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一 南京大虐殺を世界に知らせた人々

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世界に知られていた南京大虐殺


一 南京大虐殺を世界に知らせた人々


南京大虐殺が「虚構」であった、あるいは「まぼろし」であったと主張する論者が共通してあげる口実に、南京大虐殺は、勝者が敗者を一方的に裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)でデッチあげられたもので、その証拠に、それまで日本人は南京大虐殺のことを知らなかった、ということがあります。 

たとえば、評論家.村上兵衛氏は「極東軍事裁判において、いわゆる『南京大虐殺』が日本人を驚倒させたことは、ひじょうなものであった。戦争の終結まで、日本人はそのような『事件』を知らなかった。それも当然のことで、当時、南京にいた内外の新聞記者、カメラマンも誰ひとりそのような事件を見てもいないし、聞いてもいない」といっています(田中正明『南京大虐殺の虚構』日本教文社の表紙の推薦文)。そして、鈴木明氏は「まぽろし説」の由来となった『「南京大虐殺」のまぼろし』
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の著書のなかで、「日本戦犯を血祭りにあげるための『極東国際軍事裁判』」で「勝利者の敗者に対する決定的な優越感」をもった証人によって数十万という途方もない数の大虐殺事件が告発されたことを強調し、同時代資料、一級資料はあまりにも乏しいと述べています。さらに旧陸軍士官学校の同窓会組織である借行社が発行した『南京戦史』(一九八九年)の「発刊の辞」にも「戦後、勝者が敗者を一方的に裁いた極東国際軍事裁判に於いて、所謂『南京事件』なるものが提造せられ」と書かれています。 

このように、戦時下の日本社会がいかに厳しい報道管制と言論弾圧下におかれていたかという歴史事実に目を塞いだうえで、あるいは軍人には厳格な箝口令がしかれていたという事実を棚にあげて、「当時報道されなかったから」「帰還した兵隊も喋らなかったから」「国民は知らなかったから」南京大虐殺はなかったというのは、戦前の歴史・社会を厳密に知らない人々を相手にしてたぶらかそうという狙いがあるからです。 

そこで、こうした南京大虐殺「虚構派」「まぽろし派」の活動の余地を与えないためにも、日本国民は当時南京事件(南京大虐殺事件の略称)を知らなかった、正しくは知らされなかったということがあるけれども、世界の人々はすでに知っていたという事実をもっと明らかにしていく必要があると思います。

これから紹介するのは、当時海外で発表された南京事件関係の報道や報告です。南京事件を伝えたこれら外国の新聞・雑誌は、日本の内務省警保局の手によって発禁処分にされ、日本国民の目にはいっさい触れることがないようにされていたのです。
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南京大虐殺事件が発生した当時、同事件を南京から世界に知らせた人々は、日本軍の南京占領前後に南京に残留し、直接あるいは間接に事件を目撃した人達ですが、次の四つのグループに分けることができます。 

第一のグループは、南京でキリスト教の伝道活動をおこなっていた人たちで、大学教師、医師、看護婦、宣教師など、仕事もさまざまですが、全員がアメリカ人です。彼らは南京安全区国際委員会を組織して、市民を戦火から守るために安全区(難民区)を設定し、難民の保護と救済にあたったのです。表3(本書八二頁)は日本軍占領下の南京に残留していた西洋人の名簿ですが、彼らの多くが南京安全区国際委員会のメンバーになります。 

このグループは、日本軍の南京後略戦前に大多数の外国人は引き揚げたにもかかわらず戦火の中国民衆を救済するという宗教的な信念をもって南京にとどまったのです。そして、南京陥落後も、日本軍による上海への護送の申し出を断って、そのまま南京に踏みとどまりました。 

当時、南京国際安全区には約二五万人の難民が避難していたといわれますが、彼ら安全区委員会のメンバーは、難民の生活の面倒を見ながら、日本軍の残虐行為があまりにもひどいので、何とかそれを止めさせようと、日本大使館に抗議を申し込んだり、談判したり、あるいは国際世論に訴えて、外からそのような蛮行を阻止させる行動が起こることを期待して、海外の報道機関やキリスト教団体に日本軍の行為に関する情報を密かに送り出していたのです。 

第二のグループは、南京のアメリカ大使館のメンバーです。中国国民政府の漢口移転にともなって、ネルソン・ジョンソン中国駐在大使らも南京から漢口へ移動したのですが、さきのアメリカ人伝道団
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グループが残留したため、これらのアメリカ市民の生命の安全を守るためにジヨージ・アチソンら四名の大使館員が、日本軍が南京を占領する直前まで、すなわち一九三七年一二月一二日まで南京にとどまっていました。しかしその日、彼らが避難したアメリカ砲艦パナイ号が南京上流の長江上で、日本軍機に爆撃されて沈没するパナイ号事件が発生し、南京には戻れなくなります。 

そして一時中断があって、翌一九三八年の一月六日にジョン・アリソンら三名の大使館員が、日本軍に南京上陸を許可されて戻ってきます。彼らアメリカ大使館グループは、自分たちで目撃・経験したものと、安全区国際委員会から受けた報告・資料を、逐次ワシントンの国務省に送っています。 

次は第三のグループで、外国人ジャーナリストです。南京は当時中国の首都でしたから、常駐の特派員および日本軍の南京攻略戦を取材するために急遠派遣された特派員もふくめて、各国の報道関係者が残っていました。これらの外国人ジャーナリストは、パナイ号事件に遭遇して二つのグループに分かれます。(日本ではパネー号と呼称されていますが、フィリピンのバナイ島からとった艦船名であり、実際に乗船したことのあるニューヨーク・タイムズ元記者のダーディンも、はっきりと「パナイ」と発音していましたので、正しくはパナイ号と表記すべきだと思います。)  

