の考え方からすれば村長という立場に必要な家父長的な態度であったかも知れない。赤松隊長が古波蔵村長について、そのような印象を持ち続けているというのも、一概に相手を非難する意味ではあるまい」(甲B18『ある神話の背景』p128,129)。
(2) 『ある神話の背景』【昭和48年発行】(甲B18)
   「敵が上陸した日は1日どういうふうにお過ごしでしたか」
   「つまり敵は阿波連と渡嘉志久方面から上陸して来ましたですね。それで軍の方も引上げて西山高地へ行ったんです。今の基地の下側の方です。そこに軍は動いた。我々の方は、こんど、そこへ行く手前の恩納河原ですね、そこはずっと川がありましてね、山の際で狭いですから、飛行機の爆撃が来ても、まあ、安全地帯な訳です。そこが砲弾の死角に入るんで安全地帯だと思われたので、そこに陣取っておった訳です。」
「恩納河原へ行くということは、誰いうともなく?」
「誰いうともなくです。そこで一日を通してその翌日の晩、大雨降りです。」(甲B18p117)
「玉砕場にいらしてどうなさいました?」
   「初めからそこを玉砕場と決めていた訳ではないですからね」
   「それは勿論そうです」
     録音機の中の私の声は慌てて訂正している。
   「そこへ集結したらもう防衛隊がどんどん手榴弾を持って来るでしょう」
「配られて何のためだとお思いでした?その時もうぴーんとわかったんですか」
「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですか」
 「それから敵に殺されるよりは、住民の方はですね、玉砕という言葉はなかったんですけど、そこで自決した方がいいというような指令が来て、こっちだけがきいたんじゃなくて住民もそうきいたし、防衛隊も手榴弾を二つ三つ配られて来て……安里巡査も現場にきてますよ」
  「そこで何となく皆が敵につかまるよりは死んだ方がいい、と言い出したわけですか」
  「そうなってるわけですね。追いつめられた状況、手榴弾を配られた状況」
  「しかし配られても、まだきっかけがないでしょう」
  「その後に敵が上がってきたわけです。迫撃砲がばんばん来る。逃げ場がないです……これだけははっきり言えますが、安里(巡査)さんは赤松さんに報告する任務を負わされているから、といって十五米ほど離れて谷底にかくれていましたよ。君も一緒にこっちへ来いと言ったら、そこへは行かない。見届けますと言って隠れていました。」
  「それから誰がどういうふうにして皆、死に出したのですか」
  「そういう状況ですからね、お互いに笑って死にましょう、と」
  「ですけど、手榴弾を抜き出したきっかけのようものがあったんですか。たとえば、かりに誰かがいよいよ決行しようと言ったとか」
  「決行しようは、ないですね。敵が上陸したということが、まあ、いか(け)ないというということですね。何にしてももう決行しようとということになって」
  「皆、喋ったわけじゃなくて、そういう気持になったわけですか?」
  「はい、気持になっているわけです」(p118,119)
「安里さんを通す以外の形で、軍が直接命令するということはないんですか」
  「ありません」
  「じゃ、全部安里さんがなさるんですね」
  「そうです」
  「じゃ、安里さんから、どこへ来るんですか」
  「私へ来るんです」(p122)
 ※ 上記の中で、古波蔵惟好村長は、重要な証言をしている。
    ① 集団自決決行の切っ掛けについて、『敵が上陸』と語っている。
    ② 安里喜順巡査を通す形以外に、軍が直接命令をすることはない。安里喜順は、村長である古波蔵の下に来る旨明確に証言している。しかし、安里喜順巡査から、命令が来たとは言っていない。すなわち、《赤松命令説》を否定しているのである。
(3) 『沖縄県史第10巻』【1974年3月発行】(乙9)p767~769
「私たちは、米軍が上陸すると恩納河原に向かっていた。恩納河原には格好な隠れ場所があった。また一つ山越せば頼みとする日本軍が陣どっていた。恩納川の下流は細く二手に別れていて、左右は絶壁である。」(乙9p767~768)
「安里喜順巡査が恩納河原に来て、今着いたばかりの人たちに、赤松の命令で、村民は全員、直ちに、陣地の裏側の盆地に集合するようにと、いうことであった。盆地はかん木に覆われてはいたが、身を隠す所ではないはずだと思ったが、命令とあらばと、私は村民をせかせて、盆地へ行った。
    まさに、米軍は、西山陣地千メートルまで迫っていた。赤松の命令は、村民を救う何か得策かも知らないと、私は心の底ではそう思っていた。」(乙9p768)
「上流へのぼると、渡嘉敷は全体が火の海となって見えた。それでも艦砲や迫撃砲は執拗に撃ち込まれていた。盆地へ着くと、村民はわいわい騒いでいた。
   集団自決はその時始まった。防衛隊員の持って来た手榴弾があちこちで爆発していた。
   安里喜順巡査は私たちから離れて、三〇メートルくらいの所のくぼみから、私たちをじーっと見ていた。『貴方も一緒に・・・・この際、生きられる見込みはなくなった』と私は誘った。『いや、私はこの状況を赤松隊長に報告しなければならないので自決を出来ません』といっていた。私の意識は、はっきりしていた。』(乙9p768)。
  ここから集団自決の描写(乙9p768)
「私は起き上って、一応このことを赤松に報告しようと陣地に向かった。私について、死にきれない村民が、陣地になだれ込んでいた。それを抜刀した将校が阻止していた。着剣した小銃の先っぽは騒いでいる住民に向けられ、発砲の音も聞こえた。自刃の将校は、作戦のじゃまだから陣地に来るな、と刀を振り上げていた。」(乙9p768)
「私自身、自殺出来ないことが大変苦痛であった。死ぬことが唯一の希望でもあったが、私は村長の職責をやっぱり意識していた。今に、日本軍が救いにくるから、それまで、頑張ろうと生き残った人たちを前に演説していた。
   生き残った中から看護婦の心得のある者を探し出し、防衛隊が救い出して、陣地に運んだという十数名の村民の看病に当てられた。」(乙9p769)
  「私には、問題が残る。二、三〇名の防衛隊員がどうして一度にもち場を離れて、盆地に村民と合流したか。集団脱走なのか。防衛隊の持って来た手榴弾が、直接自決にむすびついているだけに、問題が残る。」(乙9p769)。
※ 『沖縄県史第10巻』(乙9)は、多数関係者の生の証言を収録している。この中の証言をみれば、《赤松命令説》、《梅澤命令説》の虚構は明らかである。古波蔵惟好村長でさえ、《赤松命令説》を語っていない。古波蔵惟好村長は、安里喜順巡査に対して、自決を誘い、安里は、「この状況を赤松隊長に報告しなければならない」と語ったと証言しているのである。
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