一つは、一二月一一日夕方、つまりパナイ号事件の前夕、アメリカ大使館員アチソンの懸命な説得にしたがって、砲艦パナイ号に避難した記者たちで、表2(本書五二頁)に名前が載っている八人の新聞・雑誌記者、カメラマンです。この頃は、日本軍機による南京市内の爆撃がひんぱんに行われ、また日本軍の南京包囲網も狭まって、砲弾が城内にも撃ち込まれる状況になっていました。そのため、南京アメリカ大使館の分室をパナイ号内に設け、南京残留の外国人は、夜間は同号に避難して宿泊し、
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昼に戦況を確認してから南京市内に上陸して仕事をするということをやっていました。一二月一二日の午後、彼らはパナイ号に乗船したまま、日本軍機に撃沈される事件に巻き込まれ、その模様を世界にスクープしますが、翌十三日の南京陥落と南京事件の報道はできませんでした。この時、イタリア人記者のサンドロ・サンドリが犠牲になって死亡します。 

もう一つは、新聞記者魂といいますか、命の危険を顧みず、首都南京が陥落する歴史的瞬間を取材しようと、パナイ号への避難を断り、日本軍の爆弾と砲弾の落下する南京城内にとどまった新聞記者、カメラマンです。彼らこそ、日本軍の南京占領を南京城内にいて迎え、初期の段階の残虐事件を目撃・取材して、世界に報道したジャーナリストです。彼らは表(本書四八頁)に名前を載せた五人ですが、その中で最も旺盛に南京事件を報道したのは、『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンと『シカゴ・デイリー・ニューズ』のスティール記者です。この二人とも存命でしたので、私自身アメリカにいって二人を訪問し、(その経緯は拙稿「『南京大虐殺事件』アメリカ取材記」『近きに在りて』第二〇号、一九九一年一一月、汲古書院、に紹介し、さらに「F.T.ダーディン、A.T.スティールからの聞き書き資料」を前掲『南京事件資料集『(1)アメリカ関係資料編』に収録した)。→※ゆうさん「小さな資料集」

そして第四のグループが南京に在住していたドイツ人と、南京ドイツ大使館員になります。一九三六年に日独防共協定をむすび、おなじファシズム国家として日本と同盟関係にあったこともあって、南京在住のドイツ人は他の外国人よりはその安金が保障される立場にありました。それゆえ、一民間ドイツ人でも日本軍占領下の南京にとどまっていました。彼らの名前は表3の最初に載っていますが、
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ジーメンス社のジョン・ラーべ、上海保険会社のエドワルト・スペルリングら五人の商社員です。彼らは日本との「友好」関係を利用するかっこうで、南京安全区の委員になり、日本軍の暴行から中国市民の生命を守るため、とりわけ、日本兵の凌辱行為から婦女子を護るために大活躍をします。ラーべは熱心なナチス党員で南京のナチス党支部長でしたが、南京安金区国際委員会の委員長をつとめ、アメリカ人と協力して日本軍の蛮行に抗議する行動を起こしています。

さらに南京ドイツ大使館員がいました。トラウトマン和平工作で知られる中国駐在ドイツ大使オスカー・トラウトマンが一九三七年の一一月下旬に漢口に移動したのち、外交官のローゼン博士が南京ドイツ大使館(正確には南京ドイツ大使館分館)の実質的な責任者になりました。ローゼンらドイツ大使館員は日本軍の南京占領直前まで留まっていましたが、一時漢口の方に避難し、日本軍占領直後にイギリス砲艦ビー号に便乗して南京に戻り、一二月一八日から二〇日にかけて南京付近に停泊し、上陸の許可を求めますが、日本軍当局に拒否されます。ローゼンが南京に帰還して大使館業務を再開するのは、翌一九三八年一月九日ですが、彼の場合、南京陥落前後の状況にも精通し、直接、間接に見
聞した日本軍の蛮行を怒りをこめてドイツ外務省に報告しています。

このローゼン外交官の報告記録を中心とする南京ドイツ大使館の文書が、ポツダムにあった旧東ドイツの中央公文書館に保存されていて、その一部が最近日本でも紹介されました。その中に、ローゼンが、後述するジョン・マギー牧師撮影のフィルムの提供を受け、安全な経路で外務省に届けると書いています。その「南京における日本軍の残虐行為の映像記録」と題する報告文書のなかで、ローゼンは、「映像記録は日本軍によってなされた残虐行為を雄弁に物語っている」と述べ、さらに各カッ
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トの英文の解説も同封して「映画自体と同様、この解説も身の毛もよだつようなドキユメントであり、総統にも是非・映画を解説の翻訳文とともに御覧になっていただきたいと願うものである」と書いています(旧ドイツ民主共和国・中央公文書館文書、在中国ドイツ公使館・大使館記録、南京分館発一九三八
年二月一〇日付け外務省宛報告)。

以上お語した・おおまかに四つのグループに分けられる南京残留の外国人によつて、南京大虐殺事件は直接あるいは間接に目撃・見聞され、発生した当時から世界に知らされていたのです。まさに、知らぬ(知らされぬ)は日本国民ばかりなり、という時代状況、社全状況が戦前にはあったということです。



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